許嫁編 マシュマロの夢②


 ガチャリ。


 ゆっくりとドアが開き、両手にビニール袋を持った男が現れる。


 ヨレヨレのネルシャツを着た、若い男性だった。


 彼の目が、俺と先生の抱き合っている姿を捉える。


 目を細め、彼は言った。


「姉ちゃん。男を連れ込むのはいいけど、俺が来る日はやめてくれ」


「ごめんごめんアタル君」


 それからアタルさんは、俺の方を向いて、ペコリと頭を下げながら、


「あ。すんませんね。ご飯作ったらすぐに出ていくんで」


「あ。はい……」


 俺が返事をすると、アタルさんは買って来た食材を収納に仕舞い始めた。


 え。どういう事?


「先生?」


「と。いうわけで。冗談でした~」


 パッと俺から離れる。


「……殴っていいですか?」


「せんせい女だよぉ?」


「女とか関係ねえよ」


「やだ。怖い。アタル君たすけてぇ~。高羽くんが殴ろうとするー」


 アタルさんは、収納に食材をしまいながら、チラリとこっちを向いた。


 それから何も言わずに作業を再開。


「ひどい。無視なの?」


 不満げなほたる先生。


「苦労してんだな。アタルさんも」


「あ。わかります? 彼氏さん」


 俺のつぶやきに、アタルさんが反応する。


 俺は彼氏じゃないんだけどな。


「ねぇアタル君。私、コーヒー飲みたいなぁ」


「缶コーヒーでいいか?」


「うん。甘いやつね」


 シーツをズルズル引きずったまま、先生はローテーブルの前に置いてある座布団に座った。


「ほらよ。姉ちゃん」


 アタルさんは、テーブルにミルクコーヒーの缶を3つ置いた。


 それから「あ。甘いヤツ飲めます?」と、俺に聞いてくる。


 すごいいい人だな。


「大丈夫です。あの、俺の方が年下なので敬語はやめてください」


「あ、そう? じゃあ普通に話して大丈夫?」


「お願いします」


「おっけ」


 アタルさん。結構いい人だな。


 それから俺たちは、適当に話をした。


「でも本当に焦りましたよ。アタルさんが部屋に入って来た時は」


 俺が言うと、アタルさんはガハハと笑い、


「俺が姉ちゃんの彼氏なわけないって。弟じゃなかったとしても、こんなサキュバスみたいな女の彼氏になったらカラカラになるまで搾り取られるは目に見えてるしな」


「酷いよアタル君。実のお姉ちゃんに対してそんな言い方は無いと思うな」


 グラマーな体にシーツを巻き付けただけのサキュバスが言った。


「アタルさんは今日はどうしてこちらに?」


 俺が聞くと、アタルさんは頷いて、


「俺はアルバイト。休みの日に、姉ちゃんの飯を作り置きに来てるんだ」


「なるほど」


「アタル君は役者なんだよ。お金は無いけど演技力は凄いんだ。劇団の顔なんだよね」


「貧乏劇団だけどな」


 そう言って、アタルさんは照れたように笑う。


 着ている服はヨレヨレだけど、目は輝いている。


 見た目はあれだけど、素敵な人だな。


 サキュバスの弟なのに。


「しかし。あんたも気を付けた方がいいぞ。前の男は、嫉妬に狂ってヤクザの事務所に乗り込んだからな」


 何があったんだよ。


「俺は、この人の彼氏とかじゃないですよ」


 俺が答えると、アタルさんは目を丸くして、


「え? そうなのか? だいぶ若そうだから姉ちゃんの好みだと思ってたんだがな」


「高羽くんとは、体だけの関係だよね」


「ちょっとサキュバスは黙っててください」


「えーひどい」


「とりあえず、俺は帰りますね」


「なんで? 私に手を出したのに?」


 幼いフェイスでキョトンとした顔を作るサキュバス。


 こいつ。わざとやってるだろ。


「そのことなんですけど? 俺、ぜんぜん覚えてないんですよ」


「男はみんなそういんだよね。アタル君」


「俺のふるのやめろよ。それにまた嘘だろ?」


「あ。ダメだよ言っちゃ!」


 え? うそ?


「安心してくれ。この女。いう事を聞かせたい男をこうやって連れ込んで既成事実があった風に言うんだよ。いつものやり口だ」


「でも、実際に寝たのは高羽くんが初めてだよ。ね! 高羽くん!」


「知らねえよ」


「こわい。ねえ、高羽くんが怖いよアタル君」


「俺を巻き込むな」


と、アタルさん。


「そういう事で、俺と先生は何もなかったって事で良いですね?」


「事実はそうだけど、真実はどうかなー?」


「どういう意味ですか?」


「先生が、さっきの写真バラまいたらどうなると思う?」


「先生が捕まります」


「そうだよ。だから私が職を失って路頭に迷っても、高羽くん平気なの? って話」


 最悪だよ。この先生。


 するとアタルさんが、


「まてまてまて! なんだよ先生って。もしかして高校生か?」


「そうだよ。高羽くんは私のクラスの生徒」


「アウトだろ姉ちゃん! しかも自分のクラスって何考えてんだよ!」


「なにかを考えて行動したことは、お姉ちゃんはないよ」


 幼い顔でどや顔を作る。


「マジかよ。俺はどうなっても知らないからな」


「アタル君には迷惑かけないよ。とりあえずお腹減ったからご飯作ってよ」


「わかったよ」


 そう言って、アタルさんは立ち上がってキッチンに向かった。


「さてと、高羽くん」


 ほたる先生は、黒ぶちメガネをかけ直して、


「本題に入ろうか」


「お断りします」


「なんで?」


「俺。そろそろ帰らないと」


 六花に連絡を取る手段がない。固定電話は何年か前に解約済みだ。


「あ、もしかして六花ちゃんのこと? そっかー。おうちにあんな美少女がいたんじゃあ、先生にはなびかないよねぇ」


「え……」


「その顔は、何で知ってるんだこの美女は? って顔だね」


「何で知ってるんですか?」


「冷たいなぁ高羽くんは。いちおう先生は、高羽くんの担任だからね。ちゃんと親御さんからも報告を受けてるし。今、二人で性活してるってことを知ってるよ」


「セイカツの字が間違ってます」


「まあでも六花ちゃんなら大丈夫だよ。ちゃんと昨日、言っておいたから」


「え? そうなんですか?」


「うん。伝えておいたから大丈夫」


「それじゃあ帰りますね」


「なんで!? 今、そういう流れだった!?」


「六花がお腹を空かせてると思うので」


「六花ちゃんはしっかりしてるから大丈夫でしょ」


「六花がしっかりしてる?」


 何を言ってるんだこの人は。


「とにかく帰ります」


「意思は固そうだねえ。じゃあ、先生の用件だけ話しちゃおうかな」


「手短にお願いします」


「わかった。実は、高羽君をアルコールで酔いつぶしたのにはちゃんとした理由があるんだよ」


「今、聞き逃せないワードが含まれていましたので、後日、改めて問い詰めますね」


「実はね。私、処女なの」


「……」


「信じてないでしょ?」


「先生。海って端っこに行くと落ちるんですよ。知ってましたか?」


「すごいね。私、高羽くんをばっちり騙せてるんだね」


「もう帰っていいですか?」


「まだ駄目だよ! 私ね。教員の皆に、巨乳痴女って愛称で呼ばれてるけど、実は違うんだよ」


「教員にまでそんな名前で呼ばれてるのかよ」


「ひどいよね」


「日常生活の言動に問題があるのでは?」


「私、実はOLの友達がいるんだけど、昔に彼女に言われたの『ほたるは彼氏いないでしょ?』って。それがきっかけだったなー」


 思い出すように、ほたる先生は天上の方を見上げた。


「……」


「ねえ。なんで何も聞いてこないの? そこは『何のきっかけになったんですか?』とかでしょ。興味ないの?」


「無い」


「ひどい」


「あと4分半」


「ちょ、待ってよ。わかったよ。あのね。じゃあ言うよ? 高羽くんには私の彼氏のふりをして欲しいんだ」


「帰ります」


「なんで!? まだ5分経ってないよ!?」


「用件言われたので」


「答えを聞いてないよ」


「やりません」


「断るの早すぎ!」


「あと4分」


「え? ええ!? もう……そうだなあ。じゃあもしやってくれたら、先生のパンツをあげるよ。どれでも好きなヤツ」


「先生は、ご自分の立場を思い出してください」


「でも日本史の金田せんせいは2万円だしたんだよ?」


「変態教師と一緒にしないでください」


「でも、でもでも。高校生と付き合ってるって言っちゃったんだもん!!」


 頬をぷくっと膨らませる。


 かわいいんだろうけど、うちの妹の方が1000倍かわいい。


「誰に言っちゃったんですか?」


 ため息をつきながら聞くと、


「真紀子」


「誰だよ」


「私の友達。じつはその真紀子が未成年と付き合いだしてからマウントとってくるんだよね『男は若い方がいい。あ、ほたるは知らないか。かわいそ』とか。腹立つよね」


「それぐらい流せよ」


「高羽くんは知らないんだよ。真紀子のしつこさを」


「面倒くさい話になってきたな」


「売り言葉に買い言葉で、私もまいにち男子高校生をとっかえひっかえしてるって言っちゃったんだ。だからお願い。彼氏のふりをして。一回だけでいいから」


「謝ってこい。今すぐに」


「えー。やだよ。負けを認めたことになる」


「負けていいよ。人生は負けを繰り返して、一番重要なところで勝てばいいんですよ」


「先生にとっては、真紀子に勝つことが一番重要だよ。そのためには淫行条例に抵触してもかまわない」


「モラルが崩壊してる人でも先生ってなれるんですね」


「この国では、勉強が出来れば、どんなロリコンだって小学校教師になれるよ」


「やべえよこの国」


「とにかくこれあげるから彼氏のふりしてよ! お願い! 一生のお願い!!」


「パンツを近づけるな!」


「じゃあやってくれるの?」


 俺は大きくため息をついた。


 このまま押し問答をしても帰れそうにない。


「じゃあ……一回だけですよ」


「やったぁ!」


 先生は飛び跳ねて喜ぶ。何かがバインバイン揺れているけれど、見ないふりをした。


「じゃ、帰ります」


「気を付けてねー!」



 うんざりして先生のアパートを出る。


 電車を乗り継いで家に帰ると、家の玄関先で六花が待っていた。


「あ。お兄ちゃん帰って来た」


 ボロボロと涙を流しながら。

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