──お母さん、お兄ちゃん。天国にいるお父さん、コタロウ。

 残念ながら、元の世界に帰ることはできなくなりました。

 悲しいし、寂しい。あんまり孝行できなかったなとか、大事に育ててくれた感謝をきちんと言葉にして伝えられなかったとか、心残りもいっぱいある。

 だけど現実から目を背けてずっとほうに暮れていたら、しっかりと前を見て人生を歩めって、みんなはきっとわたしをしかるよね。

 泣いても、笑っても、流れるときは残酷なほど平等で。

 だったら笑って過ごす方がいいに決まっているから、わたしは──

 この世界で、できることを全力でがんばって生きていきます。


(……って、胸の中で決意を語れるようになったのに……!)

 昨日のジルのお宅訪問を機に、ミコは思考を前向きにめぐらせるまでに精神が回復した。

 元気を取り戻してくれたそのジルから太古の森へ来るように言われたため、ミコは昼前には太古の森へとやってきていた。

 ──来たのだが、彼女は森の入り口近くの草むらでかがみ込んだまま動かないでいる。

『ミコ、だいじょうぶ?』

 ミコの足元でおとなしく待機しているソラが首を横にたおす。

「だ、大丈夫だよソラくん」

(ここに来てなんでこうなるんだろう……)

 ミコは恨みがましい視線で頭上をあおぐ。

 森の上に広がるのどかな青空では、鳥が輪をえがくように飛んでいた。

 しかし、ミコの心象風景はまったくの真逆で、発達した台風がちょくげき中といった具合だ。

「ソラくん、ごめんね。もうちょっとだけ待ってくれる?」

『うん! ボクまつの!』

 しっを振るソラを撫でさすっていると、心の中でれ狂う台風の勢力がにわかに弱まる。それでもまだまだ予断を許さない状態に変わりはないが。

(わたしの平常心、どこに行ったの……?)

 一言で言えば今のミコは、ジルに会うのがもうれつに照れくさいのだ。

 ──立ち直れたのは、ジルが励ましてくれたおかげだけれど。

 昨日、ジルが帰って時間が経つごとに平静さを取り戻すのとへいこうして、ミコはやたらとジルの言葉を思い出すようになった。

 ──『おひとしで、放っておけば無茶をしでかしかねないからな』

 ──『……どうしてだろうな、ミコの声は俺の耳によく届く』

 ──『……ミコが危ないと俺が苦しくなる』

 ──『自分を責めなくていいから、泣くな。……ミコに泣かれると落ち着かない』

(もうはんすうやめてぇ!)

 ミコは内心でぜっきょうした。

 じんも気取っていない男前な台詞が脳内に流れるばかりか、せんめいしい姿までついてくる。

 おかげでミコはひんぱんもだえて、顔を熱くする事態におちいってしまっているのだ。

(馬車の中で、だいぶ心の準備をしたはずなのに……)

 全然だめだった。いざ太古の森に足を踏み入れたら、ずかしさがめらめらと再燃してしまってどうと体温のじょうしょういちじるしく、ここから一歩も動けない。

 そうこうしている間にも、ミコには出逢いから現在までのジルとの思い出が引かない波のように打ち寄せ続けている。

(色々と思い返してみると、ジルさまは二百三十八歳だけあって、ここぞというときの余裕とかんろくがすごい。……わたしを撫でる手つきは、ぎこちなかったけど)

 その慣れていない感が、いっそずるい気がしないでもない。

(……すごく、あったかかった)

 自分たちの体温差についてはわからないけれど、ミコがそう感じたのはたぶん、励まそうというジルの気持ちがのっていたからだ。

 恥ずかしさはあるものの、できるものなら、また……

「撫でてほしい……」

 口をついて出た自分の願望があまりにも正直で恥ずかしい。

 自分で言っておきながらほおにますます血が集まって、もっと熱くなった。

 心音が耳元で聞いているとかんちがいしそうになるほど大きくて、変な感じがする。

 何か──体の中でずっと眠っていたものを揺り起こされるようで、ミコはどぎまぎしてしまう。

「…………これって……」

 と、ミコがの鳴くような声をこぼしたときだ。

『──こんなところにいたのか』

 ふいに視界がかげり、低く甘い美声が上から降ってきたものだから、ミコはおどろいて勢いよくねた。

 目の前にはジルそのひとが立っている。

 今の今まで考え続けていたため、ミコはこれまでにないほどろうばいした。

「じ、じじじじ、ジルさまっ!?」

『……何もとって食いやしないから、そうおびえるな』

「いえ、あの、怯えているわけではなくて……」

 動転しただけです。だっていきなり現れるから!

「な、なんでジルさまがここに?」

『ソラが迎えに行ってから、時間が経ったからな。……何かあったのかと思った』

(……どうしよう)

 嬉しい。ジルが自分のことを気にかけてくれていることが、すごく。

 胸がどうにもきゅんとして、頰がだらしなくゆるんでしまうのを止められない。

「ご足労をおかけしてすみません、ジルさま。なんでもありませんので」

『……ここから直接向かった方が近いな』

 ぼそりと言うなり、ジルはこちらへやおらみぎうでを伸ばしてきた。

 逞しいそれは流れるようにミコの背中に回され、左腕は膝裏に差し入れられる。

 そのままなんと、ジルはミコをひょいと抱え上げてしまったのだ!

『……軽いな。ちゃんと食べているのか?』

「○×□△!?」

 口から心臓が飛び出しそうになり、言葉もゆく不明になった。

 人生初となるおひめさまっこを、そこはかとない色気をはらんだじょう(正体はりゅう)にされてしまったミコの全身は真っ赤に染まる。恥ずかしすぎて、息ができない!

 石像ばりにこうちょくして赤面するミコをジルは上から覗き込む。

『心配しなくても、ミコへの力加減ならもう覚えた。……こわしたりしないから安心しろ』

(ちか、ちか、近いいいっ! その筋の通った鼻がわたしの鼻に当たりそうっ!)

 うるわしすぎる顔面が、こう至近きょにあってはたまったものではない。

 異性とのスキンシップにはてんでたいせいのないミコの心の臓は悲鳴を上げた。

「ジ、ジルさま、あの、腕が痛くなりますから、おろ、下ろしてくだひゃいっ」

 しゅう狼狽うろたえすぎて、嚙んだ。

こころづかいはありがたいが、きゃっだ』

「却下!?」

『このままの方が早いからな。──行くぞ、ソラ』

『はーいなの!』

「えっ? あの、この体勢でどこ──」

 ちゅうはんなところで、ミコの言葉はれる。

 なぜなら──信じられないことにジルはミコを横抱きにしたまま、背の高い大樹のせんたんまでび上がったのだ。ソラもおくれずついてきている。

(なんて身体能力……!)

 ジルは高所のから樹へと、羽でも生えているかのようなかろやかさでちょうやくしていく。下を見たら足がすくむ高さである上、速度は矢のように速い。

 恥じらいよりも恐怖の勝ったミコは、ジルの逞しい肩にりょううでを回して力いっぱいしがみついた。


『……コ。ミコ』

 耳のそばで呼びかけられ、ミコはふっと瞼を開ける。

 太古の森の奥を目指していると、途中できゅうしゅんがけになっている場所があった。

 へいたんだと思っていたため驚いた矢先に、ジルがゆうぜんと降下して──どうやら、落下の恐怖で軽く意識が飛んでいたらしい。

『着いたぞ』

 言って、ジルはミコを地面に下ろした。

 恥ずかしい姫抱っこから解放されたミコは四つんい状態ですーはーと、ここぞとばかりに酸素を肺へ送り込む。空気ってだいだ。

『ミコ、どうしたの?』

 呼吸の大切さを実感しているミコの横から、ひょこっと顔を覗かせてくるのはソラだ。

『どこかくるしいの?』

「大丈夫だよ、ソラくん」

 あごをゆっくり撫でてやると、ソラは気持ちよさそうにそうぼうを細めた。もうわいいっ。

 足元にソラをはべらせたまま起き上がったミコは視線を周回させた。

 目の前にはんだせせらぎをかなでる小川が流れていて、そよ風がおだやかな水面を撫でる。

 小川のその奥には、緑がしげに隠されるようにしてひっそりたたずむ、森厳なるどうくつがあった。陽光がし込む洞窟の左右のわきには見たことのない、うっすら発光する金色ののような花々がけんきそうようにしてみだれている。

(緑をはぐくむ洞窟に、光る金色の薔薇……!)

「う、わあ……! れい……!」

 心が洗われるような絶景にうっとりするミコの横で、ジルは目を細める。

『ここは太古の森の中でも深部に位置する、のうみつりょくに溢れた場所だ』

「すごいですね……空気がせいひつというか……」

 おごそかで、神聖な雰囲気がある。神が出現してもなんら不思議ではないくらいだ。

 自然に囲まれていると心身のつかれが吹き飛ぶけれど、げんそう的で印象的なこの場所はたきや山とはレベルが違う。心と身体から、悪いものがすべて抜けていくかのようだ。

「こんな、夢みたいに綺麗な景色を見るのは初めてで、感動しました……っ!」

『……気に入ったのか』

「はい! 一生の思い出になりそうです!」

『見たいときは連れてきてやるからいつでも言え。……太古の森には他にも美しい場所があるから、いずれそこにも案内する』

「……ジルさまがですか?」

『他に誰がいるんだ……?』

 それはつまり、ジルもつき合ってくれるということだ。

 ミコにはかんのためという建前がなくなってしまった。

 それでもこれまでと変わらずジルと交流したいが、あちらはどうなのだろうともんもんとしていただけに、ジルも自分を同じように考えてくれていたのにほっとして、嬉しくなる。

「じゃあこれから、太古の森のことをたくさん教えてくださいね!」

 ミコは満面の笑みを浮かべた。

『……ああ』

「ありがとうございます! ジルさまのおかげで、これからのことをすがすがしい気持ちで考えられそうです」

『これからのこと……?』

「はい。わたしはこの世界で生きていくので」

 今のミコにはジルを転居させるつもりなど毛頭なかった。

 そうなると、自分が今後どういった立ち位置になるのかはわからない。

(王太子との取引を無効にすることになるんだよね)

 なんらかのしょばつを受けるじょうきょうになるかもしれない。でも、そもそも取引からしてきょうはくじみたものだったのに、さらにばっせられたらじん極まるけれど。

つうの街の人たちと同じように、働いて暮らしていけたらとは思うんですが……」

『……なら手始めに、あの洞窟にある魔石でも持っていくか?』

「魔石?」

『オリハルコンという、能力のりょくぞうふくさせるものだ。……人間は金というものがいるんだろう? あの魔石はそれなりに希少だから結構な価値になるんじゃないか?』

 申し出についてはすごくありがたいのだけれど。

『必要なら採ってくるぞ?』

「え、と、実はあれを必要としていたのが、わたしをここへ使わした王太子で……」

『……悪い、連れてくる場所を間違えた』

 正直に白状してしまうと、決まりが悪そうにジルは目をせる。

 ミコはあわててかぶりを振った。間違えただなんて、そんなこと絶対にないと力を込めて。

「いいえ、連れてきてくれて本当に嬉しかったです! ──そういえば、どうしてわたしをここに?」

『ミコは落ち込んでいただろう。……綺麗な景色でも見れば、少しは気晴らしになるかと思っただけだ』

 ──元気づけるために、連れてきてくれたの?

 そうだとしたら言葉にきゅうする。ジルが自分のことを考えて行動してくれた感謝はもちろんだけれど……申し訳ないから。

 これまでジルはたくさん話をしてくれた。ほのおから守ってくれた。はぐれたらさがしに来てくれた。たんに暮れているときは励ましてくれた。

 辛くてしずみかける心をジルが引き上げてくれたから、ミコは膝をつかなくてすんだ。

 ジルからの思いやりは枚挙にいとまがないのに、自分は何もできていない。

「……気持ちは本当に嬉しいです。……わたしはジルさまには助けてもらってばかりですね……」

『俺は何もしていない。……だが、ミコにそう思われているならよかった』

 頭に手が置かれる。ぽんぽんと、軽くたたく手がやけに優しい。

 こんなふうに大切にされたら、無意識に自重していた気持ちのタガが外れる。あわい期待に胸がさわいでしまう。

 ──その心に踏み込むことが、許されるのでないかと。

「…………ジルさま。気になっていたことをいてもいいですか?」

『ん?』

「こんなにも優しいあなたが、どうして」

 きゅっとスカートのすそを握り、ミコは勇気を振りしぼってジルをまっすぐ臨む。

「──人間を、かたくなに敵視するようになったんですか?」

 ジルの目がほんのわずかに揺らいだ。

『………………』

 落ちたちんもくが耳に痛い。

 こばまれるかもしれないこわさに表情がこわる。それでもミコは視線を外さない。

 ミコから目をらさずにいたジルが、つっと視線を下向けた。

『……ソラ』

 ミコの足元で伏せをしていたソラが、呼びかけに応じて『なあに?』と首を傾げる。

『ミコと話をするから、向こうで遊んでいてくれるか』

『うん! じゃあボク、おさんぽしてくるの!』

 よい子の返事をしたソラは軽い身のこなしで茂みに飛び込んでいった。

『……少し長くなるが、かまわないか?』

「──はい」

 ミコがしんみょうにうなずくと、手近な木の根元に腰を下ろしたジルが隣を叩く。

 少しかんかくを空けて、ミコはジルの隣に座った。

『俺は生まれてすぐ捨てられたのかはぐれたのかで両親のおくはないが、拾い育ててくれた父親同然の存在がいた。……ラリーという名の、いっかくじゅうだ』

 ジルが言うには、一角獣とは額に角が生えた馬のようなげんじゅうらしい。

『ラリーは幻獣の中ではめずらしく回復系の能力を保有していたから、をした動物や幻獣を見つける傍から治していたな。……おんで、面倒見がよくて』

 とにかくあいに満ちていた。なつかしそうに呟く声のやわらかさから、ジルがラリーをどれだけしたっているのか手に取るようにわかる。

『だが六年前、──ラリーは人間に殺された』

「っ!!」

 きょうがくに目をくミコに、ジルは感情をし殺したようなかたい声で語る。

『その日、俺が太古の森の外から帰ってくると、武器につらぬかれ血まみれになったラリーから、人間が角を切り取っていたんだ』

「!? そ、んな……」

『そいつらは俺に気づいてたちどころに逃げた。俺はそんなことよりもラリーの容態の方が重要で、すぐに息を確かめたが……おそかった』

 守れなかった。くやしさを滲ませた小さな声を、ミコはのがさない。

『一角獣の角は毒にせんされた水や大地をせいじょうできる。その秘力を目当てに殺されたんだろう。……俺にとってラリーは誰よりも幸せになってほしい、大恩ある存在で。それをうばった奴らへの激しいいかりとにくしみから、俺は人間を拒絶するようになったんだ』

 ──わたしも。

 大事な家族をくしている。けれど父もコタロウも体調不良によるものだったから、心の底である程度の覚悟はしていた。

 それでも生きてほしい、助かってほしいと願わずにはいられなくて。

 息を引き取ったとき、この世の終わりのように悲しくて仕方がなかった。

(それが、とつぜん

 事故でもなく、心ない存在によって命を無理やりもぎ取られたら、どれだけ絶望し、ぞうするだろう。

『この太古の森はラリーと過ごした場所で、動物や弱い幻獣のどころでもある。……俺にとっては守るべき大事なものだ』

 かけがえのない場所なのにミコの願いをかなえるためにと、ジルは内容も知らないのに転居に応じてくれようとしたのか。

(わたし、何も知らずに……)

「……大切な方を無理やり奪われて、辛かったですよね。人間を、許せませんよね……。ジルさまの心情も考えず、本当にごめんなさい……」

『俺が何も言ってなかったんだ。……だから泣くな』

 言われて初めて、自分でも気づかぬうちにまなじりからこぼれたしずくが頰をらしていたと知る。

『親とはぐれてしょうすいしていたソラを拾ったのがちょうどその頃で、……俺は、ラリーの真似をしたのかもしれないな』

 自分にあきれたような物言いとは裏腹に、ミコの涙を拭う指先は優しかった。

 ──ジルは優しくてりちで、からだだけでなく心も強い。

 人間にちょうこんの念を抱きながらも、生きとし生けるものの命を無残に散らす暴挙に出ることはない。その心にはいったいどれだけいましめのくさりが巻かれているのだろう。

 胸がちぎれそうで、涙が止められない。

 ミコはしゃくり上げながら口をいた。

「……わたしが……ひっく。ジルさまと同じ状況で力を持っていたら、たりだいかたきである人間を襲うと思います……」

『いや、ミコはそんなことしない』

 ジルはやけにはっきりと言いきる。

『たとえ憎んだとしても、力を振るう前に非道な奴ばかりじゃないとかっとうしながら相手を知ろうとするはずだ。……ミコは心があたたかくて、思いやりのある奴だからな』

 ジルは黒髪をかき上げるなり、ミコに視線を集中させた。

 美しい深紫の瞳に見つめられるとどうが跳ね、身動きが取れなくなる。

『そんなミコがいたから、俺は人間が全部同じじゃないと思えたんだ』

 ──心の針が、激しく揺れ動いた。

 そんな感覚だ。時を同じくして自分の中に、火がともるような熱を感じる。

 言いようのないかんが、おどるように全身を巡っていた。

(……こんなふうになるのはひょっとして……わたしは、ジルさまのこと……)

 彼に出逢うまではなかった感情と、この熱の正体。

 家族への情愛とも、タディアスたちへの親愛とも別物で。ぼんやりとしていたその何かが、ジルからの思いの丈に触れたことでりんかくがはっきりと定まった気がする。


 ──わたしはジルさまが好き。


 ねんれいはなれすぎているとか、種族が違うとか。

 そんなくつを並べ立ててもどうにもならないくらい、気持ちがぴたりと胸にはまる。

 まだ口にする勇気は持てない。だけど、口に出すのもはばかられる胸の内を明かしてくれたジルを大切におもう気持ちは伝わってほしい。

 ミコはふわりとはにかんで、今の自分のせいいっぱいの本音をつむぐ。

「わたし、この能力でよかった。……ジルさまと出逢えて、本当によかったです」

 せつ、ジルの腕がミコの身体からだを包んだ。


「じ……る、さま……?」

『────悪い、自分からは放してやれない。嫌なら全力で拒んでくれ』

 拒め、と言いながら、ジルはミコにからめた腕にいくらか力を込めた。

 まるで縋られているようで、抱かれているはずの自分が彼を抱いているような気がしてくる。

 羞恥がつのって仕方がない。けれど、それよりも胸のうずきがまさる。

 生まれて初めてのしょうどうに突き動かされたミコは、居場所をなくしていた両腕を躊躇いがちにジルの背中に回す。

 ──触れたところから、じんわりとたがいの体温が肌に染み込んでいくようで。

 恥ずかしいのに、不思議と安堵の方が大きかった。

「ジルさまにさわられて、嫌だと思ったことは一度もないです」

『……そうか』

 いつも堂々としたジルのほっとしたようなこわを耳にしたら、ピンと張っていた糸がゆるむように気持ちが安らいだ。泣きすぎたことも相まってかきょうれつに瞼が重くなる。

 精根をすっかり使い果たしていたミコは、あっという間にまどろみに落ちていった。


 すうすうと眠ってしまったミコの頭を、ジルは慎重に自分の膝の上に横たえた。

 そのままでは身体を冷やすかもしれないので、自らの上着を彼女にかぶせる。すべらかな頰に垂れた長いくりいろかみが涙でしめったしょで止まった。

 ジルはそっと指で払う。

(……ずいぶん泣いたな)

 自分とは無関係な痛みを、まるで自分のことのように。

 いまだ胸にこうかいえんこんを残す過去をミコにしたのは、ジル自身も密かに驚いた。

 だが、さほどちゅうちょはなかった。他の誰にも触れられたくないのに、ミコに触れられるのは不快ではなかったのだ。それどころか、他人の痛みのために流すじゅんすいで優しいミコの涙で、乾いていた心が満たされた気さえした。

(……いつからこうなったのか)

 直接的にはわからない。

 ただ日増しに、ミコの明るい振る舞いや、けんめいに物事にあたる姿勢が好ましくなった。ソラの台詞を認めるのはじゃっかん悔しかったが、ほんわかとした素直なミコと一緒にいる時間を楽しいと感じ、放っておけないと目をかけていたのは事実だ。

 ミコがこうしょう役を引き受けた理由が元の世界に帰るためと明かされても、責める気にはなれなかった。

(むしろ、らしいとに落ちたな)

 他者のためにすら全力で動くミコが、けつえんを大切に思わないはずがないのだから。

 ──「……別の場所での密猟の話も、作り話なんです」

 ──「……身勝手な真似をしてごめんなさい、ジルさま」

 耳によみがえるのは事情を明かしたあとの、気の毒なくらい震えたミコの声だ。

 ミコはよく笑う。おこることはあまりないが、あるとすればそれはだいたい自分のためではなく、違う誰かのため。

 そんなミコが泣きじゃくりながら、消え入るような声で謝罪を口にしたとき。

 胸の一番深いところが、痛かった。

 ──怒っていないから謝るな。自分がそんなに傷ついているのに。

 ジルはどうしようもなく落ち着かない気持ちと、励ましたい気持ちがせめぎ合ってない交ぜになり、気づけば壊すかもしれないという不安をえてミコを撫でていた。

 指先に全神経を集中させることも、力加減をしくじらないよう死ぬ気で覚えようとしたのも初めてだった。

 自らの予期せぬ行動に混乱する一方で、ジルは強烈に思ったのだ。


 ──笑っていてほしい。


 苦痛から、恐怖から、彼女を傷つけるすべてのものから守りたいと。

 そうして今しがた、少しずかしそうに、くったくなくほほんだミコを目にするなり、焼けつくような熱で全身が満たされ、心臓がひときわ強く脈動して……

 何かに突き動かされるように、ミコを腕に抱いた。

(……この腕をミコが受け入れたことに)

 心底ほっとした。同時に、胸の中に溢れ続けていた不可解な感情が急に形を成したように感じたのだ。

 人間でも異世界人だから。言葉がわせるから。

 そうやってありえない理由を掲げていたが、もうごまかしが利かない。

 覚えのない、胸の高鳴るこの想いを認めるほかなかった。

 ミコは何よりもいとおしい存在だと──

(ミコを悲しませた王太子はきにしてやりたいが、この世界に喚んだことについてだけは感謝しないとな……)

 ジルは無防備に眠るミコのさらさらした髪を愛おしむように指でく。

 すると、服のえりもとから覗く首の細さと白さがあらわになって、どきりとしてしまった。

『……ミコがいなくならずにすんで喜んでいる俺こそ、身勝手なんだよ……』

 低い声で毒づいたその直後に下から、「ん……」というあえかな声と、もそもそ動く気配がした。

 長いまつが震え、くりくりの瞳がゆっくりと現れる。

『起きたのか』

「……? …………っっっ!?」

 目が合うなり、ミコが音だけの悲鳴をほとばしらせて飛び起きた。

 ただでさえ大きな瞳がまん丸になっているし、顔はれたりんごのように赤い。

 この反応からすると、起き抜けで寝落ち前の記憶がまだ判然としていなさそうだ。

「な、なんでジルさまがひ、ひざまくら……!?」

『ミコが寝たからだ。地べたにそのまま横たえさせておけないだろう』

「お、おづかいはありがたいですが、心臓に悪いので次からはえんりょします……」

『……別にけいかいしなくても、寝ている相手に無体な真似はしないぞ?』

「警戒?」

 ミコはぽかんとした顔になる。

 そんな彼女から続く言に、ジルは同族の竜からしたたかなぐられたようなしょうげきを受けた。

「いえ、ただわたしが恥ずかしくて困るといいますか……嫌じゃないんですけどこういうの、慣れてなくて……」

 ──なんなんだこの生き物は。

 頰を上気させてまごつくミコを腕の中に引きずり戻してやろうかという欲求を、ジルはぎりぎり堪えた。危ない。

 素直なミコは不意打ちで、ジルをもだえさせる台詞を素で発してくれる。

「あの、ジルさま?」

 どうしたんだろうとでもいうようにきょとんとするミコは、自分が年上の竜の心をかき乱しているなど、夢にも思っていないのだろう。

(……天然ほどたちの悪いものはない)

 その辺にいる若造めいたを、ジルは晴れやかな心の中でしてしまった。


◆◇◆


 陽が傾きかけた頃。

 またしてもジルに横抱きにされた状態で、ミコはブランスターへと戻ってきた。

 じょうへきの傍で下ろされたミコは先ほどと同様、ここぞとばかりに酸素を(以下省略)。

 ミコはいつものように迎えの馬車で帰ろうとしたのだが、どういうわけかジルが送ると言って聞かず、いたし方なく馬車には帰ってもらったのだ。

(は、恥ずかしかった……!)

 こいごころをついさっき自覚してしまったからなおさらだ。

 込み上げる照れくささを散らそうとするけれど、これがなかなか難しい。

 ミコは年齢とかれいない歴がイコールで、異性とのせっしょくに対するめんえきがなかった。にもかかわらず、一日足らずでお姫様抱っこと膝枕、あろうことかほうようまで体験したのだ。

 押しつけられた硬い筋肉の質感や、回された腕の力強さ、自分よりも低い体温がはっきりと伝わってきて──

(思い出したら顔から火が出る! うう、顔が熱いよぉ)

 恥じ入るミコとは対照的に、ジルの無表情は小揺るぎもしていない。

 相手は天変地異が起こったとしてもたいぜんと処理に当たるであろう、幻獣の王者だから仕方がないことなのだけれど。

 ちょっとだけ不満に感じてしまうのはこいする乙女のわがままだろうか。

『……顔が赤いぞ。体調が悪いのか?』

 あなたのせいですとはとても言えない。

「なんでもありません! それよりあの、腕は痛くないですか?」

『軽くてやわらかいミコを抱きかかえたくらいで、俺がどこか痛めるとでも?』

(恥ずかしい感想を通常のテンションで言わないで──っ!)

 ミコは恥じらいの悲鳴と髪をくしゃくしゃにしたい衝動を意地で堪えた。

 どうして発言者が寸分も動じず、こちらが狼狽えなければならないのだろうかと、ミコは羞恥とどうにもしゃくぜんとしない気持ちを持て余す。

「よ、よかったです? ……あの、明日もおじゃしていいですか? 太古の森の清々しい空気の中の方が、これからのことを落ち着いてじっくり考えられる気がするので……」

『……当たり前だろう。なんなら俺がそうげいしてやる』

 ほっとした矢先にとんでもないばくだん発言が投下され、ミコは赤面して慌てふためいた。

「それは結構です! 今までどおり通わせていただきますから!」

『俺が運んだ方が早いし安全だろう』

 身辺的にはそうかもしれないけど、精神的には羞恥でろうこんぱいします!

「そ、そういう問題ではなくてですねっ」

『じゃあ何が問題だ……?』

 なおも食い下がるジルへの返答に窮したミコは、くるまぎれに話を逸らす。

「えーと、ジルさま! これから一緒に例のパン屋さんに行きませんか? 昨日のお礼も言いたいですし、明日の朝食も買いたいので!」

『……別にかまわないが』

「じゃあ行きましょう!」

 とりあえず送迎の件についてあやふやにすることに成功した。ミコはジルから見えない位置でこっそり額のあせを拭う。

『ミコはあのパン屋とやらによく行くのか……?』

「行きますよ。ご近所ですし、どれもすごくおいしいので! 料理は好きなので、将来はパン職人を目指すのもいいかもしれませんね」

『……人間社会のことはよくわからないが、ミコが必要なら俺の力とこうを貸してやる』

 心意気はありがたいものの、うしだてが強力すぎる。ミコは月並みに暮らしたいだけだ。

「……仲良くしてもらえるだけで十分なので、気持ちだけいただきます」

『物理的にも受け取ればいいものを……』

 なんでちょっと声が不満げなの?

「じゃあ、もしもわたしが採取屋デビューをすることになったら、しょくぶつや鉱石の採取を手伝ってくれると嬉しいです」

『ミコはそうするつもりなのか?』

「ただの案です。あ、万が一そうなったとしても、らんかくは絶対にしません!」

『……だろうな』

 ジルは身を屈めて、ミコを覗き込みながら頭をごく軽くぽんぽんしてくる。

 穏やかなまなざしと動作が言葉よりもゆうべんにミコへのしんらいを物語っているようで、ミコは嬉しい反面、気恥ずかしくなってしまった。

(……ジルさまはわたしのことを、どう思っているんだろう……?)

 知りたいが、確かめるのは告白のようなもの。そんなだいたんで恐いことを今はできない。

 だがこうしてかまってくれているので、思い上がった勘違いでなければ知り合いよりは上のはずだ。ソラと同類な感じもいなめないけれど、きらわれていなければとりあえずいい。

(欲を言えば、気の置けない友達くらいに思われていたいけど)

『……ミコ。あれはなんの集まりだ?』

 しんけんに考え込んでいたミコは、ジルからの声かけではっとする。

「なんでしょう? 樹の下にたくさんいますね……」

 大通りの開けた場所に植えられた、大きなもみの樹の根元に人だかりができている。

 なぜか皆顔を上へ向けていた。

『あそこにいるのは、昨日丸っこい男と一緒だった奴だな……』

「あ、火事の現場でジルさまに真っ先に声をかけた方ですね」

 肌が陽に焼けた逞しい体つきの男性は、もみの樹に立てかけた梯子はしごのようなものに登っている。その下では若者が梯子を動かないように支えていた。

「棟梁、どうですか!?」

「やっぱ梯子だけじゃ無理っぽいな」

 近づいてみると、そんなやりとりが耳に入った。上に何かいるのかな?

「あの、何があったんですか?」

「棟梁さんとこのくろねこが下りられなくなっちゃったみたいで、──きゃっ!?」

 たずねたご婦人はミコの隣にいるジルを見るなり、少女のような声を上げて顔を赤くする。

 たちまちその場がざわついた。

 上へ注がれていた視線は余すことなく空前の美丈夫へと移る。常人であればまとわりつくそれにたじろぐところだが、ジルはにもかけていない様子だ。いちいちかっこいい。

「よお、黒髪の兄ちゃん! 相変わらず男前だな!」

 梯子から下りながら、男性は首をひねってこちらへとさけぶ。

「一緒にいるあんたが、パン屋の旦那が言っていた通訳のミコちゃんかい?」

「はい、そうですが……」

「いいねえ、二人で仲良くデートか」

「っ!? 違いますっ!」

 言葉の矢が脳を直撃した。ミコはどうようで声をうわずらせる。

 照れるな照れるなと、ごうかいに笑う男性は赤面するミコの否定にまったく聞く耳を持たない。わたしの声はこういう話題のとき相手に届かないの!?

『ミコ、あの男になんて言われたんだ……?』

「えっ! えーと、あの、その……本日はおがらもよく?」

『……絶対噓だろ』

 すっとぼけてみたが、そくにジルからつっこみが入る。

 デートの件をリピートするのは恥ずかしすぎるので、ミコはジルのつっこみを聞かなかったことにした。

 と、そこへ──

『こわい……』

 上から降ってきたのは、弱々しいかすかな声だ。

 目をらしてみると、大きなもみの樹のてっぺん近く。太い幹から分かれた枝の根元で長い尻尾の黒猫がうずくまった状態だった。

「あんなに高いところに……!」

「窓を開けたすきに飛び出しちまって、見つけたときにはあそこにいてな。おれの可愛い可愛いハーティちゃん、さぞかし恐い思いをしているだろう……!」

 やたらと愛らしい名前のあいびょうを心底案じていることはひしひしと感じる。

「早く助けてやりてぇんだが」

「そうですね。いくらねこが身軽でも、もしあの高さから落ちたら……」

『……落ちる前に下ろす』

 えっ? ミコが訊ねようとする前にジルが横からいなくなった。

 まばたきする間に、ジルは重力を感じていないかのように軽々ともみの樹の真ん中まで跳躍する。一度、太い幹を足音なくって、一気に黒猫の元へととうたつした。

 ………………。

(わたしを除く全員がぎょうてんしている……)

 それも無理からぬことである。にんげんばなれした──なんたって竜だから──動きを見せつけられたのだ。

 という地上の状況はさておき。

 うずくまる黒猫は突然現れたジルにかくするように鳴いたけれど、ゆっくりと抱いた彼に抵抗することなく、その腕におとなしくおさまる。

 黒猫を大事そうに抱えて、ジルは空気を震わさずしなやかに着地した。

『……猫はふわふわしているんだな』

(っ、その顔でそんなこと言うのは反則……っ!)

 心なしか嬉しそうに呟くジルが可愛いやらりょく的やらで、ミコは悶えた。たとえ大金を積まれても今の台詞の内容は明かさないと決め込む。

『……助けてくれて、ありがとう』

 黒猫はつぶらな黄色の瞳でジルを見上げながら、そう言った。

『こうやって猫に触れるのも、ミコへの力加減を覚えたおかげだな』

「お、お役に立てて何よりです? ──ジルさま、猫ちゃんが助けてくれてありがとうって言っていましたよ」

『……わかった』

 通訳ありがとうとばかりに、ジルは猫を抱いていない方の手でミコの後頭部を撫ぜる。

 その仕草にそこはかとない甘さが秘められているように思えて、ミコは頰をぽっと染めた。

 ジルは黒猫を抱えたまま、ゆうゆうとした足取りで──

『……ほら』

 すっと、黒猫を陽に焼けた男性に差し出したのだ。

 わざわざ、人間の元へ自らの足を運んで。

(ジルさま……)

「っ、すっ、げーな黒髪の兄ちゃん! 魔法だけでなく、身体系の能力もあるのか!」

 そうかいしゃくした男性は興奮に駆られているらしく、受け取った黒猫を太い腕でぎゅっとした。あっぱくされた黒猫はこうするように高く鳴く。

「まじでかっこよかったぜ! なあ!」

「はい! 男のオレでもれそうでしたっ!」

「女のあたしはすでにメロメロだよっ!」

「バツイチのおばさんは引っ込んでてよ! ちなみに私はこんの女ざかりでーす!」

「盛り上がってるとこ水を差すが、黒髪の兄ちゃんはすでに売約済みだぜ」

「──といった会話がひろげられています」

『…………』

 ミコのじっきょうを聞くジルは街の人たちにちんなものを見るような目を向けている。けれども、そこにけんのんさはつゆほどもなかった。

「っと。黒髪の兄ちゃんは言葉が解らねえんだったな。ミコちゃん」

「は、はい」

「うちの大事な猫を助けてくれてありがとうって、伝えてもらえるか?」

「もちろんです! ジルさま」

 男性からの言葉をミコが口にすると、ジルはそっぽを向いてぽつりと。

『……別に、猫のためだ』

「──だ、そうです」

「だっはっは! 黒髪の兄ちゃんはクールだなあ! そんじゃまあ、何もしないのもあれだしここは一つ感謝を込めて」

 男性は隣の若者に黒猫を預ける。

「さあ黒髪の兄ちゃん、いざおれとハグェ!」

 ミコが止める間もなく、タックルするような勢いで飛びつこうとした男性は額をジルの左手でがっちりつかまれ、動きをかんぺきおさえ込まれる。

「ジ、ジルさま。棟梁さんは感謝の抱擁をしようとしただけで、決してこうげきでは……」

『……むさくるしい奴に抱きつかれるのはめんだ……』

 ジルは小さくぼやく。体格による圧からして、気持ちはわからなくもない。

「……ミコちゃん、黒髪の兄ちゃんはなんか言ったか……?」

 捕らえる対象に届かずに空をく太い両腕には、なんとも言えないあいしゅうが。

「むさくるしい方に抱きつかれるのは御免だと……」

「正直な通訳ありがとな……」

 男性は力なく笑いながら後ろに下がるなり、申し訳なさげにまゆじりを下げるミコの頭をわしわしと撫でてきた。何事かと、ミコはぽかんとした表情になってしまう。

「ミコちゃん、ありがとよ」

「へ? わたしはただ言われたことを伝えただけですが……」

「それがすげぇんだよ。ミコちゃんの通訳がなけりゃ、おれらは黒髪の兄ちゃんと話がずっと一方通行だ。ミコちゃんがいてくれてよかったぜ!」

『……この間と違って、ミコがいてくれて助かった』

 そうほうからのしみない感謝を受けたミコが感じたのは──喜びだ。

 なんの裏表もない言の葉から生まれた嬉しさが体中をたゆたうようで、こそばゆいのに心がぽかぽかする。

「──よかったです、少しでも役に立てて!」

 ミコはおもゆい気持ちと嬉しさを隠しきれていない、純真な笑みを浮かべた。

 直後にジルはどうしてなのか口元に手を当て、陽に焼けた男性は破顔する。

「さあ、ハーティちゃんも無事だったし邪魔者は退散っ退散っ! 人のこいを邪魔する奴は馬に蹴られてなんとやらってな」

 歌うような男性の指示で、その場にいた者たちは興奮冷めやらぬままに散開した。

 その場に残るのはミコとジルだけになる。

「……なんだかあらしのようでしたね……」

『まったくだな……』

 ジルはおおぎょうに息を吐き出して。

『知らないとはいえ竜に突っ込んでくるとは……ずいぶん命知らずな人間がいたものだ』

 呆れたようにそう言った。けんべつを微塵も感じさせない、どこかかいそうな調子で。

 ──あんなに、人間をぎらいしていたのに。

 タディアスたちに邪気を感じないと言ったように。

 人間が全部同じじゃないと思えたという想いのとおりに。

(ジルさまはきっと、変えようとしているんだ)

〝人間〟を一くくりにしてはじくという考えから、個として認識しようとする考えに。

 ゆえに、先ほどの街の人たちへの空気がやわらぎ、まなざしに剣吞さもなかったのだ。

 彼らをつまはじきにする必要はないと。言葉が解らないながらも視線から、表情から、雰囲気から、あらゆるものに視線を凝らし、頑なさをゆるめようと努めているのだろう。

「──ジルさま。太古の森の他に、オリハルコンが採掘できる場所ってありますか?」

『? それならここから南に下った湿しつげん地帯の鉱山で採れるが……』

「そうですか、よかった」

『……急にどうしたんだ?』

 ジルはいぶかしげに首を捻ったが、目線は合っている。

 ──途中まで、気づく余裕がなかったけれど。

 ジルは歩くときは速度を、話すときも躰を屈めたりして、それとなくミコに合わせてくれている。

 ジルのそれはれんあい感情によるものではないだろうが、大切にされているのは事実だ。

「もうわたしには、王太子の希望に沿うつもりはありません」

 ジルは積年のこんを越えて、少しずつ変わろうとしている。

 多少うぬれてもいいのなら、ミコはそのきっかけのいったんになったはずだ。

(わたしもこのままじゃいられない。──今のわたしに、できることと言ったら)

「わたしは王都に行って王太子にかけ合ってきます。『守り主』は太古の森に必要だから、魔石の採掘は別の場所にしてくださいと」

『!』

 不意を突かれたようにジルは目をみはった。

(わたしは社会的にも肉体的にも精神的にも、まだ甘い)

 そんな自分にできることは限られている。

 だからせめて、この能力で役に立てれば、少しはジルにお返しができるかもしれない。

 他者のために心を砕く、その優しさに救われたから。たくさん助けてもらったから。

 他ならぬジルのために──何かがしたい。

「ジルさまがわたしや街の人たちに寄り添ってくれたように……今度はわたしが、ジルさまのためにできることを全力でやってみます!」

 にっこりと笑ったミコは、明るい声に強く頑なな意志を込めて宣言した。

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