根のないもの
沙原芥子
根のないもの
きみは浜を駆けていた。白く長く延びた脚が砂にのまれては抜け出した。ぼくはその繰り返しを眺めながらぼんやりときみのことばを反芻していた。
──だから今夜きっと会おう。
声変わりをして間もない真ん中の音のほど。焼けない肌に映えるくちびるの赤、どこまでも黒い髪、きみはうつくしかった。だれが見たってうつくしかったのだ。だってきみはそういう生物だった、そういう血が色濃く流れていた。
「おとなになったファノイを見たことがあるか」
「ファノイはおとなにならないんでしょ」
愚かなぼくをきみは笑った。意地悪い笑い声が喉の奥ではじかれるように鳴った。
なるよ、なるんだよ。
いつでもまっすぐだった視線が揺れる。ぼくではないだれかを、あざけるように呟いた。
「ぼくらはおとなになるまえに死ぬだけだよ」
むかし人間は肌の色で人を種別したという、けれどもいまは、それどころかもっと明らかなちがいが生まれていた。圧倒的な能力差という形で、人類は新人類に劣った。かつて「花の賢者」と称された彼らをぼくらはいつしかファノイと呼ぶようになった。ファノイはぼくら……「人類」としてそれなりにやってきた者たち……を種として区別する際にはプレンと呼ぶらしかった。これはつまり、普通、という意味だった。こういう人種問題で揉めることも無くなったわけではないが、社会の重要なポストにつくのはプレンだけという条件で、いまはそれなりに折り合いをつけている。
ファノイは身体の弱さに代わりそろって精神的に早熟で、長い手足を持ち、うつくしかった。そんな訳だから家庭教師がつききりのファノイたちのなかで、きみはぼくらのクラスルームに所属した数少ない少年だった。いっしょに昼食をとり、許される限りの運動もして、たいへん利口で、いつもこころを研ぎ澄ましていた。そして引く手数多の友人候補には目もくれず、きみはぼくを選んだ。花の賢者には到底ふさわしくない、そばかすだらけで、みすぼらしいぼくを。
ぼくはファノイに憧れていた。彼らはなんでも持っていた。自らより劣るプレンに対しての寛容さも、すばらしく思った。一度ぼくはこの話題にのぼせて、きみにさんざん語ったことがある。熱っぽくなったぼくに対してきみは冷めた目で、まるではじめから用意していたかのように吐き捨てた。
「ぼくらは絶えるべきなんだよ」
睫毛が翳る。人形めいて変わらない顔色とは裏腹に、きみの声は怒りか悲しみかで震えていた。口もとを抑えたぼくを見て、きみははっとしたように目をすこし見開いた。ごめんね、でもぼくは……ときみは続けた。それ以上は聞かなくても分かっていた。きみは誰よりもおのれの血を誇り、憎んでいた。
きみはひとしきり波を蹴って砂をすくったあと、息を切らしてぼくのところへやってきて、砂のなかにちいさな蟹が潜っていった、とうれしそうに話した。ぼくはきみの上気した頬についた砂を払う。その肌はしっとりとして、やわらかだった。こんなにすてきなきみが……、と言いかけたのに、喉につっかえて声も出ない。ぼくらはおとなになるまえに死ぬだけだよ。何十年先の話だと思っていた「死」が目前に迫ってくる。それなのに蟹の話なんかどうだっていいじゃないか、そう思うんだけれど、ぼくはファノイじゃないからきみが何を見ているのか分からない。
きみはそしてうつむいたぼくの顔をのぞきこんで、問えないことばを汲み、やさしいんだ、と微笑んだ。それから、残酷だね、とも言った。ぼくはその目を見られなかった。きみのその目は孔雀の羽根のような色をしていて、ひかりの加減で陰影を変えていく。まだわずかに弾む吐息がかかった。月光に冷える夜霧に、それはひどく熱かった。
「ぼく死ぬよ」
ファノイ、うつくしいもの。破滅の美。だれもがきみを賛美した。それでもきみはぼくを選んだ。
「……どうして」
ぼくはようやく、頭の悪そうな声を絞り出した。きみが言ったなにもかもを思い出したいのに、記憶が絡まってうまく繋がらない。どうしてぼくを? どうしてきみが? なめらかで、しかし血の通った熱っぽい肌。いつもぼくを導いてくれる利発な言葉。それが喪われるということが……死?
「……ファノイは絶えるべきだって、だから死ぬの? みんなそうなの? もっとたくさん……話がしたくて……ぼく、だから……嫌だよ……」
きみは伸びてきた髪を弄りながらなんともないように聞いていた。他人ごとみたいだった。その態度は冷徹なようで、子どもの根源的な問いに誠心誠意応えたがる不器用な学者のようでもあった。
「萎れた花ってうつくしいかな」
「わからない、……わかんないよ」
きみはまた悪戯っぽく微笑った。ぼくはこんなにも泣きそうなのに、こんなにも混乱しているのに、きみはそういうものを見るといつも宥めるように微笑うのだった。
「ねえ、きみのそういうとこ好きさ」
髪を撫でる指から潮の香がする。すき、ということばに意味を見いだそうとして、うろたえ、ぼくはきみの手が離れてもなおうつむいていた。きみがプレンなら、ぼくらはきっと、こんなふうではなかったのだろう。
はじめて「好き」をきみの唇から聞いたのは最初の日だけだ。水面下の鳥みたい、そういうのぼく好きだよ……そばかすを気にして頬に手をやったぼくに、笑ってきみはそう言ったのだ。唇の赤色が目蓋に焼きついている。まだふた桁にもならない年のころ、すでにきみのうつくしさは成熟に近かった。
「ぼくのなにが、」
顔をあげたとき、影はひとつきりだった。ぼくの足元から、長く長く、それは海までとどいていた。ぼくは呆気にとられながら、ばかみたいにきょろきょろ見回したあと、月光とぼくの影との交点を見つめ、そのときふと、きみのしなやかな手足が尾ひれになったのを想像した。
その日を最後にして、きみは二度とクラスルームにはあらわれなくなり、かといって、うつくしい死体がおびただしい花の香りにうずもれることもなかった。だれもゆくえを知らなかった。ぼくが唯一知っていたのは、きみはとても気高く、不躾な接触を嫌ったことだった。そしてきっと、醜くあえぐものを愛したということ。すくなくともきみは、考える生きものとして生きるには利口すぎたし、繊細すぎたのだ。
魚になりたかったのかもしれない、とぼくは思った。けれども鱗をひとひら、いつまでも宝物にすることさえも、きみの誇りは許さないのだろう。なぜなら咲き誇った花はその存在の形跡ごと衰退を隠してしまったからだ。きみはしずかな醜さをたまらなく嫌っていた。きみたちはあまりにも美に厳格だった。けれどもかなしいことに、そんなきみを、ぼくはこころから……上書きされない記憶だけが、思い出という形でうつくしく残る。
根のないもの 沙原芥子 @akutako_s
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