第9話 妹の夏菜子
六時の鐘を合図に四人と分かれた
玄関を開けると、すぐに母親が「おかえり」と声をかけてくれる。
子どもに戻ってからというもの、色々なものに懐かしさを感じたが、母親の挨拶には懐かしさを感じない。それは、十年間変わらず続いているものだからだ。子どもに戻ってみて、改めて分かる母親のありがたみだった。
母親に対して感慨深いものがある一方で、いつも喧嘩ばかりしていた妹の
幼いころから何かと張り合いたがる夏菜子とは、口を開けば喧嘩ばかりしていた。大人になってからの関係は冷え切ったもので、憎まれ口を叩くことはおろか、たまに会っても挨拶すらない。
喧嘩の一つでもすれば、懐かしさを覚えるだろうかと考えたが、すぐにありえないと思いなおして一人、首を振る。
子どもの姿に戻ってから、丸二日以上が経っていた。
惨めで、つまらない大人になってしまった自分の人生をもう一度やり直すことができる。完璧で完全に思いどおりの人生を送ることができるかは分からないが、一度目よりもマシな人生を歩める自信があった。やり直さない手はない。
しかし、そんな達哉もリンの存在は気になっていた。
リンの方は、達哉たちのことを知っているようだった。それどころか、自分を含めて、仲良し五人組だと主張した。仮にリンの主張が正しいとして、雅臣の言うとおり、そんなに大事なことを忘れるだろうか。一日前に食べた夕飯のおかずとはわけが違う。
考えてみると、なんとも得体のしれない存在に思える。完璧な人生をやり直す上で、リンの存在は障害となりうるのではないか、という漠然とした不安が達哉にはあった。
——リンという少女は、いったい何者なのだろう。
いくら記憶を探っても、うっすらと靄に包まれた記憶の中からは、その断片すら拾い上げることができない。あるのはなんとなく会ったことがあるような気がするという頼りない感覚だけ。それが、余計に達哉の不安を煽った。全く覚えがないほうがまだましだった。
「……リン……か」
「ん? 大野さんが、どうかしたの?」
思わず出た声を、夏菜子が耳聡く聞きつける。普段なら「お前には関係ないだろ!」とつっぱねるところだが、このときばかりはそうしなかった。いや、できなかったという方が正しい。
気が付くとその言葉に食いついていた。
「おい、今なんて言った!?」
「はっ!? なに? そんな怖い顔して…」
「いいから!! お前、今なんて言ったんだ!?」
「なんて言ったって……。兄貴がなんか浸りながら、大野さんの名前を出してるから…………。あっ! あぁ……なるほどねぇ~」
夏菜子は最初こそ達哉の態度に面食らった様子を見せたが、徐々に余裕を取り戻し、最後は何かを思いついたようで不敵に笑ってみせた。
「何が、なるほどなんだ!? 大野さんて……?」
一方の達哉は、あっという間に主導権を握られて焦る。
「兄貴ぃ~、ひょとして、大野さんに告られたんじゃなぁ~い? だから、そんな上の空でため息なんか吐いてるんでしょ~」
「はぁっ!? 誰が誰に告白されるんだ!?」
「だから、バカ兄貴が大野さんにだよ。兄貴は気づいてなかったみたいだけど。大野さんって、誰がどう見てもバカ兄貴のこと好きだもんねぇ~。まったく、こんなののどこがいいんだか……」
夏菜子の言っていることがイマイチ理解できない達哉は困惑する。
何がどうなったら、達哉が女の子に告白されることになるのか。自慢じゃないが、達哉にはモテない自負がある。女の子に告白されたことなどない。……と、思ったが、次の瞬間には、あることを思い出した。
——小学生のとき、女子から告白されている。
それが、誰だったのかは思い出せない。夏菜子の言うとおり、大野という女子——おそらくは、リン——だったのか。思い出すことはできないが、はっきり思い出したこともある。
達哉は、その子の告白を断っている。それもこっぴどく。問答無用に。
「あ~に~き~? どうした? 大丈夫?」
覗き込む夏菜子のニヤケ顔に腹が立つ。
「なになにぃ~? 兄貴みたいなやつでも、いっちょ前に恋の悩みとかでため息吐くんだぁ~。いっが~い! あ、でも、もしかしたらドッキリかもしれないもんねぇ~。うかつに答えて
思考を邪魔するように畳みかけ、煽る夏菜子の言葉で瞬間的に頭に血が上る。
「うるせー!! チリチリパーマ!! 告白と言えば、お前は、まさくんに見事にフラれたんだったな」
言ってしまってから、「しまった」と思う。
夏菜子には、決して言ってはいけないワードが二つある。一つは「天然パーマ」をいじること。もう一つは「雅臣にフラれたこと」だ。
夏菜子は、達哉たち仲良し四人組が小学校四年生のときに雅臣に告白し、見事にフラれている。
天然パーマの方は、機嫌によっては大惨事までは至らないケースもあるが、雅臣にフラれたことはいじったが最後、数か月は口を利いてもらえない。いつもであれば夏菜子と口を利けなくても全く困らない達哉だったが、このときばかりは慌てふためいた。
しかし、もう遅い。達哉の言葉をしっかりと聴き届けた夏菜子は、それまでのハイテンションが嘘のように、どす黒いオーラを背中から発している。そして、そのオーラを纏ったまま、無言で部屋を出て行ってしまった。
その背中を目で追うと、最後にバタンッ! と扉の閉まる大きな音が聞こえる。こうなるともう、夏菜子にリンのことを確かめることはできない。
残念に思い、自分の発言を後悔する一方で、達哉は、不覚にも一連の夏菜子の行動に懐かしさを覚えていた。
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