お願いだから、言わないで……

古森屋睡

本編

 『憧れ』ではなく『恋心』だったと気づいたのは――別れが決まった後だった。残り少ない時間、その姿をひたすらに目で追う毎日。でも、それも今日で最後、もうできなくなってしまう。

 廊下の窓から差し込む夕陽がどこか寂しい。美術部のドアに手をかけたまま、ドアを開けることもできずに立ち尽くしていた。


「……先輩」


 思い出すのは一年前の四月、美術部の体験入部で訪れたときだった。それが、先輩との初めての出会い。先輩が描いた絵画に惹かれて、私も描いてみたいと思ったのが始まり。

 先輩の隣に座り、先輩の真似をずっと続けていた。振り返ってみれば、先輩のことしか見えていなかった。


「ずっと、好きでした」


 今ならばわかる。一目惚れだったんだと思う。初恋だったんだと思う。

 可愛いものが好きだったのに、先輩みたいな女性になりたくて、精一杯の背伸びをしていた。

 子供みたいで、本当にバカみたいだけれども、それでも本気だった。

 先輩と何でもお揃いにしたかった。

 でもそれは、先輩みたいになりたかったからじゃない――先輩と話をしたいから、少しでも気を引きたかったから。私のことを見て欲しかったから。


「ずっと、ずっと、大好きでした」


 小さく呟く声に反して、心臓はドキドキと大きく音を立てる。勝手に涙が溢れ出しそうになっていた。

 でも、まだ泣くわけにはいかない。泣くのは――告白が終わってから。

 慌てて目元をゴシゴシと擦る。痛いとか、そんなことはどうだっていい。

 涙を拭った勢いのまま、ドアを大きく開いた。


「先輩」

「ん、遅かったね」


 窓際に立つ先輩は小さく笑っていた。


「ごめんなさい」


 先輩に手で制され、走るのを止めて早歩きに変える。迎え入れるように、先輩も近づいてくれた。

 たったの一学年違いなのに、見上げる顔は大人で、とても綺麗だった。


「どうして謝るの。謝らないといけないのは、私の方なのに」

「先輩が謝ることなんて……」

「あるよ。引退した元部長が、現部長にわがままを言ったんだから」

「……部室を開けるくらい、たいしたことじゃないです」

「優しいね」


 そう言って先輩は掛け時計を見る。視線を追うと、午後六時半をまわっていた。


「静かだね……」

「もう部活も終わる時間ですから」


 美術部がお休みの今日、先輩を一人にするために図書室で時間潰しをしていた。

 だから、遅い時間に気づけなかった。でも、


「なんだか、学校に二人ぼっちになった気がします」


 今日の私にとってはラッキーだった。


「二人ぼっち、ね」


 二人ぼっち、二人ぼっち、と先輩は小さく繰り返す。

 それは、心底楽しそうな顔だった。


「一人が、二人に変わるだけで、寂しくなくていいね」

「……先輩と一緒だからです」

「えっ?」

「先輩と一緒だから、寂しくないんです」


 怖い、気持ちを話すのが怖い。目をパチパチさせる先輩を見るのも怖かった。


「先輩は、私と一緒だったら……寂しくない?」


 欲しい答えは決まっているし、拒絶はされないと信じている。

 でも、告白をする前に確かめたい。受け入れられていると思いたい。自信となる証が欲しい。


「寂しいわけないよ。私も一緒で嬉しい」


 そっと抱きしめられる。嬉しい気持ちで心がポカポカする。


「先輩も一緒なんだ、やった」


 喜びのままに抱きしめ返すと、先輩の身体から熱が伝わってくるようだった。頬が緩んでしまう。


「部長になっても、甘えたがりは治らないね」

「ダメ?」

「ダメとは言ってないよ」


 そう言いながら頭を撫でてくる先輩。優しい手つきが気持ちいい、大好き。


「…………」


 静かな時間、でも嬉しい時間だった。

 次に先輩が声をかけてきたのは、帰宅を促す四十五分のチャイムが鳴り響いてからだった。


「私が転校した後も、部長として頑張らないとダメだよ」


 短いエールだった。でも、たったそれだけのことで思い出したくない現実に引き戻される。

 先輩を抱きしめていた両手は、力なく落ちていった。


「頑張らないとダメ」


 痛いくらいに強く抱きしめられる。


「頑張れない、私は、先輩がいたから――」

「――そんなことない!」


 初めて聞く大きな声は、涙混じりだった。


「そんなことない……そんなこと、ないよ……」

「……なんで、先輩が泣いているの?」

「泣いてない、勘違いだよ」

「でも、泣いている」

「違うってば……本当に、違うの……」


 嘘なのは明らか。でも、追及はできそうになくて、


「私、頑張りますから」


 先輩の望む言葉を口にする。

 実現できるかは、ちっとも自信がなかった。


「……ありがとう」

「先輩?」

「ごめんね、変なお願いをしちゃって。そろそろ、帰ろっか」


 あっ、と思わず声が漏れそうになる。

 背中にまわされていた両手が離れていく。先輩の身体が遠ざかっていく。


「遅くなっちゃったね」


 呟く先輩の視線は、時計を向いた後、背丈の小さな私を飛び越えていった。

 まるで、私と目を合わせないように。


「ほら、行くよ」


 だからかもしれない。廊下に向かって遠ざかっていく背中を見た瞬間――先輩の手を掴んでいた。


「待ってください」


 それだけを告げる。……先輩は振り返ってくれなかった。


「私、もう少し先輩とお話がしたい。少しでいいから、時間をください」

「…………」

「先輩、ダメですか?」


 沈黙が怖い、瞳の奥から涙が込み上がってくる。

 嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ――考えたくもない、悪い想像ばかりが頭に浮かんでくる。

 これ以上、一言でも話したら泣いてしまいそうだった。でも、


「ごめんね」


 私が話さなくても、先輩の一言で簡単に決壊した。膝から力が抜けて――。


「――ちょ、ちょっと!」


 頭から倒れ始めた瞬間、先輩に抱きとめられる。膝と膝が触れ合った。


「…………」


 鼻先を撫でる先輩の髪から、優しいシャンプーの匂いがした。

 時間としては、きっと十秒にも満たない沈黙。でも、永遠に思えるほどに長く感じたのはどうしてだろう。


「私、わかっているから」

「……えっ?」

「どんな話をしようとしていたのか」


 何を指しているかは、一瞬で理解できてしまった。同時に、先輩の答えも……。


「泣かないで」


 優しい声、大好きな声。でも、残酷な言葉。無理なお願いだった。

 でも、だからこそ、思ってしまったこともある。


「先輩、それでも聞いて欲しいんです」


 やけっぱちな気持ちが背中を押す。涙で滲んだ視界で、先輩の顔がハッキリと見えないことも大きいかもしれない。


「私、ずっと先輩のことが――」

「――言わないで」


 声に、声が被さる。耳と耳が触れ合う距離、痛いぐらいに抱きしめられていた。


「お願いだから、言わないで……お願い、だから……」


 泣いている、と身体の震えでわかった。

 

「……私も、言わないから」


 絞り出すような言葉が心に届く。気持ちを伝えてはいけないことを察してしまった。先輩と後輩のままでいよう、と。

 別れが決まっているから、女同士だから、理由なんていくらでも挙げられる。

 でも、どれもが涙を止める理由にはならなかった。先輩のことが、本当に大好きだったから――。


「私、頑張る……先輩みたいな、部長になるから……約束します」


 代わりに口を衝いて出たのは、予定にない言葉。先輩からの最後のお願いへの返し。叶えると誓ったのは、逃避にも似たちっぽけな意地だった。


「でも、ずっと……ずっと、先輩のことを覚えていますから」


 私、先輩が思うほどに強くはないから――大好きな先輩のこと、ずっと目標にして追い続けてもいいですか?


「絶対に、忘れませんから」


 これが最後になる、その一心で強く抱きしめ返す。顔と顔がすれ違うから、涙でクシャクシャな顔を見られることはない。

 ポツポツ、床に落ちる涙雨がいつ晴れるかはわかりようもなかった。

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お願いだから、言わないで…… 古森屋睡 @suikomoriya

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