1-4. 琴坂黄花という少女
担当の教室から部室へ向かうには北側の階段を降りる必要がある。図書室は階段口のすぐそばで、外からでも中が良く見える構造になっている。だから、図書室に琴坂がいることに気づけた。
琴坂は背の低い本棚にもたれながら、小学生が嗜むには少し分厚いハードカバーの本を読みふけっていた。タイトルは「フーシャとの想い出」。たしか数年前の直木賞の候補になった作品だ。ミニシアター規模で映画化もしており、親友がその映画版のディープなファンなのだ。酔っぱらった勢いで作品愛の熱弁を何度聞かされたことか。
えらく真剣に読み込んでいるので声を掛けづらかったが、そろそろ部活の時間だ。すでにわたしも遅刻気味なので一ノ瀬と姫崎が待ちぼうけしているはず。
……うん、待ちくたびれて悪戯に走る姿が見える。
早く部室に向かうべきだろう。
意を決して声かける。
「琴坂、暗いところで本読んでると目が悪くなるよ」
びくっと身体を震わせ、琴坂が顔を上げる。丸い眼鏡が慣性に負けてずり下がった。
「橘先生……あ、もうこんな時間!」
琴坂は慌てて本を閉じる。そしてカウンターの方を見やって、慌てふためきながらオロオロしている。話を聞くに、本を返却しに来たのに中身が気になって読み返し始めてしまったらしい。そして気づくと図書委員が帰ってしまっていた。返却期限は今日なんだとか。
「いいよ、わたしが代わりに処理してあげる」
わたしはカウンターの端末を起動して、バーコードリーダに本の情報を読み込ませた。貸出履歴の中に琴坂の情報を見つけたので、ステータスを返却済みにする。ちらりと見えた情報によると琴坂の前にこの本が借りられたのは七年も昔みたいだ。電子書籍が普及してから、図書室の利用率はずいぶんと減ってしまったらしい。設備もわたしがここの生徒だった頃からさほど進歩していないように感じる。
「予約も入ってないし、まだ読み終わってないなら延長もできるみたいだよ」
「いえ、もう読んじゃったので大丈夫です。あと、これも一緒に返却したいんですが……」
そう言って琴坂はカバンの中から三冊の本を取り出した。図書室の貸出期間は基本的に二週間のはず。二週間で四冊。しかもいずれもかなり分厚い本だ。
知らなかった。琴坂はかなりの読書家らしい。
「お母さんがいつも仕事で帰ってくるの遅いから、家ではよく本を読んでるんです。学校じゃあんまり読めないし……」
たしかに一ノ瀬や姫崎と一緒にいると忙しなくて小説を読む時間なんてないだろう。
わたしは残りの本の返却処理を済ませ、琴坂の背を押して図書室から退室する。
部室にたどり着くと、案の定ふたりは待ちくたびれていた。ぶーぶー文句を言われるかとも思ったが、琴坂が一緒にいるのに気づいて大人しくなった。一ノ瀬も姫崎も、琴坂には甘い傾向がある。
この日の部活もミミクリーフィッシュの観察に充てた。他校からの借り受けの期間は三週間ほど。まだまだ時間はあるが、三人の好奇心が強く向いている間に色々と試しておきたかった。
それに昨日の件が気になっていたのもある。
例のミミクリーフィッシュは今日も相変わらずだった。同種の性質に反して、群れない、擬態しない。まるで独自の世界を生きているかのように悠々と一匹オオカミ状態を維持している。やがて観察屋の姫崎がわたしと同じ疑問に辿り着いた。
「ねえ、このミミクリーフィッシュ、もしかしてこっちの水槽の中でも孤立してない?」
「姫ちゃん、どういうこと?」
「よく見て、朱里。こっちの水槽にはいまミミクリーフィッシュが十八匹いるよね。でも群れになってるのは十七匹だけなんだよ」
姫崎の言に釣られて一ノ瀬もミミクリーフィッシュの水槽を覗き込む。違和感というものは言及されるまでは案外気づかないものだが、一度意識してしまえばどうしようもなく鮮明に現れる。姫崎の言う通り、例のミミクリーフィッシュは明らかに孤立していた。
「本当だ。仲悪いのかな」
一ノ瀬は能天気な感想を述べる。そしてこう続けた。
「なんか、かわいそう」
このとき彼女の心に生じた変化を感じ取るだけの注意力がわたしにあれば、事件は起きなかったのかもしれない。
「かわいそう」
その単純明快な感情を内側でいくらでも膨張させられるのが一ノ瀬の特性なのだ。それは時に凡百の人間では思いもつかないような行動に結びつく。論理の飛躍という言葉が存在するが、彼女のそれは感情の飛躍だ。
そしてそれを可能にする原動力のことを、世の中では一般に「好奇心」と表現する。
次の日、一ノ瀬の好奇心はさっそく暴走することになる。
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