1-2. 部活を始めよう

 受け取り時の指紋認証で、すでに配達業者のサーバーから先方へと配達完了のメッセが飛んでいるはずだけれど、マナーとしてメールでも連絡を入れておく。学校間の人脈は自分の手で繋ぎ止めておかないと簡単にほどけてしまう。ビオトープ作りという学業的側面を持った活動であっても、そうした繋がりはお膳立てされていないのだ。

 だから今は寿先生が持っているビオトープ部界隈の学校人脈を順々に引き継いでいっている最中である。その観点ではわたしは恵まれている方だろう。自分の人脈を他者に解放しようとしない先達も少なくはないと聞く。

 忘れないうちに、寿先生にもお礼を兼ねて報告をしておく。事前に受け取りの工夫なども伝授してもらえていたので、事がスムーズに済んだのだ。おかげで日誌や採点業務にさける時間が増えた。今日はゆっくり寝られそうだ。

 椅子の背にもたれかかり、伸びをする。

 身体の隅々から搾り取るように息を吐き出す。疲労まで一緒に抜けていくようで心地良い。


 教室にはすでに生徒の姿はない。いまごろ各々の放課後を過ごしていることだろう。そろそろあの三人もビオトープ部の教室に集まっている頃合いだろうか。

 受け取ったミミクリーフィッシュは、水槽に入れたまま部活の教室に置いている。いまごろ一ノ瀬と姫崎あたりが物珍しくてはしゃいでいるのではなかろうか。

 なに、心配はいらない。

 水槽のフタはパスワードロック付きで、わたしが教室に行かない限り彼女らに悪戯はできないのだ。ゆっくりと部室に向かうことにしよう。

 わたしは立ち上がり、書類ケースを右手に引っ掛けて歩き出した。


 ミミクリーフィッシュはその性質上、一度他の生物に擬態してしまえば、そこから抽出するのが困難だ。それほどまでに擬態能力が高いということだ。自然と警護体制もしっかりとしたものが必要となる。

 だからこそ、わたしの監視下でしか扱いを許可しないことにしたのだ。

 暗証ロック付きの水槽が備品として校内に存在するという情報も寿先生が事前に教えてくれていた。あれがなければ、小悪魔たちの手から遠ざけるため、担当の教室まで重い水槽を抱えて運ぶ羽目になっていたであろう。……笑えない。


 階段を下る。部室は一階だ。

 内と外を頻繁に行き来する活動の性質を考慮してもらっているのだろうか、勝手口に近い場所にビオトープ部の部室は位置している。それだけではない。充てられた面積も広く、開設当時の優遇具合がはっきりと分かる。今でこそ部員は三名のみだが、つい数年前まではうちのビオトープ部も大人気の部活だったらしい。そのときの名残が残っているのだろう。

 ふと、寿先生がたくさんの部員に囲まれていた姿を想像する。子どもからの人望も厚い人だ。きっと楽しい部活だったのだろうな。自分がそんな風景にいる未来を思い浮かべていると、わたしはいつの間にか部室の前までたどり着いていた。

 一呼吸。

 わたしはまだ多くの生徒に慕われているわけではないけれど、それはこれからの働き次第でどうにでもなる。

 まずは部員の三人から頼りがいのある先生だと信頼してもらうところから始めよう。

 さあ、部活の時間だ。わたしは教室のドアを開けた。

 ミミクリーフィッシュの水槽は前から二列目の机に置いておいたはず。


「一ノ瀬、姫崎、琴坂。お待たせ、部活を始めようか」


 ……。


 …………。



 ………………あれ?


 返ってくる声はなく、三人の姿もない。まだ来ていないのだろうか。しかし鍵は開いているので、少なくとも誰かが一度は教室に入っているはず。

 と、そこでわたしは気づいた。気づいてしまった。

 前から二列目の机、そこに置かれた水槽の異変に。

 水槽にいるはずの二十匹のミミクリーフィッシュがいない。それどころか、水槽の中身はすべて抜き取られていた。残っているのは水滴をわずかに付着した空っぽの水槽のみ。フタは外されてどこかに消えていた。

 パニックになる。脳内が騒がしい。

 犯人を想像する。一ノ瀬と姫崎の二人以外考えられない。

 姫崎が策謀し、一ノ瀬が実行する。その後は琴坂が(事後)報告に来るまでがセットだ。

 しかし今回の悪戯に使われたのはミミクリーフィッシュ――完璧なる擬態能力を誇る第二生物である。そのことを理解していない彼女らがもしも、ミミクリーフィッシュを他の生物に擬態させてしまっていたとすれば。

 返却期日までに抽出しなおすのは困難だ。

 寿先生から受け継いだ人脈に傷がついてしまうことは間違いないだろう。それはそのままビオトープ部存続の危機にも発展しかねない。

 しかしあの二人組はどうやって暗証ロックを解除したと言うんだ。


「「あはははははは」」


 頭を抱え、分かりやすすぎるほどに狼狽したわたしの耳に、教室の奥の机の影から、遅い遅いやまびこが返ってきた。

 声の主は見て確かめる必要もない。一ノ瀬と姫崎の二人である。

 特徴的なサイドテールと、ミディアムヘアーが視界に入る。

 その隣には琴坂もいた。わたしの心情を慮ってくれているのか、声に出すことは我慢しているが、口元が今にも崩れそうだ。

「せんせー、こんにちはー!」というのは一ノ瀬。

「こんにちは、橘先生」こちらは姫崎である。

 今日も元気そうで何よりだ。それよりも、

「ねえ、そこにいた魚をどこにやったの。まさか池に放流したんじゃないわよね……」

「何言ってるんですか、魚ならここにいますよ」

 一ノ瀬と姫崎が机の下から何かを取り出し始めた。

 果たしてそれはわたしが午後四時に業者から受け取った後にミミクリーフィッシュを移し替え、教室に置いたままにしていた水槽そのものであった。中ではミミクリーフィッシュが元気に群れを形成しており、フタの暗証ロックが解除された形跡はない。


 ――では、こっちの空の水槽は?

 回答は一ノ瀬がしてくれた。

「わたしたち、フタを開けようとしたの。でも、開かなくて。ちょうど寿先生がいたから、聞いてみたの。そしたら『それは特別な水槽で、橘先生じゃないと開けられないのよ。普段は備品室に保管してあるから見たことなかったわよね』って」

 姫崎がネタばらしを引き継ぐ。

「そこで備品室に入ってみたら、同じ水槽が他にもあったんです」

 だんだんと読めてきた。つまりこの空の水槽は……。

「わたしたちね、急に『良いこと』がしたくなったの。だから備品室の空っぽの水槽を綺麗に洗ってそこに置いておいたんだよ!」

 一本取られた。一ノ瀬は満面の笑みだ。

 わたしはこめかみを押さえた。赴任してから何回このポーズをとったことか。三十回は固い。

「寿先生がミミクリーフィッシュのことを教えてくれたの。で、これは大事な預かりものだから悪戯したら、橘先生が本当に困っちゃうから止めてねって。『絶対に押すな』は『押せ』ですよね」

 姫崎の小悪魔スマイル。

 スマイル、ゼロ円。ベネフィットがゼロって意味ね。

 琴坂はついにこらえ切れなくなったのか、小さく笑いだした。

 寿先生も余計なことを吹き込んでくれたものだ。というかこうなることを見越して二人に入れ知恵したんじゃあるまいな……。あの人もなかなかの曲者という噂だ。


 さて、これがわたしが顧問を務める部活、ビオトープ部の日常である。

 こんな調子だから睡眠時間はぎゅんぎゅんと減っていくのだ。果たして身体は持つのだろうか。怪しいところだ。しかし心が生きている限り心配はいらないだろう。フレッシャーズの意地もあるけれど、これはこれでなかなかに楽しい日常なのである。いまだ笑いの絶えない教室の雰囲気に釣られてわたしも表情が崩れる。そろそろ部活を始めるとしよう。ミミクリーフィッシュの説明も改めてしておかなくてはいけない。

「さあ、部活を始めるわよ。こっちに集まって」

 わたしは声をかける。

 ――このあとめちゃくちゃ説教した。

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