第1話 無我
夜の帷が降りて、白き月が闇を淡く照らす。
灯りは次第に消えて、街全体が眠りにつき始めた頃。
そんな事は知らぬと言わんばかりに、空へとなり響く金属同士が打ち合う音。
二十時五十分、場所は稲本邸の道場。
「このまま……ッ!!」
「っ……!」
跳ねる。張り巡らされた木の板を、音の一つも鳴らすことなく軽やかに。
その足取りは四之太刀、無月。
されどその構えは四之太刀にあらず。
無月は本来、縮地が如き歩みの先に、刀を置いて敵を斬る。
だが彼の左手には、鞘に収められた一刀。
彼は七つある月下の剣の六までを既に納めている。
それ即ち、彼が今繰り出さんとするのは————、
「終之太刀————ッ!」
この数百年、ただ一人を除いて誰一人として会得していない、月下天心流の奥義。
そしてそのまま————、
「っと、わっ、ぬおああああ!?」
勢いよく顔面から体を道場の壁へと叩きつける。
詰まるところ、まだ習得には至らず、という結果に終わった。
「ってててて……」
「大丈夫かい、作一?」
「大丈夫だよ……。いや、流石にくっそ痛えけど」
額をさすりながら彼は顔を上げて、師に支えられながら身体を起こす。
「やはり腕は上がってるよ作一。少なくとも最後の仕掛けるタイミングはとても良かった」
「あんたに何年教わってると思ってんだ……」
「もう八年だね」
「そういうことを言ってるんじゃねえんだけど……」
とはいえ、刀を握り八年。我ながら、あの頃と比べれば相当に腕は上がったと思える。
まだ、己が師に手は届かない。実力差が歴然だというのは、刃を交えれば交える程に理解ができる。まだ己に足りないものも、何をすべきかも分からない。
けれど、ようやくその背中が見えた。その距離まで、この歩みを進められた。
そして、それをわかった上で————
「いや、というか、この奥義を考えた奴、頭おかしいんじゃないんですか!?」
訴える。心の底からの叫びを。
「何ですか、四之太刀が如く歩を進め、五之太刀が如く弱きを見極め、六之太刀が如く力を抜いて、一之太刀が如く刃を振えって!?一個の技ですらクッソ難しいのに全部合わせろって、馬鹿なんじゃないんですか!?」
「うん、分かるよ」
「つーか、先生どころか作った本人以外誰もできてない時点で、俺には無茶が過ぎますでしょう!?」
それには陣内は、優しく笑ってその頭を撫でる。
「いいや、君には才能も素質もある。無茶というほどの無茶じゃないさ」
「いや、にしても……」
「それに技は多ければ多い方がいい。これから君が戦う相手は、今までの技だけで太刀打ちできるとは限らないからね」
優しさは残しながらもその声音は重く、厳かに。
「それは、分かってるよ……」
それには、彼も静かに言葉を受け入れる。
三ヶ月前、かつての相棒と死闘を繰り広げた。その彼と相対し、札がどれだけあるかが戦いの中でどれだけ勝敗に左右するかはよく理解した。
その彼に戦いを教えた、先生が言うのだからと少年は腐ることもなく、ただ静かに深く頷いた。
「そういえば、作一」
「ん、どうしたよ」
思い出したか気づいたかのように、彼は道場の裏から置き去りにされた花柄の道具袋を手にする。
「さっき更衣室を片付けてたらこれを見つけてね」
稲本がまじまじと見れば、それはどこか見覚えのある道具袋。具体的に最後に見たのは、数日前。
「これは……河合さんの?」
「恐らくね。きっと忘れていったんだろうし、届けてきてくれないかい?」
時計を見ればまだ二十一時を回った頃。まだギリギリ忘れ物を届けても大丈夫な時間ではあるが……
「いや、別に連絡入れて明日とか持ってくでも……」
「もしかしたら探してるかもだろ?」
半ば強引に押し付けられる。渋々と受け取りはするが、正直今日でなくてもいいだろうという感想しかない。
ただ、気のせいだろうか。どことなく、珍しいと思ったのは。
戦いのときならいざ知らず、普段は割とのんびりしてるこの人が、急かすということが。
だからだろうか、俺もそのままため息ひとつついて。
「わーったよ。ついでにコンビニ寄ってくる」
上着を羽織り、荷物を手にしてそのまま玄関へと向かう。
「ああ、作一」
そんな俺を呼び止めるような声。振り返れば、いつもの先生がそこに立っている。そして、いつもの通りの、変わらぬ声音。
「迷わないようにね」
「……何言ってんだよ。迷うわけないだろ」
それには、いつも通り返す。
今だけは何の疑念もなく、ただ慣れ親しんだ家族への軽口で応えた。
「んじゃ、行ってくるよ」
「ああ、行ってらっしゃい」
戸を開けば、涼しき風が頬を撫でる。
愛車に火を灯し、緩やかなエンジン音と共に夜の町へと躍り出る。
ただどうしてか、振り返れば少しだけ我が家がもう戻れないほど遠くにあるような、そんな気がしてしまった。
————ルプスによるUGN H市支部襲撃から、三ヶ月の時が経った。
あの日の黒鉄との死闘、そして奴の告白から俺は独自に『13』と先生について調べるようになった。とはいえ、疑念を悟られずに調べられる範囲には限りがあった。せいぜい調べられたのは、『13』の発足の経緯くらい。
設立者はUGN評議員が一人、ディセイン・グラード。彼は家族を、オーヴァードの力によって奪われた。非オーヴァードである彼は無力を感じながらも、コードウェル博士と共にオーヴァードと人間の共存の道を模索した。
そして今から十数年も前。まだUGNとしての体制も整い切ってない情勢の中、幹部の一人だったディセインがUGN内部の秩序のためと、彼が信頼する部下を集め一つの部隊を作り上げた。
超常の力に溺れ、己が欲に従おうとする同胞。組織の内部へと潜り込んだ間者。人間とオーヴァードの共存を阻む者。
それらを秘密裏に処理し、UGNという組織が正しくあれるようにと作られた特務部隊。それが、『13』という部隊の始まり。今日の今日まで、誰に知られることなくこの秩序を維持してきた。
結局、ここまで調べても真相につながるものは何一つつかめなかった。先生が黒鉄に伝えたことも、カスケード社のテロとの関係も。
疑念が疑念のまま膨れ上がって、知りたいことは何一つ分からぬままここまで来てしまった。
俺はどうすべきか、惑いに惑って。
————視界が、ぐらりと歪む。
「っ……!」
バランスが崩れたことを脳が認識して、無意識に片足で地面を蹴り上げ体勢を立て直す。
朧げになった意識が戻り、記憶を頼りに状況の把握を始める。生憎と、何が起きたのか理解するには一秒も必要としなかった。
今のは、"ワーディング"だ。それもとてつもなく強力な。呼び起こしてはならない何かの、目覚めの方向のように。発生源は正面、まさしく、自分が向かっている方角から。
「……いいや、まさかな」
先まで回していた思考のせいか、最悪が脳裏に浮かぶ。
それを形にさせないためにも、勢い良くスロットルを全開にする。一瞬前輪が浮いたが、じゃじゃ馬を押さえつけて、赤い軌跡を残しながら夜の闇の下を駆け抜けた。
時計の長針の指す数字が変わるよりも早く、二つのタイヤがアスファルトを切り付けながら停止する。ヘルメットを投げ捨てれば、肌という肌がオーヴァード同士の戦いを感知する。夜の闇に溶けるように黒き煙が上るのが、それを事実だと裏付ける。
「クソ……嫌な予感が的中したか……!?」
感情のまま、刀を左手に創りながら駆け出す。通り過ぎていく景色を横に、河合春奈の家に向かう。
そして、目の前に広がっていたのは、自身が想定していた最悪なんてマシと思える光景。
あたりに散らばるのは人だった肉と骨の欠片。その断面から、彼らが巨大な獣の爪のような何かに引き裂かれたと理解する。それと同時、あたりに散らばる布の切れ端と装甲の破片を、嫌でも認識した。
「どういう……事だ……」
彼らが纏っていたのは、己が特務用に支給されていたボディアーマー。即ちここにいたのは、『13』の人間。UGNの秘密特務部隊が彼女の家にいて、そして殺された。
何一つ理解が追いつかない中、爆音と共に二つの黒き影が目の前に飛び出す。
「流石に、厄介ね……!」
「覚醒したばかりとは思え————」
「久遠……それに、レイモンド!?」
俺の声に、二人が振り向く。
フェイスハイダー越しでも、二人の表情は手に取るように分かった。
「稲本……!?」
「お前は今回は外されたはずじゃ……!?」
「どういう事だよ、俺が任務から外されたって———」
そんな問いも、もう一つの轟音が呑んだ。
いいや、呑んだのは轟音じゃない。
「許サナイ……許サナイ……!!父サント母サンヲ……ヨクモ……!!」
眼前には、黒き爪をその手にした、白き仮面の人型の獣。
そして聞こえる、声。
慣れ親しんだ、この数年、日々の中で聞いてきた彼女の声が聞こえる。
「河合……さん……?」
目の前の獣が聞こえるはずもない声を発していて、頭の中が全て掻き消されていく。
「零、そいつがターゲットよ!」
「俺が援護する、そいつを確保しろ!」
言葉が、空っぽになった頭を通り過ぎる。
迷い、惑う。
何をすべきか、何を斬るべきか。
思考というものが全て無意味になって————
「稲本……クン……?」
声が、確かに聞こえた。
そこからはもう、何も覚えていない。
ただ一つ確かだったのは、己が心のままに刀を握っていた事。
そして————
「っ……はぁ……はぁ……!」
次に意識が戻れば、振り抜いた刃が焔を斬り裂いた。剣先はそのまま、二人に向けられていた。
「どういう事よ……零……!」
「お前、何をしたのか分かってるのか……!?」
投げられる問い。頭の中はぐちゃぐちゃで、何一つ纏まってなどいない。
「分からねえ……分かりたくもねえ!」
それでも分かる、確かなこと。
「民間人を襲ってまで従う命令なんざ、知りたくもねえ!!」
己がその手に剣を握る。
ただ一つ、たった一つの理由と共に。
戦いの幕が、静かに切って落とされる。
物語は今、終わりへと向かい始めた。
続
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