第43話 不安

 リンは、我に返るとすぐさま達哉たつやの家を離れた。半ば逃げ出したと言ってもいい。


 冷静に考えてみれば、夏菜子かなこの反応は、当然のものだった。

 自分の家に知らない誰かがいたら、誰だって驚くだろう。さらに、その知らない誰かが自分のことを一方的に知っていたら——、それはもはや恐怖でしかない。

 だから、夏菜子の反応は当然のものなのだ。

 リンは、そうやって何度も自分に言い聞かせた。けれど、いくら言い聞かせても、ショックなことに変わりはない。理屈では説明できない不安がリンを襲った。

 達哉と同じように、リンを可愛がっていた夏菜子の明確な拒絶。


 自分が猫ではなくなったから——。


 そんな考えを打ち消すようにもう一度、「あれは、当然の反応だ」と自分に強く言い聞かせる。

 偽物の人間だから——、というもう一人の自分の声には耳を塞いで、聞こえないふりをした。


 達哉の家をあとにしたリンがトボトボと向かった先は、秘密基地だった。結局、リンにとっての帰る場所は秘密基地だけだった。行くあては、秘密基地しか思いつかなかった。

 野良猫だったころは、自由気ままに、その日その日で寝床を転々としていた。しかし、今はそうもいかない。野良猫だったころのように勝手に誰かの家に侵入すれば、さっきの夏菜子のような反応が待っている。いや、夏菜子以上の反応が返ってくるかもしれない。

 猫だって縄張りを荒らされたら牙をむき、爪を立て、威嚇する。場合によっては、激しく攻撃するかもしれない。人間だって同じだ。リンが選んだ家の住人が、そうしない保証はどこにもない。

 安全を考えれば、無作為に選んだ家に侵入するのは得策とは思えなかった。


 人間になったリンの姿は、子供だ。人間の尺度で言えば、小柄で華奢なのだろう。けれど、リンにとってその身体は、大きすぎて、目立ちすぎた。

 ひらひらと揺らぐスカートも邪魔でしかたがなかった。かと言って、洋服を着ていない人間を見たことがない以上、脱いでしまうわけにもいかない。


 そうした総合的な理由から、リンは無意識に、まるで帰巣本能が働いたかのように秘密基地を選んでいた。

 秘密基地であれば、滅多に人は来ない。仮に誰かが突然やってきたとしても、隠れるところは十分にある。勝手知った場所だ。すぐに逃げ出すこともできる。


 リンは、秘密基地で何日間かを過ごした。

 不思議とお腹は空かなかったし、喉も乾かなかった。だから食べ物で困ることはなかったし、飲み物も必要なかった。何か得体の知れないものになった証拠のような気がして少し怖かった。

 秘密基地を覆う夏の暑さには辟易した。お腹も空かず、喉も乾かないのなら、いっそ暑さも感じなければいいのにと思ったが、そうはいかないらしい。

 そして、なにより厄介だったのが、とめどなく訪れる寂しさだった。

 秘密基地という場所が、余計にそうさせるのかもしれない。一人、秘密基地で過ごすうちに、世界には自分一人しかいないのではないかという錯覚に陥る。

 死んだはずなのに、死んでいなくて、猫のはずなのに、猫ではなくなった。それならば、自分の知らないうちに、世界中から自分以外の全てが消えていたとしても驚かない。

 それ自体は怖くない。ただ、寂しかった。


 達哉に逢いたい。


 胸に宿る思いは、いつも最終的にそこに帰結する。


 達哉に逢いたい。


 けれど、逢いに行くことができなかった。夏菜子と同じように、達哉にも拒絶されるのではないかと思うと、どうしても勇気が出なかった。

 リンは、数日間を過ごすうちに、いつの間にか秘密基地から出るのが怖くなっていた。

 朝も晩もどこにも行かず、秘密基地の隅っこで猫のように丸くなって過ごす。目をつぶれば、達哉の顔が、声が、匂いが鮮明に思い出される。


 寂しさに押しつぶされそうで、我慢ができなくなったとき、それまで貯めていた感情を爆発させるように大声で泣いた。

 幾分涼しくなった山あいの森の中で、ひぐらしの鳴き声がやむ。リンの泣き声が、取って代わったかのように鳴り響いた。

 そして、それをかき消すように鈴が一度大きく鳴った。


「たっちゃん!! みんな!! 逢いたいよ。あたし、人間になったんだよ。みんなと一緒に遊べるようになったんだよ」


 誰にも聞かれることはないと分かっていながら、誰かに聞いて欲しいと願う。


「ごめんなさい。ごめんなさい。あたしのせいでみんな壊れちゃった。ごめんなさい。ごめんなさい……」


 気がつくと嗚咽混じりに呪文のように、同じ言葉を繰り返し、繰り返し、唱えていた。

 ——と、突然。

 リンは自分の声以外に音がしたことに気がついた。音のした方に視線を向けると、秘密基地に誰かが入ろうとしている。

 リンは、反射的に入口から一番遠い物陰に身をひそめた。息を殺して眺めていると、おもむろに入口を開けて入ってきたのは紗雪さゆきだった。

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