第49話
よくよく考えるとそんな簡単に病院の屋上に入ることは出来るのだろうか? そんな不安が脳裏に映った頃に丁度屋上の扉の前に到着した。
「さぁ! 秋博。早く扉を開けてよ」
俺を急かすようにして声を弾ませた。その声に従って扉を力強く押す。鈍い音と生ぬるい風がながれるのは、何処の場所でも同じなんじゃないだろうか。学校の屋上でもよく聞く音が響く。
「今日も外は暑いんだね~。いつもエアコンの効いた部屋にいるからこのうっとうしい暑さを感じるのも久々だよ」
俺が扉を開けると吸い込まれるように勢いよく扉の向こう側に行き、大きな声で暑さを訴えかけている。
確かに昼をすぎた時間だが結構暑くて肌がじりじりと焼けてしまいそうなほどだ。少し遅れて夏花の後を追って屋上に足を踏み入れる。
「屋上に来て何かあるの?」
青空と太陽を懐かしむように見つめる夏花に問いかける。ゆっくりしていたい気持ちが強くあるけれど、この暑さだから、ずっとここに居たら体調を崩してしまうかもしれない。だから、少し申し訳ないけれど、俺は早めに話を切り出した。
「もうちょっとこの暑さに浸っていたいところだけど、秋博君が倒れたら困っちゃうから早めに用事を済ませよっか。今日は見せたいものがあるからここに来たんだ」
なんだか突然の言葉に驚いて首を傾げることしかできなかった。
そんな俺を尻目にどこからか取り出したのか、夏花の手にはシャボン玉のセットが手に握られていた。
「シャボン玉?いつの間に持って来たんだ?」
「秋博は覚えてる? 二人で公園に行ったときにした約束」
夏花が言ったのはテストの罰ゲームで一緒に帰ったときのことだ。少年が頑張っている姿を見たあの時。俺の夢に対する思いを考えさせられるきっかけになった日の約束。
あの日、夏花とシャボン玉をすると約束をしていた。学園祭などで忙しすぎてその約束を果たす余裕がなかったんだ。
「覚えてはいたよ。なかなかタイミングが無くて出来なかったけど」
「そっか、覚えてくれていたんだ。じゃあ、いまその約束を果たそうかな。といっても、私がシャボン玉を作るだけだけどね」
そう言って慣れた手つきでシャボン玉を作り上げていく。ふわりと風に乗って空に向かって上がるのを呆然と眺める。無数のシャボンは生まれて数秒であっけなく弾け飛んでしまう。
「ふふ。なんだか懐かしいな。こんな風にしていると昔に戻ったみたい」
確かに、歳を重ねるとシャボン玉で遊ぶことなんて中々無いだろう。俺だって最後にシャボン玉をした日のことは思い出せないほど昔だ。
「夏花はどうしてシャボン玉がしたいと思ったの?」
夏花が何故シャボン玉をこのタイミングでしたいと思ったのかがいまいち理解が出来なかった。自由に使える時間だって限られているんだ。もっと贅沢なお願いがあっても良いと思うのだけれど。
「それはね、証明したかったの」
一度シャボン玉を作ることをやめて俺を見つめる。夏花の声は凄く真剣なものだ。
「証明って何?」
「秋博は言ったよね『小学生の夢なんて、シャボン玉みたいなもんだよ』って、だから私は証明したい。シャボン玉のように美しい夢が一時の存在でそれが永遠に続かないと秋博が考えるなら、私はそれが間違いであることを証明する」
俺が過去の夢を諦めるために再三口にしてきたその言葉を夏花は否定するという。でも、その言葉をどんな風に受け入れるかは人それぞれという話を以前も夏花と話をした。だから、夏花はもうそのことを気にしていないと思っていたが、夏花はその言葉を真剣に受け止めて考えてくれていたらしい。
「でも、どうやって証明をするんだ? だって、シャボン玉はどう頑張っても永遠に存在することは出来ない」
当たり前のことだ。どう頑張っても出来ないことだと分かっているから、俺はこの言葉を選んだ。それを否定することはどうあがいても無駄なはずだ。
「ふふ、私ね。実は魔法を使うことが出来るようになったんだよね」
嘘をついている様子など無く真剣そのもので、魔法という言葉も信じてしまいそうなほどだ。でも、俺がいる世界は現実であり、ファンタジーの世界ではない。俺は一度魔法の存在を否定する。
「さすがに魔法なんて存在はしているはずがないよ」
「もう秋博は現実主義者みたい。魔法がないって言うなら、今ここで証明をするから……。秋博の夢が壊れてなんて居ないことも一緒に証明してみせるから」
魔法というものを信じたことはない。アニメやゲームのように何もないところから火を出したり、水を発生させたりすることは出来るはずない。でも、夏花の言葉はいたって真剣。どのように俺の夢を証明してくれるのか。少し興味が沸いてきた。
「そこまで言うなら、魔法を見てみたい」
「よーし! それじゃあ、説明するね」
一度咳払いをして夏花はシャボン玉を作り出す準備を始める。
「秋博はシャボン玉がすぐに消えて無くなるから、あんな言葉を思いついたんだよね?」
夏花の問いかけに首を縦に振って肯定する。
「私は魔法が使えるから、消えないシャボン玉を見せてあげるよ」
そう言って一つの大きなシャボン玉を作りあげる。何の変哲のないシャボン玉はゆっくりと空に向かって浮上していく。それは、魔法が掛かっているとは思えないほど普通の透明な球体。不安定に浮遊しているそれは当たり前のように消えて無くなってしまうように見えた。
やっぱり魔法なんて無いんだと心の中で呟いた。次の瞬間。視界が黒く染まって、何も認識することが出来なくなっている。目の前を覆う手はひんやりとして柔らかい。
「だーれだ? なんてね」
後ろからささやかれた声が俺の心拍数を跳ね上がらせる。それはテストの後のささやきのように魅惑的なものだ。
「夏花、ビックリするからやめてくれよ……。いつか俺も同じことをやってやる」
「ふふ、秋博は慣れていないからビックリするだけだよ。私は慣れているからそんなに驚きません! それに私のは魔法の一環だよ。ほら、空を見てみてよ」
今のが魔法の一環だったなんてなかなか信じがたいことだけれど、夏花の言うとおりにして、視界を青い空に向けてみる。
「天気が良いな」
それしか目に入らない。先程までは綺麗なシャボン玉が空を泳いでいたが、それも当たり前のように無くなっていた。やっぱり魔法なんて存在しているはずがなかった。
「秋博は今やっぱり魔法なんて存在していなかった。なんて思っているでしょ。でも、わたしは見ていたよ。綺麗なシャボン玉が空に昇り見えなくなってしまうまで見送ったよ。きっと宇宙まで届いているよ」
「そんなはずない……」
「秋博は見えていないでしょ。私はしっかりとこの目で見届けたよ。だから、信じてみてよ。シャボン玉は何処までも行くことが出来るんだよ。夢は何度止まったって諦めたって消えることはないんだよ」
俺の否定の言葉を見通していたかのように夏花は魔法の種を明かした。空の向こうへ消えていったという俺の夢を乗せたシャボン玉は夏花の魔法で宇宙にまで到達してしまったみたいだ。
小学校の時に抱いた画家になるという夢が一人の魔法使いの言葉によってじんわりと蘇ってくる。誰かのために絵を描ける喜びが、誰かに絵を見てもらえることの感動が、ゆっくりと確かに自分の手に感覚が帰ってきた。
「でも、俺の絵は決して上手くない……」
あの時だって俺の所為で夏花はイジメに遭って、自分の才能のなさはあの瞬間理解してしまった。自分の手に降りてきた感覚を握り締めることが出来ない。
「秋博の絵は私が一番大好きなものだよ。だから、そんなことを言わないで……。秋博の描いた絵は私が何処に行ったって見ているし、きっといつか秋博の絵の魅力にみんなが気がつく。その時、秋博は世間で騒がれるほどの有名人になっていると思う」
夏花は俺の後ろに立ったままゆっくりと言葉を紡いでくれていた。その言葉は恐らく俺が心の奥底で一番求めていた言葉だ。心の中で絡まっていた複雑な感情が解けていく。
「ありがとう。夏花。俺はもう一回大きな夢を持ってみても良いのかな……?」
俺は自分の決意の胸を改めて言葉にしてみる。その言葉を聞いた夏花は俺の目の前に立ち笑顔を向けてくれる。
「もちろんだよ。でも、秋博が有名人になっても、私が最初のファンだっていうことを絶対に忘れないでね」
「当たり前だよ。俺はどこに居ても夏花のために絵を描く。夏花が最初のファンであり、最高のファンだ」
自分の手を握り締めて夢をつかみ取る決意を表した。
「さて、私の魔法は上手くいったみたいだし、そろそろ病室に戻ろうかな」
30分近く屋上での時間を過ごしていた。夏花の言うとおりそろそろ涼しい病室に戻るほうがいいだろう。俺がドアに向かって一歩踏み出そうとしたとき、何かを思い出したかのように声を上げた。
「そうだ! 秋博。私に絵を描いてよ」
大きな声に振り返る。そこに映った夏花は日の光をバックにしていて、とても、神秘的で綺麗な姿だった。それに見とれていたために返事が出来ないで時間が経過しており、夏花はもの凄く不安な表情を浮かべている。
「ごめんごめん。ちゃんと描くよ。何を描いてほしい?」
慌てて承諾すると夏花はホッと息を吐いて安心したように肩を落とす。
絵を描くことは出来るが描くべき題材がなければ難しい。確認のため夏花に問いかけるが返ってくるものはなんとなく想像は付いていた。
「それはね、今の秋博が一番描きたいと思うもので良いよ。でも……」
夏花のお願いは俺の想像していたとおりだった。だが、言葉の途中で何かを探すように迷いが生まれる。その迷いが何なのかが全く想像も出来なかったが、夏花のお願いが過去にあった約束を思い出させられた。
「どうした?大丈夫?」
「あ、うん。大丈夫!」
俺の声でやっと自分の言葉が止まっていたことに気が付いたのだろう。ちょっと慌てて話を続けた。
「今回はちゃんと秋博が私のところに持って来てほしいな」
その言葉は何を物語っているのか、すぐに理解することが出来た。あの頃の約束を再現してくれている。小学校の時に約束を守れなかったことを引きずっていたことを知っているから、こんな風にして約束を塗り替えてくれようとしている。
「大丈夫だよ。俺だってあの時とは全然違う。ちゃんと自分の体調ぐらい管理出来るさ。また倒れることなんてしないさ」
「じゃあ、私待っているから。ちゃんと間に合わせてね」
なにに間に合わせるのか、夏花は言わなかったけれど、すぐ理解出来てしまった。それは夏花に迫り来るタイムリミットを意味しているのだろう。
そんな寂しいことを言ってほしくなかったけれど、それを否定する言葉は幾ら探しても見つけることが出来なかった。
「……。分かった。ちゃんと来週までには持ってくるよ。それなら余裕で間に合うだろう?」
俺の問いかけに夏花は笑顔をいっぱいに作り頷いてくれる。その笑顔はどこか儚げで悲しみが籠もっていた。
「待ってるからね。アキ君」
この言葉は俺と夏花が交わした言葉の最後だ。
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