お試しで喚ばれた聖女なのに最強竜に気に入られてしまいました。

②

（……一回、空気を入（い）れ換（か）えようかな）

　ため息ばかりこぼした空間には、目に見えない重苦しいものが澱（よど）んでいる気がする。

　ミコは億（おっ）劫（くう）そうに立って、ちょっとしたウッドデッキが設けられた東側の窓を開けた。今日初めて感じる外の新（しん）鮮（せん）な空気の爽（さわ）やかさに、ミコは思わず深呼吸をする。

　耳を吹（ふ）き過ぎていく、わずかな風の音の心（ここ）地（ち）よさに浸（ひた）っていると──

『……何をしているんだ？』

「っ!?」

　目の前の光景──青年姿のジルが（なぜか紙（かみ）袋（ぶくろ）を抱えて）窓の外に現れたことにびっくりしすぎて、ミコは飛び上がりそうになった。幻（げん）覚（かく）!?

　確（かく）認（にん）のため瞼（まぶた）を強めにこすってみて、その姿が消えないことから現実だと受け入れる。

「ど、どうされたんですかジルさま？」

『……俺が来てはいけないか？』

「いえ、何もいけなくはありませんけど……」

　いけなくはないが、おかしい。

　だって、人間ひしめくここはジルにとって、好んで近寄りたい場所ではないはずだ。

　実際に歩いてみたら、思いのほか人間の街は楽しかった！　なんて、浮（う）かれた雰（ふん）囲（い）気（き）などはなかったはずである。

（どうしたんだろう。何か忘れ物でもあったのかな？）

　と、ミコが推察しているうちにジルは窓から室内に入り、持っていた紙袋をテーブルにのせた。中にはくるみのベーグルと、プレーンマフィンがいくつも入っている。

（あれ？　これってわたしの好きな……）

「ジルさま、このパンたちは？」

『……ここに来る途中で、昨日会った丸っこいパン屋の男と火事の現場にいた陽に焼けた男から渡（わた）された』

「パン屋のおじさんたちが？　なんでまた……？」

『言葉が理解できないから、俺にもよくわからない』

　説明しながら、ジルは暖（だん）炉（ろ）の前の椅子に腰（こし）を下ろす。ミコも真向かいに座った。

『……ただ、荒（あら）々（あら）しさのない顔つきからして、何かいい意味合いだったんだろう』

　そう口にするジルの空気に、冷えたものはない。

（……そのときの様子、見てみたかったな）

　現場にいなかったのでなんとも言えないけれど。

　おそらくパン屋の主人たちは、ジルに何かしらのお節（せっ）介（かい）を焼いたのだ。

　そしてジルはジルで彼らを排（はい）すべき敵とみなさず、好意的な態度をおろそかにすることなく受け取った。

「ジルさまが人間のことをわかってくれて、よかったです！」

　ミコはしぼんでいた気持ちを隠して、明るい笑（え）みを浮かべる。

　これほど落ち込んでいなければ、ジルの認識の変化をもっと喜べたかもしれないと思うと少し残念な気持ちだ。

『──目が腫（は）れているな』

「え？」

『今日は太古の森に来なかっただろう。──誰かに泣かされたのか？』

　ふいに、ジルのまっすぐな視線が刺（さ）さった。

　触（ふ）れられたわけでもないのに、まるで捕（と）らえられているような心地になる。

「ぜ、全然違います！　……実は昨日、小説を読んでいたら涙と手が止まらなくて……」

　ミコは顔が暗く見えないように、大げさに笑って嘯（うそぶ）く。

『昨日、様子がおかしかったことが原因じゃないのか？　……もしかして俺が何かしたのか？』

「いいえ、本当に何もありませんから！　心配をおかけしてしまってすみません」

　ごまかし笑いを取（と）り繕（つくろ）ったまま、しっかりしろ自分とミコは己を律した。

　なんら悪くないジルにいらぬ心配をさせてしまったことは痛（つう）恨（こん）の極（きわ）みだが、これは絶対に隠しておかなければならない。

　落ち込んでいる身勝手な理由を、ジルには知られたくないから。

『……まったく』

　肩（かた）をすくめるなり腰を上げたジルはその足で、ミコの真横に立った。

　それから強（ごう）引（いん）にもミコを椅子ごと自分の真正面に向ける。

　絨（じゅう）毯（たん）に膝（ひざ）をつくジルが下から覗（のぞ）き込んでくるものだから、普（ふ）段（だん）との立ち位置の違いに奇（き）妙（みょう）な焦（あせ）りを覚えた。

「ジル、さま……？」

『……似合わなすぎるんだよ』

　真（しん）摯（し）な光をたたえた深（ふか）紫（むらさき）の瞳が、こちらをじっと臨（のぞ）んでくる。ミコは息を吞（の）んだ。

　あまりに強くてまっすぐなその視線と向き合うのは、後ろめたさを抱えた身ではしんどくて顔を背（そむ）けたいのに、ジルの瞳に捕らわれてしまって微（び）動（どう）だにできない。

『ミコには噓が似合わない』

　内なる深（しん）淵（えん）を見（み）透（す）かすかのようなまなざしと、訴（うった）えかける台詞（せりふ）が止（とど）めだった。

　そんなものを受けたら、もう、とぼけることなんてできなくて──

「…………わ、たし」

　躊躇（ためら）いがちに、ミコは重い口を開いた。

「王太子に、お試しで、この世界に喚（よ）ばれて。……太古の森で、魔（ま）石（せき）の採（さい）掘（くつ）をしたいから、守（も）り主（ぬし）を、この能力を使って説得して、転居させることができれば、元の世界に帰してやるって、言われて。……家族に、もう、会えなくなるのは絶対に、嫌で。それで使いとして、ジルさまのところに、行ったんです」

　訥（とつ）々（とつ）と語るミコは込（こ）み上（あ）げてくる涙を堪（こら）えて、震（ふる）える唇（くちびる）を嚙（か）みしめる。

　喉（のど）を締（し）め上げられたみたいに、息がうまくできなくなった。

「だけ、ど、昨日広場で、王都にいる騎（き）士（し）が元の世界に、帰る方法はないって話しているのを、聞いてしまって……別の人にも確かめたけど、やっぱり元の世界に、帰る方法は、ないって……わたし、帰れるって当たり前に、信じてて……」

　喋（しゃべ）るごとに呼吸が苦しくなる。

　心音がどくどくと、嫌な音を立てていた。

「ジル、さまに、この期に及んで、こんなことを聞くのは、図（ずう）々（ずう）しいってわかっているんですが……何か、知っていることがあるなら、教えてください……」

　黙（もく）して耳を傾（かたむ）けていたジルは一度瞑（めい）目（もく）してから告げる。

『……召（しょう）喚（かん）の儀（ぎ）式（しき）が存在することは知っていた。──だが俺は帰る方法については、見たことも聞いたこともない』

　むやみに安易な期待を抱（いだ）かせない誠実な返事であり、この上ない決定打だった。

（二百年以上生きているジルさまも知らないのなら……）

　──元の世界には、もう帰れない。

　タディアスからの話を聞いても、理性は逃（に）げ道（みち）を残すようにどこかでまだ拒（きょ）絶（ぜつ）していた。それが今度こそ本当に可能性を断（た）たれて、かつてない失意がミコを襲（おそ）う。

　瞳からは大（おお）粒（つぶ）の涙が堰（せき）を切ったように流れ出した。

　昨夜もたくさん泣いたのに、拭（ぬぐ）っても拭っても、涙はこんこんと湧き出てくる。

（涙が、止まらない……）

　瞳の燃えるような熱が、全身を侵（しん）食（しょく）していくかのようだ。

　二度と家族や友人に会えない寂（さび）しさと辛（つら）さが噴（ふ）き上げるこの胸の痛みは、のほほんと生きてきた身には覚えのない鋭（するど）さで、どうしたらいいのかわからない。

（馬鹿だな、わたし……）

　ミコは泣きながら胸中で自（じ）嘲（ちょう）する。

　アンセルムの言葉をこれっぽっちも疑わなかった。言われたことをそのまま信じた自分はなんと単純で浅はかだったんだろう。

　帰りたいというエゴにまみれた理由で、優（やさ）しいジルを転居させようとしてしまった。

　摩（ま）訶（か）不（ふ）思（し）議（ぎ）に溢（あふ）れたこの世界のこと。どこかに創造の神というものが実存していてもおかしくはない。

（きっと、罰（ばち）があたったんだ……）

「……別の場所での密（みつ）猟（りょう）の話も、作り話なんです。……身勝手な真似をしてごめんなさい、ジルさま」

『──始めは、ミコを面倒な奴（やつ）だと思っていた』

　ジルの台詞に、ミコは反射的にびくっと震えた。

　しかしどんな恨（うら）み言（ごと）をぶつけられても、それはすべて自分のせいなのだから受け入れるべきだ。ミコは覚（かく）悟（ご）を決めて膝の上にある手を握りしめる。

　けれど──

『だがミコは振られた無茶をへこたれることなくがんばった──俺を森から転居させたい理由が噓だと、なんとなく気づいていたしな』

（……え……）

『目的がなんであれ、ミコは森を大事に扱（あつか）い、森に棲（す）む生き物たちを守ったんだ。そんなミコを身勝手だとは思わない』

　かけられたジルの声の色は、心にまとわりつく暗（くら）闇（やみ）を溶（と）かしてしまいそうなほどにやわらかいものだった。

　無意識に深くうつむいていたミコはそろそろと視線を上向かせる。

　見上げてくるジルは、ミコに目を注いでいた。

『俺はここが生まれた場所で、ミコが帰りたいと思う気持ちに共感してやれない。それでも家族に会いたいという気持ちなら少しはわかってやれる。──もしまた会うための方法があるのなら、縋（すが）りたいと思うのが当然だ』

　──どうして、ジルさまは。

　こんなにも、苦しい心を軽くしてくれるような優しい言葉をくれるのだろう。

　なんのおもねりも衒（てら）いもないから、水のようにすんなりと、胸の内側に染（し）み込んでいく。

『自分を責めなくていいから、泣くな。……ミコに泣かれると落ち着かない』

　やにわに視線を外したジルは、立ち上がりざまその大きな手を伸（の）ばしてきて──

（……頭、を？）

　撫（な）でられている。

　まるで初めて子犬を撫でる小さな子どもみたいにぎこちなく、慎（しん）重（ちょう）な手つきで。

「ジ、ルさま、何をして……？」

『ソラはぐずっているとき、こうすると泣（な）き止（や）む。……痛く、ないか？』

「……え、はい。ちっとも……」

『……ならいい』

　ジルは肩の力が抜けたように呟（つぶや）いて、『これは？』といちいちうかがいながら、ミコを撫でる手の力加減を探（さぐ）るようにして、徐（じょ）々（じょ）に変えていく。

　予期せぬ事態に呆（ほう）けるミコの瞳からは、涙がすっかり引っ込んでいた。

（どうして、ジルさまはこんなことを……？）

　ソラへもこうしているようなので、もしかしたらたいした意味はなく、単純に泣き止ますための手段を取っただけかもしれない。

　ただ、ジルはミコへの加減を間違えないように並々ならぬ注意を払（はら）っている。

　そのことだけは、置いた手の優しさから容易に察せられた。

（人間嫌（ぎら）いのジルさまが、人間にこんな真似をしたことがあるとは思えない）

　だが不慣れな手つきからはこちらを傷つけるつもりがないと伝わるので、恐（きょう）怖（ふ）感はない。それどころか、大きな手に包まれている感じには安（あん）堵（ど）さえ覚えた。

　贈（おく）られた言葉と手がくすぐったい。

　でもそれ以上にジルの思いやりがとても嬉しくて、ミコは自然と笑った。

「励（はげ）ましてくれて、ありがとうございます。……ジルさまは本当に優しいですね」

『……そんなことを言う人間はミコぐらいだ』

　端（たん）正（せい）な美（び）貌（ぼう）は表情の変化が顕（けん）著（ちょ）ではないため、感情の機（き）微（び）を把（は）握（あく）できない。

　けれど、ジルは種族や境（きょう）遇（ぐう）が違うからと諦（あきら）めるのではなく、わかることから考えてミコに寄（よ）り添（そ）おうとしてくれる。

　そのあたたかみのある気持ちは手のひらからひしひしと伝わってきて。

　ジルの静かな優しさにくるまれていると、胸がいっぱいになってまた涙が出そうになる。

（……ごめんなさい。その優しさに、少しだけ甘えさせてください）

　ミコは心の中で謝り、ぎこちない大きな手に頭をそっとすり寄せた。