第52話
確実に遅刻をしてしまった。教室に向かう廊下には生徒の姿は一切無い。静かだが他のクラスで行われている授業の様子は微かに耳に届く。
自分のクラスで行われている授業が数学ではないことを祈りながら、教室までの廊下を息を切らしながら走る。
「秋博君が遅刻するなんて珍しいわね」
教室に入ると同時に掛けられた言葉がこれだった。この二年間無遅刻無欠席が取り柄だったことは深冬先生も理解していたみたいで、特におとがめはなく次は気をつけるように注意されただけだった。なにごともなく無事に自分の席に着くことが出来たが、光希の横を通ったとき口を開けて酷く驚いている表情を見せたのが少し気に掛かる。その理由を聞くことが出来ないまま授業は再開されて重たい瞼を開けておくことにひたすら集中を続けることになった。
遅刻に授業中の居眠りときたらもう言い訳をすることすらおこがましいから、しんでも眠らないようにしていたら、チャイムの音が鳴り響き苦痛の時間の終了を告げた。休み時間という気を抜いても許される時間。そのオアシスのような時は光希によってあっという間に奪われていた。
「秋博?お前さ、今日はどうしたんだ。イメチェンでも図っているのか? わざわざ学校まで遅刻してぐれちまったのかと思ってるんだが」
一回遅刻したくらいで光希はこの調子で凄く心配してくる。別に光希が言っているようにイメージチェンジを考えたりはしていない。それでも、今日の光希はこれまでに無いほどに深刻な趣で俺のことを爆弾を扱うかのように接してくる。
「なんもないよ。今日は少し寝坊をしただけだからさ。そんなに心配をするなって」
眠たさを悟られない程度のテンションで光希の言葉を否定してみる。俺としては結構上出来な演技だと思ったのだが、やはり長い付き合いだったこともあって、目を細めて睨みつけてくる。それを見ていたらもう隠していても無駄だから諦めた。
「ちょっと、急ぎのお願いがあってさ。徹夜で絵を描いているんだよ。だから、最近寝不足でね。ところで、俺そんなに分かりやすかったか?」
「分かりやすいもなにも、今日のお前を見たら誰だって、いつもと少し違うことぐらい分かるだろ。理由までは全く分からないけれどな」
俺のことを指さした光希はその指の向きを少し上に向けた。その方向を追うようにするとどうやら俺の髪の毛に向けられているようで、寝癖でもあったのかと思考を巡らせた瞬間に自分のミスに気が付いてしまった。
絵を描くときにだけ付けていたヘアピンを昨日気を失うようにして眠りに落ちてしまったために、外すのを忘れてしまっていた。
「そうか。確かにこれはわかりやすいよな……。まぁ別に隠すようなことをしているわけじゃないからいいんだけど」
「秋博のことだから問題は無いと思うけど、一応何をこそこそやっているのかを俺にも教えてくれないか? もしかしたら、俺も何か力になることができるかもしれないから」
俺はヘアピンをゆっくりと外しながら、夏花とのここ最近の出来事を淡々と説明していく。夏花に残された時間はもうわずかだということを隠しながら。
一番重要な部分を隠した説明で、下手をすると光希に見破られてしまう可能性があったが、そんな俺の心配をよそに光希はにんまりと笑顔を浮かべている。どうやら、俺と夏花が上手くいっていることの方がこいつにとっては大きい出来事だったらしい。
「ああ、あの秋博がね~。やっと念願が叶ったんだな。素直におめでとうって言っておく。これから、困ったことがあったら相談でもしてくれ、これまで碌に女子と話しもしていないお前よりは色々分かるつもりだ」
「ああ、まぁ、その時が来たらよろしくな」
「任せろ!」
ここで話が終わってくれたら、俺としてはとてもありがたい流れだったのだが、やはり相手は光希だ。一筋縄ではいかなかった。
「ところで、七森さんはいつになったら学校に来ることが出来るようになりそうなんだ?お前は面会で直接会ったりしているんだろ?」
今一番触れられたくはないことを聞かれて俺の頭の中は真っ白になりかけていた。自分だって夏花の現状を受け入れられないでいるのに、それを人に伝えることなんて出来るはずがない。
それに夏花の命に関することを俺が勝手に人に言って良いはずがない。光希は口が堅い男だから、必要以上に話を広めたりする心配はないだろうし、夏花も俺が光希に話したことを知ったところで怒ったりすることはないとは思う。
では、俺は何故言葉を探せないでいるのか。それはきっと俺自身がまだその事実を否定したい気持ちが強くあるからだ。
「俺には元気な様に見えるけど、俺は医者でもないし、本人に直接聞けるわけもないから分からない」
精一杯に普段の俺ならどんな風に答えるのかを考えた結果の言葉。その言葉が出る数瞬の間はクラスの喧噪が埋めてくれていて、光希は特に何かを感じ取ったりしなかったようだ。
「まあ、そうだよな。秋博だから、自分から聞いたりはしないだろうな。でも、折角良い感じなんだからさ。退院したら、デートにくらい誘ってあげろよ。デートコースを探すことくらいは手伝ってやるから!」
光希は身体を乗り出して力強く提案している。いつにも増して張り切っている光希とは裏腹に俺は最悪な気分だった。夏花と二人でどこかに遊びに行くなんて今となっては夢のまた夢。もう病院から出ることはおろか、病室から出ることさえも夏花に残された時間を加速させる結果になってしまう。何もしてあげられない自分にやっぱり苛立ちは積もっていく。強く机を叩きたい気持ちを飲み込んで光希にバレないように机の上に握りこぶしを作る。
「……。秋博。大丈夫か?」
「ああ、ごめん。デートを想像していたら、ちょっとぼーっとしていた」
少し光希は不思議な顔をしたが、咄嗟に思いついた理由を聞いたら何にも無かったようにけらけらと笑い出した。こうして俺の一日の学校生活は何一つ変わることなく過ぎていく。
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