第55話
最善の注意を払いながら普段よりも早い歩調で病院の廊下を歩く。心臓はもっと急げと急かしてくる。それを抑えるように脇に抱えたスケッチブックに力を込めた。
「七森さんは昨日の夜中に急変して、今はもっと集中して治療を受けられる部屋に移りました」
まるで業務連絡のように平然と告げられた言葉。分かっていたが平手打ちを食らったかのような衝撃が身体を巡る。
また約束を守れないのか。夏花のために用意した絵が描かれたスケッチブックを鞄から取り出し、看護師さんが教えてくれた場所まで歩きだしていた。
夏花はきっと俺の絵を楽しみにしてくれたはず、どれだけ辛い治療を受けていたのか。想像することは難しいし、本人も多くを話そうとはしてくれなかった。
強がっているのは明らかで、会いに来るたびに顔色は優れなくなっているのに気が付いていた。
それでも、普段と変わらないように接することを心がけた。夏花が俺に魔法を掛けたあの日は相当無理をした行動であったのだろうと今になって思う。自分の残る時間を磨り減らすようなことをさせてしまう自分の不甲斐なさが焦る心にチクリと針を刺す。
深い後悔と戦っているうちに目的地が近づいていた。病院の廊下はどこを見ても似たような景色が続くが、通りに居る二人の姿が目的の場所に着いたことを伝えてくれている。
男性の方に見覚えはないが、もう一人の姿を確認したところで更に速度を上げて足を動かした。
「秋博君……?」
どうしてここにいることを知っているかと聞きたそうな様子の夏花のお母さん。その横にいる男性は初めて顔を合わせるが夏花のお父さんだろう。
二人とも少し顔がやつれており、目は赤く腫れ上がっているように見える。
「な、夏花は!?」
挨拶をすることも忘れ状況を問いかける。夏花の両親はより一層表情を曇らせて教えてくれる。
「昨日の夜中に急に苦しそうに息をして、病状が悪化したの……。今はなんとか薬とかのおかげで眠っているわ。ただ、お医者さんが言うには今の状況が薬で収まるのは奇跡的だと言っていた。だから……」
苦しそうに呼吸をして現在の状況を教えてくれた夏花のお母さんは言葉を選ぶのに苦戦するような表情で続けようとした。
自分の心が信じられないほど落ち着いているのが不思議だ。夏花は奇跡的に生きる時間を引き伸ばしてくれている。本当は辛くて苦しくてどうしようもないはずなのに待ってくれている。約束の呪縛に縛られたままでいる俺のために。
この事を知っているのは俺達二人だけだし、俺が都合よく考えているだけかもしれないけど、今の自分がやるべきことは一つしか存在していない。夏花のお母さんが真実を伝える言葉を遮る。
「分かっています。少しだけ夏花の様子を見ても良いですか?」
俺が言葉を遮ったことには特に驚いた様子はないが、夏花の両親は一度、顔を見合わせて何かを確認している。
「今の夏花は秋博君に見られたくないと思っているかもしれない。あの子は貴方に会うときはどれだけ具合が悪いときでも笑ってみせていたの。でも、今はそういう訳にはいかないし、貴方の中にいる夏花は元気いっぱいで明るい夏花でいてほしいと思っているかもしれない」
決して負の感情を持っているからこんなことを言っているわけではないことは十分に理解が出来る。俺にとっての夏花のイメージは間違いなく言われたように元気で明るい子であることには違いない。
でも、それは俺が知らないだけでもっといろんな表情を持っていたはずなんだ。もっと多くの夏花を見たい。知りたい。そんな気持ちは誰にも止められる物ではない。
「俺はどんな姿であっても夏花といたあの時の記憶が変わることはないです。知らないことばかりでこうかいをして、逃げてばかりの自分を変えてくれたのは夏花なんです。昔は幼かったから仕方がなかったかもしれないけど、もう俺は間違えたくはないんです。だから、お願いします!」
二人に向けて深く頭を下げる。今の俺は二人の様子を伺うことができないから、ただひたすらに床を見つめることしか出来ないで願っていた。
「フフッ、そんなに夏花のことを思ってくれていたのね。秋博君、顔を上げて」
小さく息を吐き笑いを零している声を聞いて顔を上げると二人とも少しやつれた表情を崩して笑ってくれていた。
「ここまで、夏花のことを思ってくれているのに私達が邪魔をしたら怒られてしまうからね」
「ありがとうございます!」
部屋に入るように促されて、静かに音を立てないようにドアに手を掛けた。
少し力を加えるだけで開いたその先には俺には到底理解出来ない設備で埋め尽くされている。その中心に眠り小さく息をしているのが夏花だ。
複数の管が繋がれていて、顔を覆うのは空気を送るための人工呼吸器。それらが、今の夏花の生をつなぎ止めてくれている。
ベットの横に置かれたモニターには、いまも懸命に生きている夏花の心拍が映されていた。時間がどのくらい残っているのか。そんなことを考えてしまう。
小脇に抱えていたスケッチブックを夏花のベッドサイドに静かに載せる。今は眠っているが目を覚ましたときに一番に気が付くことが出来るように。
「これが今の俺が描くことが出来る最高の作品だよ。約束は守ったからな。感想を聞かせてくれよ……」
眠りについている夏花に静かに話し掛ける声は自分では抑えが効かないほどに震えていて、目が熱くなることを止めることが出来なかった。
二人しかいない空間で俺はどれだけの時間、涙を流していたのだろうか。こんなところを夏花には見られてはいけないと自分に言い聞かせて服の袖で涙を拭う。外は少しずつ赤く染まっていく時間になっていることに涙を拭い顔を上げたことで気が付いた。
「秋博君。そろそろ面会の時間は終わりみたいなの……」
いつの間にか後ろには夏花のお母さんが立っていた。部屋に入ってきていたことにも気が付かないで涙を流していたことを反省しなければいけない。俺が夏花と過ごした時間よりもっと多く共にした二人が必死に我慢しているのだから。
「そうなんですね。また来ます……」
もう一度だけ戦い続ける夏花の顔を目に焼き付けて出口に向けて踵を返した。部屋から出たところで夏花のお父さんに呼び止められる。
「はじめましてだよね? 秋博君。よく娘から話は聞いているよ。いつも辛そうにしているのが嘘のように笑うものだから、君の力が羨ましく思えてしまったよ」
初めて交わす言葉。その声は落ち着きを与えてくれるような穏やかな物だった。
「初めまして、挨拶できていなくてすみませんでした」
夏花の面会をする前に挨拶をするべきだったが、先程までの自分には余裕がなかった。少し遅くなったことに深く頭を下げる。
「そんな謝らないで、君がそこまで娘を思っていてくれたことが、私としてもうれしかった。そんな君だからこそ言っておきたいことがあったんだ」
何を言われるのか幾ら思考を巡らせても回答は降りてくることはない。静かな廊下に夏花のお父さんの絞り出したような言葉が並べられる。
「本当にこれまでありがとう。君はまだまだ若いんだ。しっかり前を向いて歩くんだよ」
俺の肩に置かれた手は震えていた。その小刻みな震えと言葉に心は強く揺さぶられる。言われたことの意味は嫌というほどに理解出来てしまう。
夏花がいなくなった世界のことを話しているんだ。俺は現状健康そのもので、平均寿命を全うするとしたら、あと半世紀以上は夏花がいない世界を生きなければいけない。
それは音を立てながら近づいてきている世界。だから、受け入れておいた方が良いと言うことを伝えたいのだろうと思う。端的に言うなら『夏花の存在を引きずるな』ということだろう。
分かってはいる。いつか時が来たら前を向いて歩き出さなければいけないことも。
「俺は夏花に多くのことを教えて貰いました。自分の夢を心から応援してくれた初めての人です。きっと夏会以上に俺を理解してくれる人は現れないと思っているほどです。だから、何があっても忘れたり目を背けたりすることはありません。それでも、俺は立ち止まったりはしないので安心してください」
大切な人が自分の前からいなくなる経験がどれだけ苦しいことなのか。小学生の幼心に知った日のことを今だって鮮明に思い出すことが出来る。まるで、底が見えない暗闇に突き落とされるかのような恐怖。酸素の薄くなった世界で息をするような息苦しさ。
過去のことだとは思えないほどに鮮明だった感覚は夏花との再会とお互いの気持ちを共有したことで癒やされた。もう少しでもっと深く空気の薄い暗闇に落とされる。1ヶ月ぐらいは塞ぎ込んでしまうだろう。それでも、俺は時間を掛けて歩き出せると思う。夏花が俺の夢を認めてくれた初めての人だから格好の悪い姿をこれ以上見せるわけにはいけない。
覚悟を伝えたところで夏花のお父さんは安心して穏やかに笑う。これ以上は病院にいても面会は出来ないらしい。親族の面会は認められているようだが、諦めて病院を後にすることにした。
次に来るときは描いた絵の感想を聞くことが出来れば良いなと希望を抱きながらバスに乗り込んだ。
そして、3日後に夏花はこの世を去ったことを知らされた。
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