第51話
家の中はいつも通り静かでもちろんも母さんまだ帰ってきてはいない。早めに夕食の準備だけを済ませて、自分の部屋に籠もる。夕食はまだ早すぎるし、今日は母さんに伝えておきたいことがあったので、多少遅くなっても良いから仕事を終えて帰ってきてから一緒に食べることに決めていた。
帰ってくるまでの数時間は自分の部屋で机に向かう。真剣に絵を描き続けていたあの頃と同じように夏花からもらったヘアピンを付けてひたすらに一枚の絵の完成を目指した。
絵を描いていると時間の流れが変わってしまうのかと思うほど時間が早く進む。いつの間にか夜も更けて日を跨ごうとしている時間になっている。さすがにお腹が減って集中力が切れてきた頃合いだったので、一度作業をやめて少し遅い晩ご飯の準備を始めることにした。
真っ暗なリビングの電気を付けて一緒にテレビの電源も入れる。ニュース番組の音を聞きながら、作っておいた夕飯のおかずを温める。母さんが帰ってくるのを待つつもりだったが、空腹に負けて準備を始めていた。テレビ番組でも日付が変わったことを合図してくれている。そろそろ帰ってくる頃合いだろうから二人分のおかずを温めて食卓に並べていく。
二人分のハンバーグとサラダを準備し終えた頃に玄関から鍵を開ける音が響いてきた。俺の勘も捨てたものではないと思った瞬間であった。
母さんがリビングにやって来るのを俺は椅子に座って待つ。その間にテレビに流れる天気予報をチェックしておく。どうやら今週いっぱいは天気は晴れ模様が続くらしい、別に天気に行動が左右されたりすることはないが、ここ最近は夜遅くまで作業をしているから、鬱陶しいぐらい強い太陽の光がないとなかなか目が覚めないんだ。寝坊なんてした日には深冬先生の恐い小言が待っている。
「ただいま。秋博。珍しいね。この後は雨でも降るのかしら?」
帰ってきて早々に驚きながら、リビングにやって来た。後期も同様だが何故俺の行動一つで天気が決まってしまうのだろうか。
「お帰り。別に俺がこの時間にご飯を食べているからといって天気が変わったりしないよ。それに今週はずっと天気が良いみたいだよ」
「そうなの? ところで、何か用事があったから、この時間まで我慢していたんでしょう?」
全てを見通しているかのように椅子に座りながら問いかけてくる。いつもはさっさと済ませているから不思議に思っているのだろう。
俺は自分で作ったハンバーグを味わいながら、言葉を探した。
「あのさ、俺、もう一回だけ夢を追いかけようと思っているんだ。小学生の時に諦めたことだけど……」
「画家になりたいっていう夢ね。良いんじゃない?」
真面目に会話を切り出したというのに母さんはあっさりと返事をしてくれる。俺が夢を語ったことは数少ないが、小学生の頃に話した夢のことは覚えてくれていた。あの頃は、あまり良い印象ではなかったように思えたから母さんがあっさりと認めてくれたことにも驚かせられた。
「覚えていたんだ。小学生の時は俺が同じことを言おうとしたら『勉強もしっかりしなさい』としか言わなかったから、反対されると思っていたんだけど」
「息子が話してくれた夢を忘れるなんて出来るはずがないでしょう? 秋博が私に話してくれた夢はね。戦隊ヒーローの青でしょう。それから仮面ライダーにおもちゃ屋さん。あとは宇宙に行きたいとか魔法使いになりたいなんていうのもあったわ」
過去を振り返る母さんはどこか幸せそうな様子。指折り数えながら俺が過去に話したらしい夢が羅列されていく。楽しそうな母さんとは裏腹に俺はうずくまりたくなるほど恥ずかしい思いをしていた。
正直自分がそんな夢を抱いていたことすら覚えていない。何故その夢を抱いたのかきっかけすら思い出せないのだから相当昔のものだったのだろう。
「でも、秋博が一番目を輝かせていたのは画家になるって言っていたときね。小学生のある日から、無我夢中に絵と向き合っていた姿は今もきっちり覚えている。それを真っ正面から応援してあげたいと思う気持ちは強くあった。でも、私は秋博のことが心配だったの。絵と向き合っているとき、人と関わることを避けようとしていたから。でも、人生は一人で生きていくことは絶対に出来ないのよ」
そこで言葉を句切った母さんはコーヒーを一口口に運び、続ける。
「だから、私は小学生のうちから一点しか見えていない秋博に勉強も頑張るように言ったの。多くのことを経験して学んだ今の秋博が決めたことなら私はどんなことだって応援するよ。だから、その夢を追うなら胸を張って突き進みなさい」
応援してくれていないと思っていたあの頃の母さんの言葉は全て俺を思ってのことだったということだ。なんだか照れくさくて恥ずかしいなと思ってしまう。
「ありがとう。俺、頑張るから」
こうして久々に晩ご飯を一緒に食べたが他の話題が出てくることがなく。二人揃って食べた夕食は静かだけれど、とても幸せな時間が流れていった。
「ごちそうさま」
「ごちそうさまでした。食器は私が洗っておくから良いよ」
二人揃って夕食を終え、いつものように食器を片付けようとしていたが、母さんは俺の分の食器まで持ってキッチンに向かっていった。仕事を遅くまで頑張ってくれているのに家のことまで任せてしまうと体を壊してしまうかもしれない。俺は慌てて立ち上がり、声を掛けようとしたのだが、俺が声を出す前に呼び止められた。
「秋博。今はやるべきことがあるんじゃないの?毎晩遅くまで起きているのは知っているのよ。たまには自分のことを優先しなさい。もちろん体を壊してしまわないぐらいにしてね」
やっぱり、母さんには適わない。夏花との約束の絵が完成するまでは、その言葉に甘えていよう。時計の針は1時を指している。もう少し作業する時間はあるから、足早に部屋に戻る。
その日も明け方まで絵を描き続けたがいつの間にか机に凭れるように眠りに落ちていた。パッと目を覚まし体を起こすと、パサリと肩に掛けてあったタオルが床に落ちる。凝り固まった体をほぐして立ち上がると同時に時計に目をやる。
「ヤバっ!」
起きて第一声の言葉が自分の過ちを物語っている。何かの間違いである可能性にかけてスマホの画面を確認しても現実が変わることはない。
8時を回ろうとしている時計を見ているとこのまま一日ぐらいサボっても良いのではないだろうか。という甘い誘惑にかられもしたが、それが夏花の耳に入ったりしたら、何を言われてしまうか分からないし、深冬先生にもこっぴどく怒られることだろう。重たい気分ではあるが慌てて学校の支度をすることにした。
朝食など食べている余裕は存在していない。諦めて昼ご飯まで空腹に耐えて授業を受ける覚悟を決めた。
「秋博。いってらっしゃい!」
いつものように静かに家を出ようとしたが母さんはもう起きていたらしい。
「いってきます。それから、ありがとう」
俺が眠りに落ちた後にそっとタオルを掛けてくれたのは紛れもなく母さんが気を利かせてくれたこと。いつも、俺のことを文句の一つも言わないで助けてくれる存在。感謝をしても仕切れない。なかなか伝えることのできない感謝の気持ちを伝えたところで自分が今おかれている状況を思い出し慌てて家を出た。
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