転移失敗?
ぼんやりと、遠のいていた意識が戻ってくる。まだ頭には痛みの余韻が残っている。閉じた瞼の外側を光が照らす。ふわりと草花の香りが鼻孔をくすぐった。
今、自分の体を照らす光は、先の青白い光ではなく、優しく身を包みこむような温かさを含んでいる。
不意に、冷たい何かが額に触れた。優しく撫でるように、それは頬の方まで下がってくる。
「……
顔のあたりにふわりとした感触が伝う。頭は何かに乗っている。
そよぐ風が前髪を揺らすのがわかる。心地がいい、そんな言葉がこれほどに似合う状況があるのかと、
「うぅん。……んぅ?」
寝惚けまなこを擦り、ゆっくりと瞼を開けると自分の顔を覗き込んでいる白い狐と目が合った。正確には木で作られた白狐のお面を被る、よく見慣れた少女。彼女の後ろで、ふわふわと九つの尻尾が揺らめいている。
「……おはようございます。よく眠れましたか? 霞さん」
「……。
「……はい。祈里です」
お面で顔は見えないが、声や容姿から彼女がギルドメンバーのイナリであることがわかる。そしてきんぐは、今自分が置かれている状況を再確認した。
辺りは草原。地を照らす太陽は真上、時刻は昼頃と推測できる。きんぐは芝の布団で仰向けに寝そべって、頭は何かに乗せられて……。それがイナリの膝だと理解すると、きんぐは自分でもわかるほどに顔が紅潮した。
顔を赤らめるきんぐの姿を見て、イナリが少し首を傾げる。
「ふぁあっ! い、いの、いな、イナリちゃん⁉」
「……はい、イナリですよ」
勢いよく体を起こすきんぐをスレスレで避けたイナリは、慌てふためくきんぐに優しく声をかける。
「……落ち着いてください。大丈夫ですから」
イナリはきんぐの手を強めに握って言う。すると、きんぐは軽く頭を振って、落ち着きを取り戻す。
「……落ち着きましたか?」
「大丈夫。ありがとうイナリ。ところで、ここは何処なの?」
「……はい。ギルドハウスで全体転移魔術を受けた結果、パーティ会場などではなく、
「不具合かしら。全体転移の魔術なんて、これまで一度しか発動されたことがないみたいだし、何かしらの不具合があってもおかしくないわね」
全体転移の魔術。スキルファンタジアにおける管理者専用の魔術で、指定したフィールド上にいるプレイヤー全員を特定の場所に転移させる大規模な魔術となっている。過去に行使されたのはサービス開始時のセレモニーイベントでの一回きり、それから約七年も経っている。もはや忘れられた魔術でもあった。
「……私が目覚めたときから、ここ周辺には私と霞さんしか見当たりませんでした。霞さんをおいて遠くへ行くわけにもいかなかったので、霞さんが視界に映る範囲内で散策してみたのですが、記憶にあるどのフィールドとも違うように思います」
「新エリアってこと? でもそんなアナウンスはなかったはず……」
「……それともう一つ。気になることが」
「もしかして――」
イナリが内容を言う前に、自分も気になることが一つ思い当たった。きんぐはちらりと地面に目を向け、手近にあった名前も知らない白い花を一輪摘むと、自身の鼻に近づける。
「やっぱり。いい香りがする。イナリが思う気になることってこれの事?」
「……その通りです。スキルファンタジアには嗅覚や味覚など、ゲームと現実の混濁を防ぐため、一部の五感が制限されているはずなのです。ですが、ここでは確かな自然の香りがする。何かがおかしいのです」
イナリがそう言う中、摘み取った花をきんぐは静かに口に運んで、ぱくりと花弁を口に入れてしまう。
「あ! 汚いですよ。霞さん」
「あまい。味覚もあるみたいね。まるで現実みたいな……」
「……現実、ですか。――ッ!」
イナリは何かに気付いたかのようにビクッと体が一瞬硬直し、ふわふわと揺らめいていた尻尾も、急に動きを止め、視線がきんぐの後ろ側にくぎ付けになっている。その反応を間近で見ていたきんぐが、イナリの動きに驚き、似たような反応を示した。
「わっ! な、なに? 一体どうしたのイナリ。現実がどうかしたの?」
「……いえ、気が付きませんでした。どうやら囲まれてしまったみたいです」
二人は周囲を警戒する。草花生い茂る草原の中、姿を隠すような遮蔽は見当たらないが、きんぐの耳にも、辺りで何かがうごめいている音が僅かながら聞こえた。無数の草を掻き分ける足音が、じわりじわりとゆっくり二人に近づいてくる。
何かが迫ってくるのはわかっているが、一体何かはわからない。戦闘に向かない二人は、張り詰める緊張感に苛まれていた。
突然、音が止む。そして、草むらの中から細く黒い影が二つ飛び出した。
「……きんぐさんは私の後ろに! 演舞、神隠し!」
咄嗟にイナリが自身の後ろにきんぐを匿い、扇子を開くと一体の人魂を影に向かって放出する。向かってくる影の一つは、人魂に吸い込まれ消えた。もう一つの影が間近に迫ると、その正体が鋭い矢であると判明する。
真っ直ぐ飛来する矢はイナリの左大腿部に突き刺さった。
「――くっ!」
「イナリちゃん!」
「グギャハハハハハ!」
黒い着物では分かりづらいがイナリの左足部分に、じんわりと赤い液体が浸透していく。そこから姿勢を崩し、その場に倒れこむイナリ。辺りから聞こえてきたのは、笑い声にも似た鳴き声。
「……だ、大丈夫です。きんぐさんこそ、お怪我、ありませんか?」
矢の刺さっているあたりを抑え、辛そうな声できんぐを心配するイナリだったが、きんぐはイナリの怪我の様子にパニック状態に陥っていた。
矢が飛んできた方向から、矢を放った張本人であろう生物が顔を出した。人とは思えぬほどに高い鼻と低身長、肉付きの悪いガリガリの骨身と緑色の肌、原始人のような動物の毛皮で作られた服を着た醜悪な生き物――ゴブリン。
弓を持ったもの、こん棒を持ったもの、刃のこぼれた剣を持ったもの。彼らは確実に徒党を組み、組織的に行動している。
「妾は大丈夫。でもイナリ。血が……!」
「……ええ、私は大丈夫です。ですが、気をつけて下さいきんぐさん。以前はこのような流血表現はありませんでした。それに、実際に痛みもあります。もしかしたら、私たちが思っているよりも、大きな変化があるのかもしれません」
「……えっ?」
「……きます! 演舞、鸚鵡返し!」
飛びかかってきたゴブリンにイナリは扇子を開き、吸収した矢を放ち、放たれた矢は見事にゴブリンの脳天を貫き、耳障りな金切り声を上げて絶命する。
周りにいたゴブリンたちは仲間の突然の死に動揺し、態勢を大きく崩した。
「……臆病な習性は変わっていませんね。今のうちに撤退したいところですが、私は、素早くは動けそうにありません。ここは私が囮になって、きんぐさんだけでも――」
「それはダメよ! イナリを見捨てるなんてできないわ。何が起こるのかわからないこの状況で、貴女を置いていくなんて考えられない!」
「……ですが」
そうこうしている間に、ゴブリンたちは臨戦態勢を整え、再度彼女たちを襲う準備を完了した様子だ。見える限り、ゴブリンの数は一体減った十四体、状況は決して良いとは言えない。
「……わかりました。ですが、そうゆっくりはしていられません。彼らの準備も終わってしまったようです」
「どうにか時間が稼げればいいのだけど。妾には有効な手立てがほとんどないし、やれることと言えば貴女を補助するくらいしか……。妾が回復系魔法スキルさえ取っていればこんなことには」
「……そう、自分を責めないでください。私の人魂は現在二つです。相手は、物理攻撃主体なので、神隠しと、鸚鵡返しで、一体ずつ対処していきましょう。来ます!」
遠くにいたゴブリン弓兵はイナリに向かって矢を放った。その行動を皮切りに前線に出ていた二体のゴブリン剣兵二人に切りかかる。
「……私は、遠距離しか、対処できないわけでは、ありません。鉄扇!」
両手に持った扇一本をきんぐに切りかかったゴブリン剣兵に投げると、ちょうど振り下ろした剣を防ぐように開き攻撃を防いだ。
「イナリちゃん――ッ!」
きんぐを守るために自身の守りを手薄にしていたイナリの前には、今にも剣を振り下ろそうとしているゴブリン。一瞬、時間が止まったように見えた。きんぐは目を瞑る。そして、何かが切断されたような音が聞こえた。風が強くなった……。
「来てよかった」
二人のすぐ前方から女性の声が聞こえた。
「安心してください。必ず私、古今御アソビ衆の長。オリガミが貴女方を助けます!」
薄目を開けると、目の前に広がる桜吹雪。はためく桃色の袴。桃髪の長いポニーテール。右手の先には刀身の長い刀が握られ、イナリの前まで迫ったゴブリンの頭を刎ねている。
動揺するゴブリンたちのことなど気にも留めず、追撃をしようと彼女は懐から折り紙で出来た手裏剣を取り出してみせ、ゴブリンに向かって勢いよく投げる。紙とは思えない挙動で直線的に飛ぶ手裏剣は三体のゴブリンの脳天を貫き絶命させる。
「あと十体、一気に決めます。
彼女が刀を納刀すると、周囲にいるゴブリン兵を全員囲う半径五メートルの円を作り出し、強風と共に桜の花びらが舞う。円は薄桃色に発光し始め、その次の瞬間、抜刀の音と共に円の範囲にいたゴブリン兵の頭が跳ねた。ゴブリンたちは逃げる暇もなく一網打尽。一体も残らず胴と頭が乖離していた。その場に残ったのは秒速五センチメートルで舞い落ちる桜の花びらのみだった。
「大丈夫ですか? あら。貴女たち、もしかして神に恵まれない者達の――」
辺りに転がるゴブリンの亡骸には目も暮れずにきんぐとイナリの元に駆け寄ってくるオリガミと名乗った女性。
「――って、貴女ケガしてるじゃないですか! 今すぐ応急手当を!」
「……はぁ、いえ、私は大丈夫ですか、ら――」
「イナリ⁉」
イナリの怪我に気付いた彼女は一目散にイナリの方へと駆け寄る。すると、イナリは突然気を失いその場に倒れこんだ。
「わっ! まさか……。いえ、弱い麻痺毒のようですね」
彼女は一瞬焦った素振りを見せたがすぐにホッと安堵し、倒れたイナリを優しくその場に寝かせた。
「イナリは、イナリは大丈夫なの?」
完全に動揺しているきんぐに優しく微笑みかけながらオリガミは続けた。
「安心してください。彼女は大丈夫、標的を拘束するための毒性の弱い麻痺毒ですので、致死性はありません。しばらく安静にしていれば良くなります。解毒薬か解毒魔法を掛けることが出来れば回復も早くなって苦しむ時間も短く済むのですが、生憎、私の手持ちに薬はありませんし、魔法も取っていません。この場で処置することは叶いませんね。貴女は解毒魔法を持っていますか?」
「えっ、あの、も、持ってないです」
「そうですか……。仕方ありません、この先、西にしばらく行ったところの街に私の仲間がいます。彼女なら解毒薬を作れるので、そこに向かうのがいいかもしれません」
急速に展開されていく情報に圧倒され、涙目になりながらきんぐは、戸惑いと恐怖を孕んだ声を出す。そんなきんぐを気遣い、オリガミはきんぐの視線まで腰を落とすと、彼女のくせのかかったブロンドヘアを撫でながら「大丈夫ですから」と励ましの言葉をかけた。
「一緒にそこに向かいましょう。しばらく彼女は苦しむことになってしまいますが、自然回復には三日ほどかかってしまう。そしてこの仮面は呼吸の妨げになるので取ってしまったほうがいいです」
オリガミがイナリに近づき、仮面に手を駆けようとすると、イナリの手が弱々しくオリガミの服の裾をを掴むと、「仮面は……、取らないで、ください」と苦しそうに言う。
「でも、それがあったら自然回復を妨げる可能性が――」
「……お気遣い、ありがとうございます。……本当に、大丈夫ですから。仮面だけは」
「いいでしょう……。であれば解毒は急いだほうがいいかもしれません。まず死ぬことはありませんが、相当苦痛が続くはずです。貴女も怪我や体の異常はありませんか?」
「だ、大丈夫、です。イナリは本当に大丈夫なんですか?」
急な出来事が多く起こり、スキルファンタジア内で一貫して行ってきたロールプレイも忘れ、きんぐは何度もイナリの安否を問う。対するオリガミは不安にさせないよう、「安心してください。薬毒鑑定のスキルを使用したので、情報は正確ですよ」と理由も含めて返した。
「さあ、行きましょう。彼女は私が抱えていきます。貴女もついてきてください。街はこちらです」
地面に寝かせていたイナリを優しく持ち上げると、お姫様抱っこの状態でオリガミは歩き始めた。きんぐは彼女の後についていくことしかできなかった。
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