(すー、はあー。……よし、落ち着いてきた)

 歩きながら深呼吸をやり続けているうちに、ミコの心のじょじょに治まりつつある。

 お手軽りょうほうだが気持ちをしずめるための効果はてきめんで、ミコはひそかにほっとした。

 戻ってきた広場ではせいのいい客引きの声が飛び交い、詰めかけた見物人で大混雑している。

(えーと、パン屋さんの露店は……)

 ミコは人がごった返す会場のそこかしこに視線を運ぶ。

 しばらくそうしていれば、『数量限定販売! 美味! れい! ぽっちゃりパン屋おやじのこだわりフルーツサンド☆』というぎゃく交じりのキャッチーなのぼりが目についた。

(あれだっ!)

 パン屋の露店はちょうど人の列がはけたところだった。ミコはジルに「見つけました!」と報告して、突撃する。

「おー、ミコちゃん! 来てくれたんだな」

 あいさつをしたのは近所にあるパン屋のご主人。ふくよかな体型の陽気なおじさんだ。

「おじさん、こんにちは」

「ミコちゃん、これまたとんでもない男前を連れてるなぁ。初めて見る顔だが、お兄さんはさまか何かかい?」

『……この人間はミコの知っている奴か?』

「あれ? 聞こえてない?」

 意思つうはかれていない両者の間にミコが入る。

「すみません、おじさん。彼は別の大陸から来た方で、この国の言葉が解らないんです。なのでわたしが通訳を」

「そうだったのか! いやー、お兄さん、遠いところからようこそ!」

 パン屋の主人は白い歯を見せて笑いながら、ジルに歓迎の意を示す。

「ジルさま。こちらはわたしの知り合いのパン屋のご主人です」

 パン屋の主人には聞こえないように、ミコはひそめた声でジルに紹介する。

『パン屋?』

「パンという食べ物があって、それを売るお店のことです。ご主人がジルさまに質問していたので、この国の言葉が解らない別大陸の方だと説明しました。ようこそって、歓迎してくれていますよ」

『……別に歓迎されるわれはない』

 一言落とすジルの語気にきつさはそれほどなかった。

(表情は全然変わらないけど……)

 ジルの声や雰囲気から冷えたとげとげしさを感じないことが嬉しい。

 ぶっきらぼうな言いぶりだったが、それは意地によるところが大きいのだろうと予想できるので、なんだか微笑ましかった。

「にしても別大陸の外国語が解るとは、ミコちゃんはたいしたもんだ!」

「そこだけが取りなので……」

 本当のことを教えたらきっと後ろにひっくり返ってしまうに違いないので、ミコは笑って受け流す。けれど、められると嬉しいものだ。自分を認められたみたいなずかしさもあるけれど。

 それはそうと──

「おじさん、フルーツサンドってまだありますか?」

「運がいい、残りあと三つだった」

 危ない、完売寸前だった。

「その残り三つを売っていただくことはできますか?」

「ミコちゃんがこれからも他のパン屋にうわしないならOKだ」

 茶目っ気たっぷりな笑い顔を作るパン屋の主人に、ミコはき出した。

「あはは、ありがとうございます! またおいしいパンを買いに行きますね」

「毎度あり! 準備するから、前のテーブルにかけて待っててもらえるかい?」

「わかりました」

 ミコは先に代金をはらって、ジルと空いているテーブル席に移動した。

 思い思いに盛り上がるテーブルにはスイーツから食事までいろんな料理が並んでいた。そこかしこから胃にくるいい匂いが漂う。

『……ミコ、さっき渡していた丸いものはなんだ?』

「丸いもの? あ、もしかしてお金のことですか?」

 ミコはさいとして使っているぬのぶくろから取り出した銅貨と銀貨をジルに渡した。

 手のひらにのせたそれをジルはしげしげと観察する。

『……色が違うんだな』

「色ごとに価値が違うんですよ。人間は何かを売ったり、どこかに勤めたりして得たお金でいろんなものを売り買いするので、生活には欠かせないものですね」

『ないとどうなるんだ?』

「まずひもじい思いをして、最悪の場合は死に至ります」

『金というものが人間には必要であることだけはわかった……』

 ジルは気持ちていねいな指使いでこうをミコにへんきゃくしてくる。

「ちなみに、さっき買ったフルーツサンドを売るパン屋さんのパンはどれもおいしくて。ジルさまにもぜひ食べてもらいたかったんです」

『フルーツサンド?』

「果物とクリームを使った甘い食べ物です。ソラくんのぶんもあるので、持って帰ってあげてくださいね」

『……そうか。ソラは果物やはちみつが好物だからきっと喜ぶ』

「ジルさまは食べ物のきらいってありますか?」

 幻獣の主食は日光だ。食物をせっしゅできることは知っているが、よくよく考えてみるとジルのこうをミコは知らない。

『……特にはないが、肉は食べないな』

「? どうしてですか?」

『食べなくても生きていけるのに、わざわざ命を奪って食す必要はないだろう』

 ──理由にしかない。

 ジルは生物としての領域をぶっちぎったハイスペック最強種だ。

 それなのに、性格には人間嫌いという一点は置いておくとして、鼻持ちならない感じやおうへいさといった難が見当たらない。

 種族の差とか関係なく、ジルのふところの深さは尊敬できるし、弱い立場の者に心をくだく優しさには好感が持てる。

(知れば知るほど、いい方なんだよね)

 動物や幻獣たちが、ジルの守る森で安心して暮らせる気持ちがよくわかる。

「ジルさまが転居に応じてくれたとしても、他の生き物たちから反発されそう……」

『……そのことだが、ミコ』

 心なしか改まって、ジルは言った。

『時折なら、太古の森とは違う別の場所におもむいてもいい』

「!? ど、どうしたんですかとつぜん!?」

 転居を一部認めるという急展開にミコは目を丸くした。

『俺にとって太古の森は特別な場所で完全に退しりぞくのは無理だが……何かしらの成果がないと、ミコが困るんだろう?』

 ──わたしのために、きょうしてくれた?

 そう思うのは自惚うぬぼれすぎだろうか。

「い、いいんですか……?」

『森をらさないという条件を守るならかまわない。……通訳の礼もあるが、無茶をふっかけたびだ』

(もしかして、川のそうのこと気にしていたの?)

 ジルがミコのことを少しでも慮り、思いをせて一案を示すまでしてくれたのなら。

 それだけ仲良くなれて嬉しいと、ミコの心は浮き立つ。

「……ありがとうございます。また、王太子殿でんに伝えさせてもらいますね」

『ああ』

 元の世界に帰るための条件は、ぬしを太古の森から退かせることだ。

 完全にとはいかないが転居のしょうだくを得たからには、王太子がたとえしぶったとしても「じゃあこの話はなかったことにしてもいいんですね?」と交渉の余地もある。

『ミコの願いが叶うといいな』

 無表情ながら、思いやりのある言葉をかけてくれるジル。

 帰ってしまえば、二度とジルに会うことはできなくなるだろう。

 かんへの希望に胸の中は光で満たされたように明るくなったけれど──ジルと離れてしまうことを考えたら、一抹のさびしさを覚える。

(……? どうして?)

 小首を傾げてしまったけれど、理由はすぐに思い当たる。

 ジルは本来の竜形も別形態の人形も威圧感とか冷たい印象が強いが、中身は深いあいの持ち主だとミコは身にみてもうわかっている。

 今やこうして、ねなく話せるようになるまでに親しくなれたジルは、ミコにとってもうたんなる顔見知りではない。

 ──幸せな時間を過ごしてほしい。

 そう心から願い、かけなしでしんらいできるほどの存在になっているのだ。

(……帰るときは、ちゃんとジルさまに挨拶しないと)

 別れの挨拶は笑顔でしたいと思う。けれど、今からすでにごうきゅうか泣き笑いがいいところな気がしてならない。

 ジルさまも少しは寂しがってくれるかなと、ちょっとだけ感傷的になるミコが想像をふくらませていれば──

「「久々の再会にかんぱーい!!」」

 センチメンタルを根こそぎ吹き飛ばす、はつらつとした若い男性のかけ声とグラスが合わさる軽快な音が二人分、後ろから上がった。

「ぷっはー! やっぱ王都と違って、解放感しかねえ地元で吞む酒はうめえ!」

「王宮勤めの騎士さまはご苦労なことで」

 ミコに聞き耳を立てるつもりはないが、席が真後ろかつ声が大きいので、会話は丸聞こえだ。

「それで、何かおもしろい土産話は?」

「おっ、あるぜ。聞いて驚け、王宮に聖女が現れたって話だ」

「けほっ!?」

 こんなところで、見知らぬ若者たちのじょうにのるなどとは想像していなかったミコは、いきなりせき込んだ。

『ミコ?』

「な、なんでもな、けほ。ちょっと、空気が変なところに入って……」

『……大丈夫ならいい』

 大事ないことを確認したジルは腕を組んで口をつぐんだ。落ち着くまでしゃべらなくていいという、それとない配慮の意図が読み取れる。

 ミコは呼吸を整えることに集中して、からぜきを何度か繰り返す。

 その間も、あいているちょうかくは後ろの席のやりとりを拾い続けていた。

「オレは見たことねえが、ちびっこみたいなナリらしい。あと、規格外の能力持ちとか」

「規格外?」

しょうさいはわかんねえけどありえねえものらしいぜ。王宮じゃ、異世界からばれたんじゃねえかってもっぱらのうわさだ。その力をまれて王太子殿下からお役目をたまわって出向したとかなんとか。案外、この街に来てたりしてなー」

「どうせならちびっこより、豊満美女に来てほしい」

「そりゃそうだ!」

 げらげら笑う若者二人に、ミコが「ストレスで頭のてっぺんに十円ハゲでもできちゃえ!」とのろいの念を送った、次の瞬間だった。

「でも異世界から召喚ねえ。異世界が本当にあるんなら、ちょっと喚ばれてみたいよな」

「ばーか。喚ばれたが最後、戻れなくなるらしいぞ」

 ────────えっ?

 青年が落とした軽い一言で、ミコは冷や水を浴びせられたここおちいる。

 せきと一緒に、心音も止まったと一瞬錯覚した。

(何を、言って……)

「戻れなくなる? なんでだ?」

「考えてもみろよ。なんかすげー力を持った奴を喚ぶんだぜ? そうほいほい帰すか?」

「あー、言われてみればたしかに。取り込もうとするな普通は」

 青年らからの次の言葉が、たまらなく恐ろしくなった。

「そ。魔法師のツレいわく、帰すことなんてハナから想定されてねえんだってよ」

「その聖女がまじで異世界から喚ばれたんなら、ちょい気の毒だな」

「まあなー。俺なら知らねえ世界で死ぬまで暮らすなんて、ぜってーめんだね」

(──違う)

 頭の中でミコは打消しをはんぷくして、耳をふさいでしまいたいしょうどうを抑え込む。

 こんなのはただのっぱらいの戯言たわごとだ。そうに決まっている。

 そうでなければ、いけないのだ。

「ミコちゃん、おまちどお! フルーツサンド三つね」

「──……あ。ありがとうございました、おじさん」

 パン屋の主人から包みを受け取ったミコは、椅子から飛び上がるように立った。

 ミコは胸の内にある不穏な影を追いやるように、努めて明るい笑顔をジルに向ける。

「ジルさま、広場を見て回りましょう!」

『……もう大丈夫なのか?』

「はい! あ、あっちで何か催しが始まったみたいですよ!」

『慌てるな、転ぶぞ』

 言って聞かせるような物言いのジルと一緒に、ミコは祭り見物に身を投じる。

 けれど、拭いきれない不安を表に出さないようにすることに必死で、何を喋ったのかほとんど覚えていなかった。


 ──黄昏たそがれ時になって、ジルが帰宅の途についたあと。

 母屋にあかりがつくなり、ミコは足早に移動した。

 二人の住む母屋は書店と壁一枚をへだててつながっているが、てんと住居の玄関は別になっている。

 玄関ホールの右手一番奥にあるのが、ちょうこくほどこされた暖炉のある居間。さはないがじゅうこう感のある家具で統一されていて、落ち着いたしつらえだ。

「おじゃします」

「あら、ミコちゃん」

「ミコや、祭りは楽しめたかのう?」

「……タディアスさんに教えてもらいたいことがあるんです」

 しんみょうな面持ちのミコに気づいたタディアスとモニカは真顔になる。

 何か真面目な話だと察した二人に、暖炉の前にある椅子に座るよううながされた。

 ──ただの酔っぱらいの話。

 それをみにするほど、ミコは考えなしではない。

 けれど、昼間の青年らの会話が頭にこびりついて忘れられなかった。

 事情に通じていそうな人に話を聞いて、確かめないことにはこのもやもやは晴れないだろう。

 正面から向き合うのが恐い気もする。……でも、不安の気配がついて回るのも嫌だ。

(フォスレターさんに手紙を送っても、きっと返事に数日はかかる)

 それにデューイはアンセルム直属のげんえき臣下だ。

 ミコはデューイを親切でめんどう見のいい人だと思っている。しかし、取引のときの態度をかんがみると、真実を隠さずに教えてくれるとは限らない。

 博識なタディアスはその方面に深いぞうけいがあるだろうし、取引の詳細については知らないぶん、きっとありのままの知識を話してくれるはずだ。

 膝の上で一度手を握り、ミコは意を決した。

「元の世界に帰る方法というものは、あるんでしょうか?」

「…………ミコ、もしやおぬし……」

「教えて、ください」


 みなまで言わせぬミコのこんがん交じりの言葉に、タディアスはぐっと声を吞んだ。

 そして、まるで聖職者が教えを説くようにしめやかに語る。

「儂の知る限り……方法はないのう」

「……ない、んですか……?」

「異界の存在を喚ぶしきには、神が遺したといにしえの書が必要とされておる。しかし本物など。……たとえ召喚が成功したとしても古文書は燃えてちりになる仕様と、大昔のおとぎ話として残る伝承には記されておるのじゃ」

(噓……!)

 ミコは必死に否定の言葉をれつする。何かの間違いだと、頭と腹の底でわめいた。

 けれど──ふとおくが呼び起こされてしまった。

 気にも留めなかった、召喚されたときに鼻をかすめたあの、何かが焦げるような匂い。

 思考は否定し続けているのに、光が閉ざされた真っ暗やみに一人置いてけぼりにされてしまったような恐怖が顔を覗かせている。

「……ミコは、このことを知らんかったのか?」

 心配そうな顔つきで問いかけてくるタディアスに、ミコはわずかに顎を引いた。

「……元の世界に帰れるって、ずっと思っていて……」

 えつを堪えて吐き出した声は、自分でもわかるくらいにうるんでいた。

 瞳が涙でかすんでしまい、ミコは咄嗟に顔をうつむかせる。

「ミコちゃん……」

 今の一言で事情をおよそ察したのだろう。横に来て気遣わしげに肩をさすってくれるモニカにミコはそのままもたれかかる。

 走ってもいないのに、息が上がって呼吸が苦しい。

 それでも、空気の足りなくなった肺よりも、むねの奥の方がずっと苦しかった。

 ──もう帰れない。

 自分の中にあったはずの上向くような気持ちはあとかたもなくきりと消え、一転して底の見えない暗穴に突き落とされたようだった。

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