潜夢者 -Diver-
牛屋鈴
1.太陽
俺が初めて熱を出した時の話をしよう。
それはまだ七才だった頃。人生で初めての悪寒はとても不快で、まるで世界に拒絶されたかのように感じたのを覚えている。
そんな日のお昼前、母はパートの時間だと言って家を出てしまった。体が苦しい時、一人きりになるのが本当に心細くて、寂しくて、今まで育ててもらった恩も忘れて自分は誰にも愛されてないんだとか、世界一孤独な人間なんだとか勝手なことを思っていた。
窓から部屋に差し込む太陽はただただ真っ白なだけで俺に何もしてはくれない。無責任な光が俺の孤独の幻影を強く映し出す。
俺、このまま死ぬのかな。なんて人生を舐めた思考と共に、眠った。
――それから三、四時間後。起きると、俺の体は大きく安心していた。
まだ息は苦しいし、悪寒も抜けていない。寝る前と何が違うんだろう。
そしてすぐに、自分の手を握ってくれている人の存在に気が付いた。
「あ、かな君起きた」
一つ上の幼馴染のひま姉が、俺と手を繋いでくれていた。部屋に差す光を受けて、三つ編みが柔らかに輝いていた。
「……ずっと……繋いでてくれたの?」
「うん。こうすると、早く治るから」
その瞬間、とてつもない量の涙が溢れた。自分が一人ぼっちじゃないことを、心の芯から思い知らされた。
その日から、俺にとっての太陽は空にあるそれではなく、ひま姉になった。
「あぁー、そんなこともあったねぇ」
なんてことを本人に話したら、今の今まで忘れられていた。学校の廊下に、ひま姉のあっけらかんとした顔が浮かぶ。
「十年? 前のことなんでしょ?」
「九年前」
「じゃあ覚えてないよー。そんな昔のこと」
ひま姉にとってはそれだけ些細なことだったらしい。だが、それを聞いても思ったほどのショックはなかった。
要は、俺だけが覚えていたらそれでいいんだ。本人が忘れていても、他の誰かにとってはくだらないことでも、俺だけが価値を信じていて、覚えていられたら、それで。
「じゃあ、また夢で」
「うん、また」
チャイムと同時に雑談を切り上げて、ひま姉と別れる。廊下から教室に戻ると、友人が冷やかしてきた。
「
「ああ、それはそれは楽しく」
「仲良いよねぇ、幼馴染だもんね」
「今はまだ……な」
いずれ俺はひま姉と『幼馴染』よりも深く強固な繋がりを手に入れる。『恋人』という繋がりを。
「どうかな。幼馴染は負けフラグだってよく聞くけど」
俺は友人の言葉を鼻で笑ってやった。
「問題ないね。要はそれ以上の勝ちフラグがありゃあいいんだから」
・・・・・・
どこかで聞いた話によると、『人は夢に出てきた人を好きになる』らしい。
だから俺は毎日ひま姉の夢に潜った。
「ひま姉、来たよ」
「あ、かな君こんばんは」
二階建てのメリーゴーランドに乗りながら料理しているシェフを背景に、革張りの椅子に座ったひま姉がこちらを見た。
テーブルの上では小人達がバスケットボールをしており、赤い方のチームがダンクを決める度にメニューを一枚めくれるルールのようだ。
床には魔法のステッキのおもちゃがモグラたたきみたいに生えたり引っ込んだりしている。うまく捕まえられたと喜んでいる女の子も居た。
「また変な夢見てるなぁ」
俺はまったく動揺しなかった。人の夢っていうのは大体こんな感じだからだ。なんならここがファミレスだと察せるだけまともな夢だと言える。
冷静に、ステッキを踏み折らないように気を付けてひま姉の向かいに座った。
「……ひま姉、何頼む?」
「うーん、タイヤかなぁ」
本当にここがファミレスかどうか怪しくなってきた。
「じゃあ俺はガソリンにする」
俺も合わせてめちゃくちゃなことを言う。何度も訪れているのでお手の物だ。
そう、俺は人の夢に潜り込む特殊能力を持っている。そしてそれを使い、毎日のようにひま姉の夢に潜り込んでいる。
ひま姉から見た俺は『毎晩夢に出てくる年下の幼馴染』である。これは運命感じちゃっているのではないだろうか。仕掛人の俺が感じてるくらいなんだから向こうは数百倍運命感じてても不思議はない。
これが俺の『勝ちフラグ』である。最早ひま姉が俺に告白してくるであろうことは確定事項。あとはそれが遅いか早いかだけだ。
ちなみに俺がひま姉の夢に入り浸るようになったのは恋を知った七歳の頃。それから九年経ち、俺はもう高校一年生になった。
……少し遅すぎるのではないかと思わないでもない。
「……それ、どんな味?」
「エンゼルフィッシュみたいな感じかなぁ」
食いちぎられたタイヤを持ちながら、ひま姉はそう答えた。食べたことあるのか、エンゼルフィッシュ。
「ひま姉さぁ……なんか、俺に言うことない?」
夢の中の人物に質問して、まともな会話になる確率は五分五分だ。あまり期待せずに探りを入れてみる。
「えー……恥ずかしいなぁ……」
ひま姉が頬を赤く染めて、そこに手のひらを重ねる。これは、会話が通じてる……?
「あ、あるの? あるよな? 俺に言いたいこと」
「あるけどぉー……どうしよっかなぁ。言おっかなぁ、でもなぁ」
強く手をつき、バスケ選手を揺らしながら前のめる。
「言って! 今! 言ってくれひま姉!」
俺のことが好きだと!
「そこまで言うなら……教えてあげる」
にこりとはにかんだ微笑みが、俺の世界に色を付けた。
人の夢に潜り込む能力、なんで俺はこんな能力を持ってるのか。その答えを、今貰った。俺はこれを見るためにこの能力を得たんだ。
……長かった。九年間の地道な努力が報われる時がついに来た。ずっと前から約束されていた、次の一言を待つ俺は、まさに夢見心地だった。
「恋人ができたの」
魂が抜けるようなショックが体を襲う。ギリギリの所で踏みとどまって、一縷の望みに賭ける。
「その恋人って……俺?」
「ううん。同じクラスの、
魂が抜けた。
・・・・・・
二時間。
それは俺が夢から覚めてから布団の中でお腹を抑えていた時間であり、学校に遅刻した時間であり、とある決意するまでの時間だった。
遅刻したが、堂々と教室の扉を開ける。ちょうどその時学校は授業と授業の間の休み時間だった。
教室の友人と目が合う。
「あぁー……ちょっと待って、当てるから。失恋……だね?」
友人は苦笑いで重役出勤の俺を出迎えた。
「ご
「違う」
自分でも少し驚くくらい、低くてしっかりした声が出た。
「勘違いには二種類ある。『した』勘違いが『夢』。『させられた』勘違いは『嘘』だ。つまり、俺は夢を見たんじゃない。嘘をつかれたんだ。だってひま姉は今までずっと俺と一緒で、俺にだけ優しくて……これだけ俺をその気にさせておいてっ、そりゃそういう気にもなるだろうが! 俺は被害者だ……!」
俺は鞄だけ机に置いて、
所詮、昨日のあれは夢の中での会話だ。なんの意味もないうわ言だった可能性も大いにある。ので、その真相を確かめる。本人に、直接。
決意に満ちた俺の足取りを、友人は生暖かい眼で見ていた。
「……加害者にならないことを祈ってるよ」
・・・・・・
「あ……かな君、おはよう」
一つ上の学年の教室。ひま姉がそこから顔を出す。
「今日は朝、一緒に学校行けなかったね。お腹痛かったみたいだけど……治ったの?」
「ひま姉……昨日の夢、覚えてる?」
「え? ……あぁ、昨日もかな君出てきたけど」
「夢に、今まで俺が何回出てきた?」
「えっと、小学生の頃からほとんど毎日だから……」
その簡単なかけ算に答えが出るより早く、核心に迫る。
「俺に運命とか、感じない?」
次の瞬間、ひま姉が俺の胸に飛び込んで来た。
来た。やはりひま姉は俺のことが大好きだったのだ……と、そんな逆転勝利を確信する間もなく、ひま姉の異常に気付く。顔色がめちゃくちゃに悪い。
「ひま姉……?」
「う……うぅん……」
返事とも呻きともとれない声が返ってくる。分かんないけど何かの病気だ。
「……おぶるから、つかまって」
色々な気持ちにとりあえずの蓋をしてから、ひま姉をおぶって保健室に向かう。
保健室のドアを開く。
「先生、ひま……先輩が」
「あら、病人の多い朝だこと。熱計るから、とりあえずそこの子の横のベッドに寝かしといて」
そこの子。先生に指された先を見ると、茶髪の男子生徒が横たわっていた。
言われた通りに男子の横のベッドにひま姉を寝かしつける。すると男子と眼が合ったのか、ひま姉の口から呟きが聞こえた。
「松沢君も……?」
松沢。ひま姉が夢の中で口にした名前。
とりあえずの蓋が、勢いよく吹き飛んだ。俺は先客の男子を睨みつけた。お前が、お前が俺のひま姉を奪ったのか?
そう問いただそうとしても、男子は既に眠りについていた。ひま姉もシンクロするように目を閉じている。
蓋をなくし、確かめる先もない気持ちが体内を駆け巡る。
「あー……おぶってきた君、その女の子の名前と学年、分かる?」
「二年一組の、
「え?」
ひま姉の横のベッドに勢いよく寝転ぶ。先生が何か言っていたけど、布団にくるまって外を遮断する。そして俺は夢の中へと潜り込んだ。
ひま姉が寝逃げするなら夢の果てまで追いかけてやる。
今度こそ真実を確かめる。
・・・・・・
ひま姉以外の人間の夢に潜ったこともあるが、夢とはその人間の記憶と心、その全てで構成された一つの世界のようなものだ。その人間が見たこともないものはどこにも存在せず、その人間が僅かでも憶えているものは必ずその世界のどこかに存在する(ファミレスにメリーゴーランドがあったり、位置はめちゃくちゃだけど)。
ただし俺の夢だけは例外で、俺が記憶しているものは俺の夢に欠片も存在しない。
無限に続く白い空間を埋め尽くさんばかりに、極彩色の水溜りが偏在している。この光景が、俺がいつも見る夢の光景だった。
そしてその水溜りの底が、誰かの夢に繋がっている。
「……ここだな」
慣れたもので、すぐにひま姉の夢に続く水溜りを見つける。俺はそのままそこに身を投げて潜り込んだ。
水が耳を覆う感覚。次に目を開けると、俺は夢の上空に居た。眼下には夢らしく森やら街やら海やらがバラバラに混ざった奇妙な世界が広がっている。
その内の森辺りへ華麗に着地する。現実ならまず助からない勢いだったが、夢の中なので怪我はない。
ひま姉の所へ行こうと気配を探っていると、そこらの木やシートベルトなどが話しかけてきた。
「かまぼこと一緒にすると錆びやすいからドッジボールはやめときな?」
「最近公園行ってないぜ。百二十円だけ持って出かけたいぜ」
「英語の教科書ってやっぱり匂い違うよねぇ? ほらほら」
「ほな水族館やないか!」
ノイズだ。無視して第六感に集中する。
「オホーツクツクボウシ」
「……なんだお前」
支離滅裂な言葉を一方的に喋ってくる無機物達。その中で計量カップの存在だけ、無視できなかった。
夢らしくめちゃくちゃであるという点は周りと同じだけど、その計量カップだけは『気配』が違った。
拾い上げてみる。
「こいつだけ、ひま姉の夢じゃない……?」
断言はできない。長く何度もひま姉の夢に潜って来たけど、こんな感覚初めてだったから。でもやっぱり、感覚を研ぎ澄ませば研ぎ澄ますほど、持ち上げた計量カップから異物感がする。
更に研ぎ澄ませば、こんな異物がこの夢に点在していて、ある方向へ広がっている気配も感じられた。
俺の感覚が正しければ……今、ひま姉の夢の世界に謎の異物が侵入していることになる。もしかして、これがひま姉の不調の原因か。そんな予感がする。
俺は計量カップを燃やした。
夢の中の物を消したり動かしたりするのは、やりすぎると頭が痛くなるから滅多にやらないようにしてきたけど……。
ひま姉を寝込ませ続けるわけにはいかない。
強い異物の気配が広がっている方へ足を向けた。頭ぶっ壊れてでも、この原因を燃やし尽くしてやる。
・・・・・・
全然うまくいかない。
「おらああーっ!」
異物の気配が広がる場所で目の前を燃やし続ける。しかし、どれだけ力んでも一度に出せる炎の大きさは自分と同じくらいが限界だった。
目の前の境界の先は、異物が支配していてまるで別の誰かの夢の中みたいだ。それは広大な範囲に広がっていて、まさにもう一つの世界と呼ぶにふさわしい。どころか、じわじわとひま姉の夢を侵食している気配すらする。
少し目の前を燃やしたくらいじゃ焼け石に水だ。こんなペースじゃ、睡眠中に終わりそうもない。とはいえ、今も現実世界で苦しんでいるひま姉を思えば途中でやめるわけにもいかない。俺はもう一度境界から先を燃やそうとした。
「おら……」
「やめろ」
その時、声をかけられた。
「そのやり方じゃ記憶と時間がいくらあっても足りない上に……何より、男が助からん」
振り返ると、一人の男が居た。俺と比べて歳は十ほど上だろうか。長髪を背中まで垂らして、鷹のように鋭い目つきをしていた。
人の姿をしてはいるが、どうせ夢の住人だ。俺はそいつの言うことを無視して目の前に向き直った。
「……無視するな」
男がビンタしてきた。ばちんと綺麗な音が鳴る。
「いった、痛いなぁ! 邪魔するんならお前から燃やしたって……」
そこで男の気配の異質さに気付く。こいつはひま姉の夢の住人じゃない……けど、他の異物とも気配が違う。
「……それもやめた方がいい。お互いに無駄な消耗をするだけだ」
しかも、会話が成立している。
「あんた……なんなんだ? あんたがこれをやったのか? あんたがひま姉の夢にこんなもん混ぜたのか!」
「違う、むしろ逆だ。私は混ざってしまった二人の夢を切り離しに来た」
詰め寄る俺を避けながら、男は言葉を続ける。
「私は……
「他人の夢へ潜れる者……俺以外の……?」
この男……鋳門が言っていることは、多分本当だ。夢の中の住人とこんなに長く会話が成り立つことは滅多にない。鋳門はちゃんとした意識を持っている、俺と同じ、外から来た人間だ。俺以外にも仲間が居たとは……。
……だとしたら。
「二人の夢が混ざってるって……どういうことだ?」
・・・・・・
鋳門さんと夢の中を練り歩きながら話す。
「お前はひま姉……だったか、この夢の主と知り合いなんだな」
「うん……幼馴染」
「最近、そのひま姉の体調に変化はなかったか?」
「倒れ込んだのを、保健室に運んできたとこだよ」
「その原因は、そいつと他の人間の夢が混ざり合ってしまったからだ。他人の血が混ざると体が拒絶反応を起こすように、他人の夢が混ざると脳が拒絶反応を起こす……この夢が混ざってしまった地点は、互いにとってのウイルスのようなものだ。このまままこの地点が広がり、完全に混ざり合ってしまえば二人は死ぬ。そうなる前に、混ざり合ってしまった部分を切り離さなければならないっ」
鋳門さんが夢の地面を、持っていた剣で切りつける。
「……何か質問はあるか?」
「じゃあ、二つ。さっきから定期的に地面を浅く切ってるけど……それ何?」
「切り取り線を作っている。混ざった所と混ざってない所の境界にこれを作っておけば、これ以上の進行を止めることができるし、最後に切り取る印になる……もう一つは?」
「なんで、俺に手伝えって言った?」
「お前は毎日潜っていたから、幼馴染の夢とそれ以外との違いに敏感だ。今日初めて潜った私よりもな。だから切り取り線を引くために役立つだろう、そう思ったまでだ……手伝うのが嫌ならこの夢から出ればいい。だが、お前としても幼馴染を救いたいんじゃないか」
他にいいやり方もないし、とにかく今はこの人を頼るしかなさそうだ。
「……分かった。鋳門さん、あんたを手伝うことにした」
「よし……どっちに男の夢が広がっているか教えろ」
「こっち側に、ひま姉じゃない夢が広がってる」
「分かった」
俺のガイド通りに、鋳門さんが夢の中を進んでいく。俺も後ろからそれについていく。
・・・・・・
「……ふんっ……ふぅー……」
夢の地面にまた一つ、切り傷ができる。
鋳門さんが地面を切った回数は、そろそろ三桁を迎えそうになっていた。よっぽど体力を使ったのか、鋳門さんは剣を振るう度に頭を抑えて息を荒くするようになっていた。
「……そろそろ代わるよ。切り取り線引くのも俺がやる」
鋳門さんと同じ剣を作るため、手のひらに意識を込め……ようとした瞬間、鋳門さんが切りかかってきた。
「うわぁーっ! ……何!」
「お前が剣を持つ必要はない。切り取り線を引くのも、最後に切り取るのも全て私がやる。お前はこれ以上夢に干渉するな」
鷹のような目つきを更に鋭くさせて、鋳門さんは俺を睨んだ。
「な、なんで……?」
「……夢に干渉する時、私達はとあるエネルギーを消費する。知っているか」
「え……? そういえば、何か消したりしたら頭痛くなるけど……」
「記憶だ。何かを移動させたり抹消させたり創り出したり、夢の中に干渉すると、その量に応じて同じ分だけ私達は何らかの記憶を失う。お前の頭痛はそのせいだ」
「そ、そうだったのか……!」
そういえば鋳門さんは最初にも『そのやり方じゃ記憶と時間がいくらあっても足りない』と言っていた。そういう意味だったのか。
この能力を得てから九年、初めて知った。
「記憶を失えば、失ったことすら分からんのだから、今まで気付く機会がなかったようだな……分かったらお前はガイドだけしてろ」
記憶を失うなど、空恐ろしい話だ。言う通り鋳門さんに任せるとしよう。
「……あれ? 鋳門さんは大丈夫なの?」
「私は……いいんだ。訓練しているから」
「訓練……いや、でも」
「俺がこうしてるのは、別にお前の幼馴染のためじゃないし、夢が繋がったもう一人の男のためでもない。私が、私であるためだ……お前が気に病む必要はない」
そう言い切って、鋳門さんはまた地面を切りつけた。
・・・・・・
鋳門さんと二人で切り取り線を引いている道中、それは見つかった。
「……なんだこのでっかいビー玉」
鋳門さんが引いた切り取り線の丁度外側にあったそのビー玉は、直径が俺の身長の三倍くらいあった。
なんの脈絡もなく、こんな馬鹿でかいモニュメントが鎮座している。それだけであれば夢の中だしなんら不思議ではないが、そのビー玉には、他に不可解な点があった。
気配に違和感がある。ひま姉の夢の物じゃない、けど、ひま姉の気配がする。
触れて確かめてみると、それがビー玉に見えるスノードームのようなものであることを理解した。中では無数の写真が輝きを放ちながら舞っている。その全てにひま姉が写っていた……ひま姉を見つめる、第三者の視点で。
「……おい、何してる」
「男、って言ってたよな。鋳門さん、ひま姉の夢と繋がった夢の主は男だって」
「……ああ、そうだ。お前と会う前にこちらの夢の主を確認した。お前と同じくらいの歳の茶髪の男だったよ」
同じタイミングで倒れてるし……じゃあ、この夢はあの松沢の夢か。俺のひま姉の恋人になった(疑惑)うえに、ひま姉を苦しめるウイルスにまでなるとは、腹立たしいことこの上ない奴だ。
つまりこのでっかいビー玉は奴の記憶、ひま姉との思い出……恋心の具現化といったところか。ひま姉から松沢への矢印はまだ未確定だが、松沢からひま姉への矢印はこれで確定したわけだ。
「……クソがっ!」
ムカついてビー玉を蹴った。ビー玉はびくともしなかった。
「何してる。早く行くぞ」
「鋳門さん! 俺はねぇ! 好きなんだよ! ひま姉が! もう世界でいっちばん好き! だからひま姉の夢にも入り浸ったし、夢の中でも外でも、太陽みたいな笑顔を見るたびに世界に色がついて、もっと大好きになっていった!」
「そうか」
「だから俺とひま姉は両想いじゃないとおかしいでしょうが!」
「そうだろうか」
「こんなビー玉! もし俺の恋心が具現化できたら、絶対にこんなビー玉より大きい!」
ビー玉に向かって溢れる想いを怒鳴り散らす。
「クッソ、こんのゲロカスがぁ……! 身の程知らずにもひま姉をこんな目で見やがって! 俺のひま姉は絶対にやらん!」
必ずひま姉は俺のことが好きだという真実を手に入れてみせる。そのためにも、早い所ひま姉を回復させねば。
「鋳門さん、早く行こう」
「お前……本当に夢の住人じゃないんだよな?」
・・・・・・
「……あれ?」
切り取り線を引いていると、既に切り取り線が引かれている場所に出た。
「迷子になってる……?」
「いや、これでいいんだ。夢に果てはないからな、これで切り取り線が一本引けた」
夢に果てはない……らしい。ひま姉とお喋りするばっかりでこんなに夢の中を歩き回ったことなんてなかったから知らなかった。地球だって球状で果てがない形をしているし、考えてみれば普通のことかもしれない。
「とにかく、後はこの線通りに切り取ればいいんだよな」
「いや、あともう一本、ひま姉とやらとそれ以外の境界に線を引かなければならない」
「……ああ、そっか。今引けたのは松沢の方だもんな」
松沢の夢だけの場所、混ざり合った場所、ひま姉の夢だけの場所の三つに切り分けなければならないから、引かなきゃいけない線は二本だ。
「そういえば、どっちの夢からも切り離された、混ざり合った場所ってどうなるの?」
「……切り離され、どちらの夢でもなくなった瞬間に崩壊を始め、虚空に消える」
「それって……混ざり合った所の記憶は、二人共忘れちゃうってことだよな?」
「悪いが、死ぬよりはマシだと我慢してもらうしかない。混ざり合った箇所を全てより分けるには、時間も記憶も足りん……悪く思うなよ」
鋳門さんは、眼を伏せてこちらを見ずに、気まずそうにそう言った。ボランティアなのに。
「いいよ……鋳門さんは自分のために頑張ってるんだもんな」
人はみんな自分のために頑張る。そこに間違いはないと思う。
・・・・・・
「どりゃああーっ!」
でかすぎて一反木綿みたいになってる冷えピタを、切り取り線の内側から外側、混ざり合った場所からひま姉の夢へ投げ飛ばした。
それ以外にも手当たり次第にでっかい物を掴んでは切り取り線の外側へと投げ入れる。その度に頭痛が酷くなるけど、おかまいなしだ。
一帯に重要そうな物がなくなったら、次のガイドを始める。そんな風にして俺は鋳門さんと歩いていた。
「……おい」
「あぁ……ちょっと待って、もうちょっとだけ……」
次に人間大のセロハンテープを持ち上げようとした時に、鋳門さんが手首を指した。俺自身の手首を確認すると、一筋のヒビが入っていた。なんのこれしきとそのまま持ち上げようとすると、ヒビの通りにバキッと手首がもげた。
「……エネルギーを一度に大量に消費したせいで、自分の体を構築することすら困難になっているんだ。それから、頭痛もするだろう。それ以上はやめておけ……幼馴染の記憶を守ってやりたいのも分かるが、人のために自分を犠牲にしてもいいことはないぞ」
「心配してくれてどーも。でもいいんだ。これは全部、俺のためだから」
もげた手首を拾い、断面と繋ぎ合わせて体を修復する。これでまた、でっかい物も持てる。
普通よりでっかいってことは、それだけ重要な記憶が具現化されたものだってことだ。全部は無理だろうけど、少しでも多くそれを残せるように。
「……大事な人なんだ。はじめての海とか、運動会とか、クリスマスとか、一緒に過ごした日のことは全部覚えてる。たくさんの思い出の中にひま姉が居て……俺はその思い出に生かされてる。ひま姉は俺の太陽なんだ。あの笑顔を、輝きを失いたくないから守る。これは俺のためなんだっ!」
でっかいセロハンテープを、境界線の外側へ投げる。
「……矛盾しているな。お前は自分の思い出を守るためと言いながら、自分の思い出を犠牲にしている。そのまま続ければ、はじめての海も、運動会も、クリスマスも、忘れていくんだぞ……?」
「……はじめての海?」
そんなこと言ったっけ。そう思いながらはじめての海について思い出そうとする。
ああ、そうだ。はじめての海はひま姉と行った……けどその事実以外が思い出せない。楽しかった気はする。でもなんというか、他の思い出と比べて薄いような……そこで気付いた。
「あぁ……さっきのに使っちゃったのか」
「……! ほら見ろ。もう十分だろう、あとはもう……」
「いや、まだやる」
次に目に付いた、でっかい角材を持ち上げる。
「それくらいの思い出なんて、いくら忘れてたっていいんだ。いや、本当はよくないけどさ。これさえ覚えてれば俺は俺でいられる……そんな思い出、たった一つだけ残ってればいい」
初めて熱を出した時を、ひま姉が俺の太陽になってくれた時を覚えていられれば、それだけで。
「……夢に干渉する時、強く思い浮かべれば消費する記憶をある程度コントロールできる。どうしても続けるなら……せめて何を忘れるかぐらいは選ぶといい」
「そっか……ありがとう」
俺はでっかい角材を境界線の外側へ投げた。多分、何かを思い浮かべながら。
・・・・・・
鋳門さんと二人で切り取り線を引いている道中、それは見つかった。
「……なんだこのでっかいビー玉」
これは、ひま姉の夢のものだ。けれど少し、ひま姉以外の気配がする。それはひま姉と混ざってしまった夢の……つまり、松沢の気配だ。丁度大きさも松沢の夢の方で見かけたものと同じくらいだ。きっと中身も、同じ仕組みをしているんだろう。
認めたくなかったから、これまで鋳門さんにも聞かなかった。どうして、ひま姉と松沢の夢が混ざったりしたのか。
「ねぇ、鋳門さん……夢が混ざったりしやすいのは、どういう二人?」
「……私の経験上、現実で何らかの関係があり、かつ波長の合う二人……の夢が、混ざりやすい」
「恋人とか?」
「……恋人とか」
でっかいビー玉に触れて確かめる。中では無数の写真が輝きを放ちながら舞っている。その全てに松沢が写っていた……松沢を見つめる、第三者の視点で。ひま姉の視点で。
ひま姉の想いを確かめるという当初の目的は、今、図らずも果たされた。果たされてしまった。
「あぁー……」
夢のうわ言じゃなかったのか、あれは。
その事実にくらっと来て、その場にうずくまる。すがるようにビー玉に手をあてて中身を何度見ても、そこに俺は居ない。松沢との時間が、憧れと恋の輝きで彩られて閉じ込められている。
暖かい、微笑ましい光だ。世界でただ一人、俺だけを冷たく突き放す、悲しいほど暖かい光。
「ひま姉……どうして……! 今までずっと一緒に……寝てる間だって、ずっと一緒に居たのに……こいつなんかより、ずっと長く……!」
「……久瀬」
鋳門さんが、俺の名前を呼んですぐそばに来る。
そしてビー玉の外側に切り取り線を引いた。
「……えっ」
「ここだろう? 境界は。これだけ長く居れば、お前のガイドがなくても気配が分かる」
そう言われて、再び集中しなおして気配を辿ってみる。確かに鋳門さんが切り取り線を引いた位置は、ひま姉の夢と混ざり合ってしまった場所の境界にあった。
つまりこのビー玉は、ひま姉の恋心は、切り取り線の内側にあって、つまり。
「これ……切り取っちゃうの?」
「ああ、一かけらでも混ざった地点を残すことはできない。漏れなく切り取るにはこうするしかない」
鋳門さんが巨大なビー玉を見上げる。
「……これも安全な場所へ投げ飛ばそうと思ってるなら、やめた方がいい。これは大きすぎる……お前としては複雑だろうが、このまま……」
「そっかぁ~! 切り取っちゃうかぁ~! じゃあしょうがないかぁ! 諦めるしかないっかぁ~!」
抜けた力がぐんぐん湧いてくる。俺はしゃっきり立ち上がった。
「………………お前……」
「ほら行こう鋳門さん! さっさと切り取っちゃおうこんなの!」
俺はスキップで先へ進んだ。
・・・・・・
そしてまた切り取り線の引かれた場所に出た。
「これで一周……必要な切り取り線は全部引けたってことだよな! それじゃあ、切ってくれよ鋳門さん」
「少し、待て……切り取り線を引くだけでかなり消耗した」
「じゃあ……俺がやろうか?」
記憶を使ってだけど、炎だって出せたし自分の体を無理矢理治すことだってできた。夢の中はなんでもアリだ。切り取り線の目印があれば、多分俺にだって夢を切り離すことはできるだろう。
「切り離すのは全て私がやると言っているだろう……それに、頃合いだろう」
「え? ……あっ」
次の瞬間、俺と鋳門さん体は上空へと勢いよく引っ張られた。留まろうとしても水中の浮き輪のように体が浮かび上がって抵抗できない。
そういえば夢に潜ってそろそろ数時間、二人が起きようとしているみたいだ。
隣で直立不動のまま上空へ飛ぶ鋳門さんが、首だけ直角に曲げて地面を睨んで口を開く。
「今日の夜……見届けたいなら、もう一度この夢に潜れ」
そして俺達は、あの水たまりだらけの空間へ舞い戻った。
「……はっ」
「ん、起きた?」
保健室のベッドから起き上がる。見回しても、周りのベッドを使っている生徒は居なかった。
「ひま姉……と、松沢は?」
「んー……二人共、熱はないんだけどずっと苦しそうで……今病院で検査してもらってるよ」
保健室の先生が上から俺を覗き込む。俺はそれをするりと避けて扉へ向かった。
「病院って一番近くのですよね」
「ちょっと待ちなさい。あんたの検査がまだ」
「俺のはいいです。仮病なんで」
「仮病かーい……っていうか二人のお見舞い行く気? まだ昼休みよ」
「お邪魔しましたー」
・・・・・・
「お邪魔しまーす」
「あっ、かな君来てくれたんだ」
病室のドアを潜ると、ひま姉がこちらに振り返った。会話できないほど酷いわけではないらしい。顔はまだ少し青いけど。
「あれ? 学校はどうしたの? 制服のまま……下で止められなかった?」
「弟だって言ったら案内してくれたよ」
「あー、悪いんだー。まぁ、かな君は本当に弟みたいなものだけどね」
弟みたいなもの。
こう言われたのは、今日が初めてではない。話題の流れで何度も弟扱いされてきたものだ。今まではその度に乙女ゲーでも結構弟キャラとそういう関係になるルートあるとか血の繋がっていない弟はむしろ勝ちフラグとか自分に言い聞かせてきたが、ひま姉の想いを知ってからあらためて聞くと、中々ヘビーなものがある。
「そっちこそ、起きてて大丈夫? 調子どう?」
「まだ頭痛ぁい……お薬もらって飲んだけど、よくなんないな」
「大丈夫だよひま姉。俺がひま姉の心のお薬になるから」
「何言ってるの?」
ひま姉の手を両手で包み込むように、愛を込めて握る。
「どう」
「あぁ~、昨日言ってたやつだ。確かに、なんかちょっと落ち着くね、これ」
ひま姉がにぎにぎと握り返してくる。その瞳に、太陽は映っていない。
「松沢とどこまで行った?」
「え、なんで知ってる……あそっかそっか、もう夢で話しちゃったんだったっけ……」
きょとんとした顔で『なんのこと?』と聞き返されるのを期待していた。付き合ってるって聞いたのも、ビー玉を見たのも夢の中だったから。けど、一縷の望みも絶たれた。夢も現実も、俺に現実を突き付けてくる。
「じゃあ……松沢と俺、どっちが好き?」
汗ばむ両手を、それでも離さず聞いた。
「えぇ~意地悪。どっちも大好きだよ」
多分、これも嘘じゃないんだろう。ひま姉の夢の中をしっかり探せば、そこそこ大きい俺への『好き』が見つかるんだと思う。でもそれは、あのビー玉とは違う形と仕組みをしていて、きっとあのビー玉よりも、小さい。
このままあのビー玉が切り取られて、ひま姉の中から消えてしまったとして、俺は代わりになれるだろうか?
包み込んでいた両手を離した。
「あ……」
「もう、帰るよ。大丈夫、ひま姉はきっとすぐよくなるから……お邪魔しました」
・・・・・・
「お邪魔しまーす」
「あ……久瀬君?」
隣の病室のドアを潜ると、松沢がこちらに振り返った。
「お前……久瀬君だよな? 向日葵の幼馴染の……」
「……そうですけど」
敵意たっぷりにそう返した。
「俺を心配してお見舞いに来てくれたわけじゃ、ない?」
「ないです」
一瞬、沈黙が流れる。
「えー……もう俺と向日葵の関係は知ってるわけだ。それで、やっぱりお前からすると、俺はお邪魔虫なんだな」
「ですね」
松沢が困ったように頭を掻く。
「向日葵の友達もさぁ……ずっとお前らのこと見てたからか知らないけど、お前派の奴が多い。そういう奴等にも『空気読めよ』って顔されて、俺って敵が多いんだよな……でも、俺はお前やお前派の奴等にも認めてもらいたい。俺はいいけど、大事な幼馴染や友達に祝ってもらえないのは、向日葵が可哀想だから」
そんないかにもな態度で、松沢は俺の瞳を覗く。
俺はその視線から必死に顔を逸らした。松沢の瞳の中に、自分に足りないものを探してしまうから。それを見つけるとやりきれないないから。
そして見つからなかったら、もっとやりきれないから。
「……そんな心配いらねーよ。どうせもうすぐひま姉はお前のこと、好きでもなんでもなくなるんだから」
「……どういう意味だ?」
「持て余させるくらいなら……あんたの想いも、一緒に切り取ってやれればよかったな」
俺は踵を返し、病室を出ようとした。
「まっ、待ってくれ! お前が何のこと言ってるのか分からないけど……最後のは違う。たとえ向日葵が俺のことなんとも想わなくなったって、この気持ちがなくなればいいなんて思わない! 多分想いを失うことは……想いが叶わないことより、辛い」
「……で?」
「で? で……その、だから俺はそれだけ向日葵のこと、真剣に想ってて……だから」
「うるさい」
俺は今度こそ病室を後にした。
廊下の窓から空を見ると、赤い夕陽が落ちようとしていた。
「そうだよなぁ……なくしたく、ないよなぁ……」
もうすぐ夜が来る。
・・・・・・
ひま姉の夢に潜ると、まだ鋳門さんが来てなかったから夢の中を探索することにした。ひま姉の俺への想いを確かめるために。
それは切り取り線の内側に有って、やっぱり俺の予想通り、そこそこ大きかったのですぐ見つかった。ビー玉じゃないのも、ビー玉よりも小さいのも、残念ながら予想通りだったけど。
それは2メートルぐらいの鹿みたいな生き物だった。つやつやした立派な毛並みと対照的に、角が落書きみたいにふにゃふにゃしている。その先端に馬鹿みたいに花が咲いてて、花中が俺との思い出の写真になっていた。
その写真達もなんか変だった。例えば高校に受かった時の俺の身長が、ひま姉より小さい。身長は中学の途中で追い越したはずだけど、どの写真を見てもひま姉より高い俺が見当たらない。ひま姉からは、ずっと『そう』見えていたということだろう。
「ほんとにずーっと、弟だったんだな……」
あのでかくて邪魔くさいビー玉がなくなれば、今度はこの鹿が大きなビー玉になる。そんなことを願いながら、切り取り線のもとへ戻った。
・・・・・・
「遅かったな」
戻ると、既に鋳門さんが来ていた。『先に来てた』と言うと、何をしてたか聞かれそうだったのでやめた。別に、言ってもよかったけど。
「切り離した瞬間に崩壊が始まる。巻き込まれないよう、混ざった地点には近付くなよ」
「……うん。分かった」
「……よし、切るぞ」
鋳門さんが剣を掲げる。そこに強いエネルギーが集まっていくのが分かった。空気がビリビリと震えるような緊張感の中、無数の切り取り線が力に呼応して裂け目を広げていく。
そしてそれは振るわれた。
「……はぁっ!」
鋳門さんの体を、一筋のヒビが貫いた。それと引き換えか、引いた二本の切り取り線に沿って白い閃光が迸った。
三つに分かたれた大地は係留ロープを失った船と港のように、大きな地鳴りと共に徐々に離れていく。切断面は崖になり、その谷底からは黒い虚空の海が顔を覗かせていた。
こうしてひま姉のビー玉を乗せた真ん中は、ひま姉の夢じゃなくなった。その瞬間、ひま姉の夢が夜になっていくのが分かった。
「あ……」
鋳門さんが、剣を包帯に変えて体のヒビを押さえた。
「終わりだ。後は海の発する引力によって、切り離した部分が跡形もなく虚空に飲み込まれるだけだ……戻るぞ、久瀬」
光を失い、森も街も灰色になっていく夢を眺めた。鹿の居た場所を見ても、何も変化は起きない。あの鹿も他と同じ様に、情けなく色を失っているだけなんだろう。
俺じゃ、代わりになれないんだ。
「久瀬……おい、久瀬!」
俺が必死になって投げ込んだ夢達も、一緒になって光を失っていく。ひま姉がこの夢から覚めた時、俺が知っているひま姉のまま居てくれるだろうか? いや、きっとそうはならない。このままでは、俺の世界に色を付けてくれた笑顔も、すっかり灰色になってしまうんだろう。
俺が守りたかったものは。
「クソっ……」
岸から離れ、鋳門さんの居る方へ歩く。
その途中でもう一度振り返って、助走をつけた。
「だあああっ!」
虚空の海を飛び越えて、崩れ行く島に飛び乗る。
「……久瀬!」
対岸から鋳門さんが、俺の名前を叫んだ。
「何するつもりだっ、早く戻れ! 言っただろう! それは大きすぎる! それよりも大きな想いを使わなければ動かせないんだぞ!」
「……あるんだよなぁ……丁度持て余してる、でっっっかいのが一つさぁ……! どっちがでかいか、大きさ比べだっ!」
初めて熱を出した時を思い出す。
それから、ひま姉を好きだと思った時のこと、可愛いと思った時のこと、ずっと一緒にいたいと思った時の事、俺が見てきた、ひま姉の笑顔全部、全部体の真ん中に集めて、目の前に押し出した。
すると、それは淡い暖かい光を湛えた、大きな手のひらになって現れた。その手のひらは俺の思い通りに動いて、ひま姉のビー玉をすっぽり包み込んでみせた。
「ほら……やっぱり俺の方が、大きかった」
少し持ち上げようとしただけで、体中にヒビが走ったけど、なんのこれしきとそのまま。
「おらああああああーっ!!!!」
そのままブン投げた!
俺の手を離れたビー玉は、弾丸のようにひま姉の夢の空へ向かい、天井に突き刺さった。
ビー玉は空からひま姉の夢の全てを照らしだす。ビー玉の光を受けて、夢は余すところなく色を取り戻していく。さながら太陽に照らされるように。
そうだ、きっと、俺はこれを見るために。
「あっ」
立っていた岸がぼろりと崩れた。やばい、飲み込まれる。
「久瀬ーっ!」
その瞬間、叫び声と共に包帯が飛んでくる。それは蛇のように俺の腕に絡みついて、ひま姉の夢に引き上げてくれた。
「……ありがとう、鋳門さん」
鋳門さんは頭を押さえながら、俺を見た。
「全くだ……大仕事の後に、エネルギーを使わせるな」
遅れて、俺にもビー玉を動かした分の強い頭痛が襲ってきた。ボーっとしながら、虚空に飲み込まれていく島を眺める。俺が出したでっかい手のひらも、ボロボロになりながら消えていく。何故かそれを見ていると、涙が溢れて止まらなかった。
「なぁ……鋳門さん、あのでっかい手のひらは……俺の『何』だったんだ?」
「あれは……お前の初恋だ」
「……そっか……」
飲み込まれていく手のひらが、俺に向かって親指を立てた。
よく分からない、けど、多分、これでよかったんだ。
俺は涙を拭って、もう誰のものでもなくなっていく手のひらに向かって親指を立てて、祝福した。
・・・・・・
「かな君、おはよー。学校行こ」
次の日の朝、いつも通りひま姉が俺の家の前に立っていた。
そうだ、あの揺れる三つ編みはひま姉だ。間違いなく俺の幼馴染、綾下向日葵だ。
ひま姉のこと、全部忘れてしまったわけじゃない。初めての海に行ったことも、運動会のこともクリスマスのことも覚えてる。その日にあったこと全部覚えてるわけじゃないけど……ただの幼馴染だしそんなもんだろう。
ひま姉のことはまだ好きだ。一緒に過ごした時間もまぁまぁあるし、普通に。でもそれは幼馴染としての『好き』だし、大きさにしてもせいぜい俺の身長より少し低いぐらいだろう。
俺がひま姉にそれ以外の、巨大な『好き』を向けていたという実感は、やっぱりない。鋳門さんが俺に嘘をついたんじゃないかとすら思う。
そんな変な感じで黙っていると、ひま姉が俺を不思議がる。
「かな君、どうかした?」
「あ、いや、おはよう……また学校行けてよかったね」
「うん、よかったー。これもかな君のおかげだよ。ありがとね」
ひま姉が俺に無邪気な笑顔を向ける。
すると魂の回路が反射的に、受け取った笑顔をどこか一つに集めようとする。しかしその先は大きな穴になっており、受け取ったそれはするりと抜け落ちていった。
そして俺は初めて観測した。自分の心にある、大きな穴を。何か大切な物がそこにあった、確かな証拠を。
「いや……俺は保健室までおんぶしただけだよ」
喋りながら、二人で学校へ歩き出す。
「あれ? いやそれもありがとうなんだけど……なんか他にもかな君にしてもらった気がするんだよねぇ……なんか、すっごい大事なこと」
「……夢でも見たんじゃない?」
そんな嘘をついた。
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