ストレス

山田貴文

ストレス

 十数年前の話。ぼくが新卒で勤めたのは、まだそんな言葉はなかったけれど、ブラック企業という言葉がぴったりなひどい会社だった。外資系の大手IT企業で、名前を言えば、たぶんあなたも知っているだろう。えっ、あそこが?と驚くに違いない。そう。あの会社、外づらだけはよいのだ。

 どこがどうブラックかと言うと、とにかく売り上げを上げるためには何でもやったのである。当時億単位の値段がしたコンピューターを無理矢理お客さんに押し込んだ。契約や支払いは後でもいいからとにかく置かせてくれと頼み込んだのだ。置かせてくれない時は代理店に押し込んだ。それも無理なら倉庫に隠した。お客さんが必要かどうかなど関係なかった。

 なぜそんなことをやったか?僕たち社員の給料が完全歩合給だったのである。きれいな言い方をすると、コミッションというやつだ。売り上げが目標以上だと、えっと驚くような額をもらえる。達しないと、そのへんの一般企業より安い額になってしまう。座して死を待つ馬鹿はいないので、ぼくたちはしゃかりきになって働いた。

 当然のことながら、会社は簡単に達成可能な目標など設定しない。逆にインチキをやらないと到底なし得ないような無茶な売り上げを上げるよう命じられていた。

 ぼくは結構がんばった方だった。上司や先輩と一緒に毎年それなりの売り上げを上げた。もちろん、真っ当な手段では不可能なので、いろいろ無理をやった。お客や代理店に頼み込み、脅し、欺し、根回し、何でもやった。これは仕事だと割り切ろうとしながら。後に仕事相手が怒ったり悲しんだりするのを見るのは本当につらく、ぼくの神経はズタズタになった。

 そして毎年結構な金額のコミッションを受け取ったが、貯金はさっぱり増えなかった。趣味や旅行にほとんどつぎ込んだら蓄えなど残らなかったのだ。

 ぼくは借金まではしなかったが、周囲には消費者金融の世話になっている者も多かった。当時、ぼくらと同様の労働環境にあった証券会社の社員が「人の二倍働いて三倍遊んで四倍使う」と言われていたが、まさにそんな感じだった。

「おまえ、また芝居を見に行っているのか?」

 同期の角井はよくぼくをからかった。こいつは金を使わない男だった。

「ああ。昨日も行ったよ」

 演劇鑑賞はぼくの主要な趣味のひとつだった。

「芝居って、いくらするの?」

 ぼくはチケットの料金を教えてやった。

「うわっ。高い。おまえ月に一回は行ってるんだろ?十二倍すると、一年でこんな金額になるぞ」

 角井は電卓を取り出して計算してみせた。大きなお世話だが、やつの顔は真剣だった。

「せっかくコミッションをたくさんもらっても、使ってしまったら意味ないじゃないか」

 こいつに趣味らしい趣味はなく、貯金通帳の数字が増えることだけが生きがいに見えた。いつかは都内の豪邸と高級外車を買うのだと言っていたが、目標額が貯まるまではと、ぼろアパートに住み、車は持たなかった。

 それからもぼくが会社で同僚と趣味の話をするたびに角井はせせら笑っていた。また金を使ってやがるという感じで。そして時々は悪趣味にもぼくへ預金通帳を見せに来た。そこにはこいつ金を全く使っていないんじゃないかと思いたくなる金額があった。

 角井は会社の人間と帰りに一杯やることもなかった。彼にだって会社のストレスはあったと思うが、それに耐え、黙々と苦労を貯金へ変えていったのだ。

 数年後に角井とは別の部署になって会わなくなったが、風の噂にやつの貯金が一億円を突破したらしいと耳に入ってきた。だが、その時点でもまだ彼は豪邸と外車を買っていないようだった。もっといい家を、もっと高い車をと我慢していたのだろうか。

 角井が何度か体調を壊し入院したとも聞いたが、そのたびに不死鳥のように甦ると働いては金を貯め続けた。


 二年前にぼくは転職した。取引先の部長から紹介された日本の中堅メーカーに移ったのだ。とても雰囲気のいい会社で、営業活動も押し込み販売とは無縁で良心的だった。ぼくは前職と同じ営業だったが、まるで別の職種かと思えるほどストレスを感じなくなった。

 歩合給なぞない固定給で、もちろん、前勤務先でコミッションをたんまりもらった時よりは年収は低い。ただ、それでもなぜか、ぼくの貯金は増え出した。これまで通り、趣味には普通に金をかけていたつもりだったのだけれど。

 そして職場の女性と恋に落ち、昨年結婚した。これからも特別に裕福ではないが、そこそこの蓄えを持ちながら普通に趣味や旅行を楽しむ文化的な生活を営めそうだ。


 つい最近のこと。前職の同僚から連絡があった。同期で前は仲が良かったのだが、最近とんとご無沙汰だった。突然の連絡にとまどいながら電話に出た。

「角井のことを覚えている?」

 彼は突然、ぼくが忘れかけていた守銭奴の名前を出した。

「おお。豪邸建てるとか言って、金貯め込んでいた嫌なやつだったな。奴がどうしたの?」

「死んだよ」

「えっ?あいつ、結婚していたっけ?」

「しているわけないじゃん」

 数日間連絡なしに出社してこない彼を不審に思った上司が実家に連絡。ところが、どうしても連絡がつかない。仕方なく上司が大家に鍵を開けてもらってアパートに入ったところ、部屋の真ん中で死んでいたそうだ。

 部屋はまさにゴミ屋敷状態で、足の踏み場もなかった。うつ伏せにこと切れていた彼の手元には、あの世へ持って行けなかった預金通帳があった。そこには考えられないほど多額の数字が印字されていた。その財産は結局、家にも車にも変わることはなかった。死因はストレスから来る心筋梗塞とのことだった。


 人がまわりからどう思われていたかは葬儀会場ですぐわかる。角井の通夜ほど閑散とした葬儀は初めてだった。それに誰も泣いていない。やはり人望のかけらもなかったのだ。ぼくは彼とたいして親しくなかったが、昔の同期と一杯やるのが楽しみで顔を出した。

 角井の死に顔はお世辞にも安らかとは言えなかった。顔色は真っ黒で表情は苦痛に満ちており、断末魔とはこういう顔かと思わせるものだった。


 葬儀後の飲み会で、元の同僚たちと角井の話をしたのはほんのわずかだった。誰も彼の死を惜しむ者はいない。後は他の昔話で普通に盛り上がった。

 ぼくは酒を飲みながら、なぜ自分は角井のように倒れなかったのだろうかと考えた。ひとつ思い当たるのは、前の会社にいた時にぼくが金を使っていたことだ。金と一緒にストレスを流していたのだ。

 社会人経験を重ねた今だからわかる。金には色や名前がないとよく聞くけど、あれは嘘だ。色もあれば名前もある。どう稼いだかで持っている金の性格が変わるのだ。ストレスと共に稼いだ金はストレス解消で使う。それが正しかったようだ。角井はなまじっか使わずに溜め込んだために病気になってしまったのだ。

 一方、ぼくは前職で金と共にストレスを流したが、今の仕事ではストレスがそれほどないため、普通に貯金が増えている。金なんてそんなものらしい。

 角井はあの世に財産を持って行けなかったけれど、ぼくは持って行きたいと考えている。もちろん、それは金じゃない。彼ほど貯金するのは無理だろうし、形ある物をこの世から持ち出せるはずがない。

 でも、ぼくにとっては趣味で楽しんだ時間、大切な人たちと一緒に過ごした時間が財産だ。それはきっと持って行くことができる。

 そう。あの世へ持って行けるのは思い出だけだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ストレス 山田貴文 @Moonlightsy358

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ