第53話
家に帰ると一目散に自分の机に向かう。夏花にもらったヘアピンを付けた瞬間から、自分でも驚くほどの集中力を発揮して、一本一本丁寧に線を描いていく。最初は何を描こうか悩みもした。自分にできる限りの最高傑作を準備してあげようと意気込んだが、やはり、自分がよく知らないものを描くことは難しくて、題材を決めるまでに一日くらい掛かってしまっていた。
悩んでいるとき夏花が俺に絵を描いてほしいといってくれたときの声が頭の中を走り抜けていった。今の俺が描きたいものを描いてほしいと夏花は願った。彼女が好きだったものでも、景色でもなく。今の俺に委ねてくれた。じゃあ、題材は一つしかない。
俺が描くのは青く透き通る大空に浮かぶシャボン玉とその美しい球体を生み出している夏花の姿。俺が夏花の魔法に掛けられたあの瞬間を今出来る最大の力で真っ白だったキャンパスに描いていく。
多くの人がこの絵を認めてくれなくたって構わない。夏花一人がこの絵を見て喜んでくれるだけでいい。そのために、寝る間も惜しみ夏花にもらった色鉛筆を動かし続けた。
自分でも驚くほどに時はあっという間に過ぎていく。この五日間の授業の内容なんてほとんど頭に入っていないし、課題の提出を忘れてしまったりもした。これまでの俺ではあり得なかったようなことが頻発して深冬先生に放課後呼び出されたりもしたが、時間に追われていた俺は後日幾らでも時間を作るからと言い残して逃げ出すように家に帰ってくるような日々を送った。正直来週は学校へ行くことが凄く億劫だが、その前に今俺が抱えている一番大きいものをかたづけるのが先だ。金曜日の夜。ラストスパートを掛けるように絵を描く。
全ての時間を一つのことに向けて費やすのがとても懐かしい感覚で睡眠時間を削っても全然辛いなんて感じることがなく続けることが出来る。まるで小学生の頃の気持ちが戻ってきているようだ。静かな部屋では時計の針がチクタクとリズムを刻んでいる音だけが鳴っている。
誰にも干渉されない時間で俺は一つの絵を完成させた。全身から歓喜がわき上がってくるのを感じる。今にでも大きい声でこの気持ちを表したいと思う衝動は現在の時刻を確認したところで収まった。もう日が明けようとしている時間だ。母さんも帰ってきてもう眠りについている時間。いくら自分が寝不足で少しテンションがハイになっているからといって、人に迷惑を掛けるようなことをしなかった自分の理性を褒めてあげたいものだ。
そんな完成の余韻に浸りながら、道具をかたづける。本来だったら今すぐにでもこの絵を夏花に見てもらいたいが、そんなことはどう頑張っても難しい。一度寝て起きてから夏花の元に行こうと決めて飲み込まれる予にベッドに体を預けた。
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