第50話
夏花の居ない学校は静かすぎる。俺がそんな風に思っているなんてこの教室にいる殆どの人は気が付いていないだろう。
普段のように数学の自習をする元気がないので机に突っ伏して目を閉じて休んでいた。ここ最近夜遅くまで絵を描き続けているから、寝る時間が遅くなり睡眠不足気味だ。それでも学校を休むことはしないし、授業は普段通りに真剣に受けている。もしも、サボったり、休んだりしてしまったら、次に夏花に会うとき何を言われてしまうか分からないし、夏花は自分を責めてしまうだろう。だから、極力悟られないように学校生活を続ける。
「秋博! 今日も寝てんのか?」
俺の机をこんこんと叩きながら問いかけてくるのは元気な光希だ。それに起こされて体を起こして挨拶を交わす。この合図に合わせて起きれば万が一眠ってしまっても、深冬先生が来る前には起きることが出来るようになっている。光希のことだから、俺の変化を感じ取ってはいるようだが、いつもみたいに追求してきたりすることはない。
顔を上げれば視界が開ける。これまでとは少し違う世界がそこに広がっていた。談笑する女子生徒。俺と同じように一人で黙々と勉強をする男子生徒。これまで、気にも止めなかった人達が俺の視界に入ってくる。こんなにも、俺の周りには人が居て、それによって日々の喧噪が生まれていたのだと再認識させられる。
「お前さ。最近明らかに無理をしているだろう。一目瞭然だからな。何を抱えているのかを俺は深く追求しないけど、もし俺にできることがあるならいつでも呼べよ。どうせ、お前のことを助けるクラスメイトは俺しかいないんだから」
やっぱり光希には何も隠すことは出来ないみたいだ。全てを見通したかのように光希は俺に言葉を掛けてくれる。
「ありがとう。何にも無いと思うけれど、もし俺が授業中に居眠りでもしていたら、しっかりと起こしてくれ」
ここ最近の睡眠時間を考えると睡魔に負けてしまう可能性もある。最善は尽くしてはいるが、万が一のことを考えると保険を掛けて奥に越したことはない。深冬先生に目を付けられてしまっては色々と面倒なことになってしまうから。
そんな約束をした後は何事もなく。普段通りの時間を過ごし、下校時間を迎えた俺は誰よりも早く教室を出て家に向かう。
部活にも入っていないから、周りから見るといつもと同じ行動に見えるだろうが、俺からすると明らかにいつもとは違う。
夏花のために絵を描くという約束が俺の足を普段よりも足早なものにさせていた。
帰り道も周りに目も向けることなく走り続けていたが、突然視界を横切ったものに驚いて足を止めた。それは最近よく目にしているシャボン玉。綺麗に漂うその球体の出所は以前夏花と訪れた公園からだ。
子供達が大きな声を出しながら、そのシャボンに目を奪われていた。あの時は一人で悪戦苦闘していた少年も今や一躍有名人のように見えた。シャボン玉なんてすぐに弾けて無くなると言っていた俺が恥ずかしく思える。こんなにも人を魅了して、笑顔を作り、人を繋ぐ架け橋になっているというのに。
弾けて無くなるシャボンは別に悲しいものでもないらしい。むしろ、すぐに弾けて無くなってしまうからこそ、そこに存在している間に人々はそれが美しいものだと認識することが出来るのだろう。永遠に存在し続ける必要なんて最初からなかったんだ。その美しさを認識してくれる人が居るのなら。それはきっと夢も同じ。
諦めた夢が不意に頭を駆け巡る。俺の下手くそな絵を見て微笑んでくれた幼かった頃の夏花の顔。学園祭で俺のポスターを見て嬉しそうにしていた今の夏花の顔。それ見ることができたのは俺が抱いた夢のおかげだ。
だから、もう一度だけ、夏花の笑顔を生み出すために夢を見てみても良いのではないだろうか?
夢というのはすぐに消えてしまうシャボン玉だが、俺達には何度だってシャボン玉を生み出し、挑戦することが許されている。いつかの少年のように失敗に失敗を繰り返して、例え躓いて転がったって、涙で前が見えなくなったとしても、諦めなければいつの日か人を惹きつける魔法が掛かる。
夏花は俺に魔法をみせた。それが本物の魔法かどうかなんてことは関係なく。俺に勇気を与えてくれた。もう一度あの時のように夢中になって、最も大切な人に向け俺は絵を描く。例えそれを多くの人が絵を嘲笑っても、馬鹿にしてもいい。夏花が笑顔でその絵を見て笑ってくれるのならそれだけでいい。
そんな決意を固めながら騒がしい公園をあとにする。普段なら賑やかな場所はとても苦手だが、今日はなんだかその声すらも心地よく感じる。
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