第54話


 久しぶりに満足に睡眠を取った気がする。溜まっていた疲れはすっかりと無くなり爽やかな目覚め。寝た時間も遅かったため時計はもう正午を指そうとしている。


 今日のうちに夏花の元に行き、絵を見せる予定だから、俺は早速準備を始めることにした。


 机の上には昨日描き上げた絵が置かれている。何か特別なキャンバスに描いたわけではなく。何処にでも売っているスケッチブックの1ページ。その上に描いた絵は完成した直後に感じた高揚感を再び蘇らせてくれる物だ。

 これまでで一番上手く描くことが出来たその1ページを夏花が見たら、どのような反応をしてくれるのだろうか?


 笑顔で褒めてくれるかもしれないし、嬉しさのあまり涙を流してしまう可能性も捨てきることは出来ない。


 確実に言えることは、必ず喜んでくれると言うことだけだ。夏花は俺の絵を好きになってくれた記念すべき一人目のファンであり、これから始まる俺の夢に魔法を掛けてくれた掛け替えのない存在だ。


 だから、今の自分が描いている絵に少しだけ自信を持つことが出来ている。部屋にあったリュックサックにスケッチブックをしまい。浮かれた気持ちは抜けないままに家を飛び出した。


 バス停の時刻表を確認していると、どうやら数分間は目的の場所に向かうバスは来ないらしい。


 時間を潰すためにズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、メッセージアプリを立ち上げる。自分から誰かにメッセージを送ることなんて初めてな様な気がするけれど、今は心がスッキリと晴れ渡っていて、すぐにでも伝えておきたいことがある人物がいた。


『なんとか、絵が完成したよ。最高傑作が出来た』


 直接話をしていたのなら恐らく相手は驚きの表情を向けてきただろう。画面越しのメッセージだから、そこまで驚かれることはないだろうけど。


『おいおい! 秋博からメッセージが来るなんて何事かと思ったぞ! まぁ、それだけお前のテンションが高いということか。俺もその最高傑作を見てみたいよ』


 テンションが高いことを余裕で見透かしてきたのは光希だ。学校生活に支障をきたしながら過ごした時間をフォローしてくれていたから、一応完成の報告ぐらいはして挙げるべきだと思い勢い任せにメッセージを送っていた。


『ありがとな。この絵が完成するまでに滅茶苦茶光希にも迷惑を掛けたからな。完成した絵をいつか見せてやるよ』

『おう。気にすんなよ。それよりも、さっさと完成した絵を見せにいってやれよ。きっと待っているから』


 どこまでも俺のことを理解してくれている光希に背中を押されるように丁度目の前に停車したバスに乗り込んだ。


 バスの中はそれほど乗客もいなく静かな空間。窓の外を流れていく景色ももう見慣れた物になっていた。今度は俺が夏花に会いに行く間に見える風景を絵にしてみるのも良いのかもしれない。


 外に出ることの出来ない夏花に少しでも外の世界を感じるきっかけにでもなってくれればと頭の中で絵のアイディアを考えていた。そのうちにアナウンスが目的地に到着したことを伝えてバスは停車した。


 燦々と日の光が降り注ぎ熱気が体に絡まりついてくるのを感じながら、病院の入り口の自動ドアを通り抜ける。

 いつもと同じように病院の通路を進み、夏花の待つ病室まで歩を進める。その歩調はいつもより少し早まっていた。夏花に最高傑作を見てもらえることの高揚感が理由だ。


 俺の浮かれた足を止めたのは、夏花が入院している病室の前に着いたときのことだった。病室の扉がいつものように閉ざされていることは想定通りだったが、扉の横に付いていたはずのネームプレートまで無くなっていたことに驚きを隠せない。


「なんで……?」


 誰も周りにいないことは分かっていた。それでも、小さくぽつりと言葉を漏らしてしまう。

 最悪な想像が脳裏を横切っていくのと一緒に首を左右に振って全てを否定する。


「そんなはずはない……。きっと夏花の様態が急激に回復して、退院したに違いない。絶対そうだ」


 自分を励ますように言葉を絞り出し並べる。絞り出したものが現実的ではないことは、自分でも薄々理解することが出来ていたはずだけど、そうしないと夏花と最後の時まで一緒にいると決めたあの時の決意に反してしまいそうだったからだ。


 夏花の前では辛そうな顔をしない。俺は笑顔で話をしているときのあの幼い顔が好きだった。久しぶりに病室を訪れたときに見せてくれた幸せを噛みしめるような顔が好きだった。

 病気に苦しんで涙を流していた夏花の頭を優しく撫でた後に見せた安心した顔が好きだった。

 もっといろんな表情の夏花が見てみたい。だから、夏花の前では遠くない未来を気にして辛さを顔に出すことを辞めた。


 本当の意味で死が近づいているのを一番気に掛けているのは夏花で、一番辛いのは俺ではない。


 夏花が俺のいないところでどれだけ辛い顔をしているのかは夏花のお母さんから聞いている。


 それでも、俺と一緒にいるときは微笑んでくれた。その表情を引き出すことだけが俺にできる唯一のこと。辛そうな顔は見たくない。


 脳内は大慌てだったが、俺は病室の前に立ち尽くしたままだった。


 時々廊下を通る患者や看護師が俺のことを不思議な物を見る視線をぶつけてきたが、そんな小さなことは全く気にならないぐらいに頭の中が夏花のことで一杯だった。


「君はいつも七森さんのところに来ていた彼氏君かな?」


 若い看護師の一人が俺の前に立って問いかけてくる。病院という堅苦しそうな世界で俺に声を掛けてくれたのは、夏花のお見舞いに来るたびに「早く会いにいきな」と急かしてくるような人間味に溢れる人だ。


「はい。そうです」

「何でこんなところにいるの!? 早く会いに行ってあげなさいよ! もう間に合わなく……」


 看護師さんの言葉は最後まで発せられることはなかった。当の本人も自分が犯した過ちに驚き慌てて口を押さえた。


 聞き逃すはずがなかった。「もう間に合わなくなる」と確かにそう言おうとしていたのは間違いないだろう。


「どういうことですか!? 夏花は今どこに居るんですか」


 俺は一歩近づいて強めの口調で問いかける。自分でも本来看護師がこの質問に答えてはいけないことは知っていた。それでも、このチャンスを逃してしまえば、全てが手遅れになる。だから、無理を通してでも答えて貰う必要があった。


 俺の必死な問いかけに看護師さんは困った様子を浮かべていたが、ゆっくりと周りを一度見渡した後に小さく息を吐いた。


「本来は患者さんのプライバシー保護を理由に話すことを禁じられているの。だけど、君はいつも七森さんを笑顔にしてあげていたし、きっと、七森さんのためにも伝えるべきだと思うから教えるけど……」


 そこまで話して一度言葉を句切り、俺の目をジッと見つめてきた。まるで、俺の覚悟を図るような眼光に唾を飲み込んだ。


「覚悟は出来ているんだよね?」


 氷のように冷たく感情をかき乱すような問い。否定しようと目を反らした可能性に一歩近づく問い。


 病院に働く人だからこそ、この問いが悪ふざけなどでは無いと言うことを確定させる。そうだとしても、俺が今出来ることは一つだけだった。だから、ただ力強く頷いて返事をする。



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