第57話

 暗く苦しい一人だけの世界に閉じ込められれば、どんな人でも数日もすれば心に異常をきたすだろう。俺の精神も紛れもなく疲弊しきっていた。目を開ける意味が分からない。そこに俺が好きだった人はもういないから。絵を描く理由は、食事を取る理由は、呼吸をする理由は、心臓を動かす理由は、もう何も分からない。


 いっそのこと彼女の元に俺が行ってあげれば良いのではないか。絶対に怒られるし、嫌われてしまうかもしれないけれど、あっちの世界には無限に時間があるはずだ。時間を掛けて仲直りをして、出来なかったことを一つ一つ経験していけば良い。


 頭の中ではそんなことばかり考えてしまうが、今もまだ実行していないのは光希の謎のメッセージが原因だ。


『あと3日』


 それだけ書かれたメッセージを受け取って今日で丁度3日。別に何か起こることを期待しているわけではない。ただ自分に与えられたメッセージの意図が気になってしまっただけだ。後を追うことを焦る必要もないはずだ。


 今が朝なのか昼なのかも分からない。目を閉じているのだから分かるはずもなかった。意識は確かに現実にいるが、気持ちはどこか遠くに行ってしまったような虚無感は日に日に増していく。


「おい、秋博。お前はいつまでそうしているつもりだ?」


 耳に届いたのは唯一の友達の声。怒っているわけでもなく。それでいて慰めようとしている声でもない。光希は俺の部屋にまで来てくれていたようだ。


 返事をしないでいると部屋のカーテンを力一杯に開ける音がした。日差しを遮る物がなくなっただけで部屋の雰囲気は一転したのが分かる。目の前の暗闇に一点の白い光が表れた。自然の光は俺の顔を捉えているようで、眩しくて目を開ける。


「やっと起きた。話したいことがある。まずはその顔を洗ってこい」


 目を覚ますといつものように学生服を纏った光希の姿があった。カレンダーと時計を同時に確認する。今日は火曜日でもう9時を回っているみたいで、光希は学校をサボっているようだった。俺が人のことを言える立場ではないことは理解しているが、俺が理由であるならこれ以上迷惑を掛けるわけにはいかない。


「光希。俺は大丈夫だから学校に行けよ」


 何日かぶりに声を発したからか、喉はガラガラで何かが張り付いているかのような違和感があった。


 光希は大きくため息を吐いて、突然ポケットからスマートフォンを取り出し、一瞬の迷いもなくそれを俺に向けた。カシャッとなった音を聞いたところで写真を撮っていると認識する。


「お前さ、こんな姿を見せられて、俺が『そう、大丈夫なんだ』とか言うと思ってるのか?」


 スマートフォンの画面をこちら側に向けて写真を映し出す。


 寝癖かなんだか分からない程にボサボサになった髪。目の下には人生で一度も見たことのないレベルのクマができていて、両方の目は腫れてしまっている。着ているTシャツもヨレヨレになっていて人に見せられるような姿では無いと言うことは分かる。


「とりあえず、話があることは事実だから、人前にでられるぐらいになってこい」


 光希はこんな状況の俺を見てもそれほど驚くことはしなかった。逆の立場だったら俺は話しかけることすら出来なかったかもしれない。重たい体を持ち上げて言われたとおりに最低限の身だしなみを整える。


 寝癖を直すのには苦労するし、腫れた目はすぐには治らない。気休め程度に冷やしてみたりもしたが効果はそれほどでもなかった。それでも最低限ぐらいにはなったような気がして「自分はまだ生きているんだ」などとわけの分からないことが脳裏を巡っていく。


「お、帰ってきたか。まぁちょっと痩せたみたいだが大丈夫そうだな」


 部屋に戻ると机の椅子に座って出迎えてくれる光希。その声はいつもと変わらないもので安心できる。


「ところで、今日来たのってあのメッセージに関係あるのか?」


 ベッドの枕元に置きっぱなしにしていた紙を光希に差し出すと、すぐに頷いた。


「ああ、そうだよ。俺さ。一つだけお前に隠し事をしてたんだ」


 少しだけ申し訳なさそうに言いながら、いつもの通学用の鞄を漁っている。


「七森さんと一つ約束事をしていたんだ」

「約束って何だよ……?」

「『もしも、高校在学中に私が死んだら、絶対に手紙を残すから、一週間後にアキ君に渡してください』って言う約束だ」


 光希は落ち着いていた。そんな約束をしているということは夏花が病気で長くなかったということを知っていたはずなのに。

「光希はそれをいつ聞いた?」

「お前が夏花って呼び出した日にメッセージが来ていたよ」


 静かに話しながら鞄から一つの手紙を取り出していた。ピンク色の便せんを丁寧に俺に手渡して来る。桜模様の封筒が少し季節外れで可笑しかった。小さく笑みが零れていたことに自分が一番驚いてしまう。


「お前に向けて書いた物だ。もちろん俺も開けてはいないし、七森さんの両親も内容は知らないって言っていたよ。だから、1人で読め」

「これっていつ書いたんだろう。俺が最後に会ったときは……」


 自分の記憶を辿るといつも明るい夏花の顔が蘇る。何気ない雑談のときの声が耳の奥の方に聞こえる。小さく息をして懸命に生きようとした姿が浮かび上がる。


 折角腫れた目を冷やしてきたのに、思い出すだけでポロポロと零れる思い出。


「秋博は七森さんの葬儀にも行っていないし、線香もあげに行っていないことも知っている。だから、知らないんだよ。七森さんは……」


 涙が勝手に零れていくことは止められないが、嗚咽が漏れそうになるのは堪えて光希の言葉に集中した。


「なくなる前に数時間だけ意識を戻している。その数時間で残したのがそれだよ」


 光希が指さす封筒に視線を落とす。目を覚ましたときには気が付いていただろう。もう本当に残されていた時間が少ないことを。そんな時でも俺を思い手紙を書いてくれていた。その優しさが伝わってくる。


「今日は帰るから。じっくり向き合えよ。そして俺にできることがあったら、いつでも呼んでくれ。学校をサボってでも飛んでくるから」

「そんなことしたら、深冬先生に何を言われるか分からないよ」

「別に良いんだよ。ちょっと呼び出されて怒られるだけだから」


 実際光希は今だって遅刻をしている。格好を見るにこの後は学校に行くのだと思う。本人はそのことなどは一切気に掛ける様子はなくて、今はいつもと同じようにヘラヘラとしていた。


「いつも、ありがとな」


 仲が良い親友と呼べる存在がいるというのがここまで心強いことなんだと光希の顔を見ていたら思う。自分のことをこんなにも気に掛けてくれる存在がいるということに、大きくぽっかりと空いた心の穴は塞がることはないが、傷から響く痛みは少し和らいでいるきがした。


「おう、そろそろ行くわ。深冬先生の嫌みを聞きに。それから、いつか俺にも見せてくれよ」

「うん。分かってるよ」


 光希には俺の最高傑作をいつか見せると約束していた。あのどうしようもないほどに浮かれていたときのメッセージがその証。今はまだ絵に向き合うことは出来そうにない。でも、きっとまた向き合うときが来ると心の隅で前に向こうとする気持ちが生まれた。


 気持ちが少し前を向いたところで小さな疑問が芽生える。


「光希、お前さ。どうやってこの家に入った?」


 この家にはおれと母さんしかいない。俺は一歩もこの部屋から出ていないし、もしも、母さんが出ていたとするなら、光希を部屋に入れる前に確実に一声掛けてくれるはずだ。だとしたら、母さんはまだ起きていないかすでに出かけていると言うことだ。どうやって、家に入ったんだろうか?


「ああ、それはこれだよ。おばさんがくれたんだ。お前に何かあったらすぐに駆けつけられるようにってね」


 ポケットから引っ張り出された家の合鍵。まさか、母さんがそこまで手を回していたとは、よくアニメとか漫画では、異性の子が合鍵を持っていたりもするが、現実は同性の親友が合鍵を持っているなんて、なんだか少し笑えた。


「そうだったんだ。何から何まですまないな」

「気にしないでいいよ。じゃあ、鍵は掛けておくからな」


 そう言い残して光希は部屋から出て行った。一人取り残された部屋の中。手の中に収まる便せんに視線を落として、ベッドに深く腰を落とす。


 この手紙は夏花が最後に残してくれた物だった。これを開けてしまえば、中の言葉を心に刻んでしまえば、夏花のいない世界で前を見なければいけないだろう。どれだけ泣いても、部屋に閉じこもっても、世界から目を反らしても、夏花は生き返らない。


 大きく息を吸い込む。そのために、一度深く息を吐く。身体中に溜まった重く黒い空気を吐き捨てて、新しい新鮮な透明な空気を全身に取り込んだ。


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