第45話


 翌日も俺の隣の席は空席だった。昨日の時点で病院に入院していたのだから、当たり前のことなのだけれど、心のどこかでもしかしたら、今日は学校に来るのではないかと思っていたのだ。


 昨日は声を聞くことは出来たけれど、顔を見ることは出来ず。だから、夏花の様態を確認することが出来ないままで帰ってから深く後悔に襲われた。


「はぁ」


 自分の席に座って深いため息を一つ。どうせ誰にも聞かれることは無いからと油断をしていたのかもしれない。


「おいおい、朝からそんな深いため息をついてどうした? 俺で良ければ、話ぐらいは聞くぞ」


 いつもならまだ席に着いている時間ではないが、光希は自分の席にもう着いている。こちらに振り返りながら、問いかけてくる光希に俺は挨拶だけ返して誤魔化す。


「おはよう。今日は随分と早くに席に着いているんだな」

「今日は鬼顧問がお休みみたいでな。みんな、大喜びで練習にならなかったから、お休みっていうわけだ」


 光希は小さく笑みを浮かべて、説明してくれている。バスケ部の大変さは周りとあまり話をしない俺のところにも届いているぐらいだ。


「ああ、おめでとう。ゆっくり休みを堪能しろよ」

「俺の貴重なフリーの朝に大きなため息を聞かせてくれたな? 責任を取ってため息の理由を説明してくれよ?」


 光希は余程、俺のため息の理由が気になるようで、少し楽しげな表情を浮かべている。これは黙っていると難癖付けられるか分かったものではないので、諦めて話をすることにした。


「いや、昨日さ、夏花のお見舞いに行ったんだ。そしたら、家には居なくて、病院に入院していた。そして、流れで病院まで行ってきた。そこまで、分かっていながら、隣の席に夏花がいないことに違和感しかない」


 光希は俺が話を始めてすぐに大きく口を開けて驚いている。ちょっと真剣に話をしているというのに、こんな反応をされてしまうとは納得がいかない。


「なんだよ、お前が聞いてきたから答えているのに、そのアホ面は」

「アホ面ってな……。お前が俺をビックリさせるからだろう」


 今度は光希が大きなため息を吐く。俺としては何のことだかさっぱり分からない。


「昨日まで七森さんって呼んでいたのに、いきなり下の名前を呼び捨てにするとか、マジでビックリするわ!」


 光希が強く訴えかけてきたことでようやく理由が分かった。俺も昨日はとても恥ずかしい気持ちもあったが、今となっては凄くしっくりきているように感じる。昔は夏花ちゃんと呼んでいたからなのかもしれない。


「昨日、話をしたんだよ。過去のこととかを全て。そして、紆余曲折を経て、お互いに呼び方を変えることになったんだ。だから、そんなに驚かないでくれ」

「そうか、お前も変わっていくんだな。なんか納得した」


 光希は小さく笑みを浮かべてくれている。こいつは年齢の割に大人びていて、同い年だとは思えない。発言を聞いていると母親かと思わされる。


 俺達の会話を遮るように廊下から足音が響き渡ってくる。


 俺達が最も恐れる存在が現れる合図。その存在が何事もなかったかのように教室に入ってきた。光希がそれに合わせるようにして前に向き直った。


「みんな。おはよう。朝のホームルームを始めるわよ」


 この日のホームルームでも、夏花が来ないことをしっかりと伝えられて、病院に入院していることが改めて伝えられた。クラスメイトたちは夏花の状況が伝えられて一瞬だけザワつきがあったけれど、すぐに何事もなかったかのようにいつも通りの雰囲気に戻っていった。


 そして、何事もなく一日の時間が流れていき、俺は適当に過ごす。夏花がいないと本当に会話がないから時間が知らない間に過ぎていった。


 授業が終了して家に帰る。暑苦しい風に吹かれて一人トボトボと歩く。帰ったら何をしようかなんて考えながらひたすらに足を動かす。こっそりと母さんのチャリを借りて夏花のお見舞いに行くのも良いかもしれない。


 普段遠出することがないから、俺のチャリは存在しないし、電車やタクシーで移動するにはお金が掛かってしまうから、節約のためにもチャリで病院に向かうことにする。


「はぁ、暑いなぁ」


 あまり使っていない母さんのチャリを汗を流しながら引っ張り出す。


 病院に行くには時間も体力も無くなってしまった。とりあえずは、部屋に戻って一休みして居ると疲れが回ってしまったのか。いつの間にか眠りに落ちてしまった。


「やばっ、もうこんな時間だ」


 時計に目を向けるともう11時を回っていた。夜ご飯の準備に取りかかってもいない。食べなくても良いなんて思いもしたけれど、そうすると母さんに怒られてしまうから、面倒くさいけれど準備をしなければいけない。


 フラフラと自分の部屋から出てキッチンに向かう。そこまで向かう間に変化に気が付く。キッチンにはもう人影があった。


「あれ? 今日は帰ってくるの早いね。ごめん。寝落ちして、ご飯の準備出来ていなかった」


 いつもは俺がご飯を準備して母さんの分も一緒に作って残していた。今日は寝落ちしてしまっていたから、何一つ手を付けることが出来ていない。だが、母さんはキッチンに立って鼻歌を歌っていた。


「いいよ。たまには母さんが作ったご飯を食べなさい」

「ありがとう。俺にできることはある?」

「食器とご飯の準備をしておいてね」


 母さんに言われたとおりに食器棚から二人分の食器を準備して、ご飯をよそっておく。


 久々に二人揃ってダイニングテーブルに座る。中々こうして一緒にご飯を食べることがないから懐かしい気持ちにさせられる。


「そういえば、自転車が出されていたけれど、何かに使うのかい? 秋博が自分のはいらないって言うから買っていないだけで、必要ならいつでも買うよ?」


 ご飯を食べながらそんな質問をしてくる。別に俺に必要なものではない。ただ、病院との往復に使うための道具に過ぎない。だから、わざわざ新しいものを買ってもらう必要ないし、うちの家には必要の無いものを買うほど経済的な余裕はない。


「別に良いよ。必要なわけじゃない。ちょっと、お見舞いに行くのに使うだけだから」


 他愛ない家族の会話だが、母さんは俺の言葉に酷く驚いた顔をしている。そんなに驚くようなことを口走っただろうか。


「お見舞い? 光希君ではないわよね。光希君のお母さんから連絡が来ていないし……。じゃ、だれだろう?」

「友達だよ。ちょっと体調が悪くて入院しているみたいでね」


 説明すると母さんはすべて察したかのように大きなため息をついた。


「はぁ、秋博。それなら尚更、チャリで行くのは大変でしょう。病院ってさ、昔秋博が入院したことのある場所でしょ? 1時間ぐらい掛かるから、電車かバスで行きなさい。お金が必要ならちゃんとお小遣いを増やすよ」


 俺のことを案じて母さんは提案してくれているらしい、確かにチャリで行ったら1時間ぐらい掛かるかもしれない。ただ、そのためにわざわざ母さんに負担を掛けさせるわけにはいかない。


「大丈夫。お小遣いを増やしてもらう必要は無いよ。この間もらったお金がまだ残っているから」

「秋博がそこまで誰かのことを思って行動するなんて、びっくりだよ。もしも、助けが必要ならいつでも声を掛けて頼ってね。私にはお金がないと思っているかもしれないけれど、ちゃんと考えて貯金を作っているんだから、遠慮ばっかりしないでね」


 とても優しい笑みを浮かべて話をしてくれている。母さんはずっと過酷に働きながら貯金を作ってくれているらしい。今の生活に不便を感じていることはない。父は居ないが母のおかげでこうやって生活することが出来ているんだ。感謝の念しか沸いてこない。これからももう少しお世話になるけれど、今以上に負担を掛けるようなことはしないようにしないといけない。


「ありがとう。なんかあったらいつでも相談させてもらうよ」

「ええ、そうしなさい」


 大きな笑顔を作り母さんは食事を続けていた。俺は先に食べ終わったので一言だけ挨拶を残してその場を後にする。



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