第44話


 どうにも見覚えのある場所だと感じていたが、どうやら俺が昔、気を失ったときに入院したのもこの病院であった。


 田舎の病院だが、人は沢山居て、診察の順番を待つ椅子には空きがないくらいにはなっていた。


「夏花のところはこっちだから付いて来てね」


 大きな鞄を持った夏花さんのお母さんは俺に声を掛けて先を歩いて行く。荷物を持ってあげるべきだろうかとか考えている内にどんどんと先に進んでしまっていた。姿を見失わないように少し慌てて着いていく。


 病院という空間は得意にはなれない。真っ白く清潔感のある空間が永遠と続くからだ。別に病院にお世話になることはそう多くはないから、好きも嫌いも無いのだけれど。


 そんなくだらないことを考えていると、前を歩いていた夏花さんのお母さんは突然足を止めた。


「ちょっと、ここで待って居てくれる? 一応、夏花が起きているか確認してくるから」


 扉の閉まった病室の前で俺は言われた通り立ち尽くして待っていた。病院という空間は清潔感もさることながら普段学校のような賑やかなところにいると静かな場所だ。


 部屋の中から微かな声が廊下にいる俺の耳にも届いてくる。


「夏花。あなたにお客さんが来ているんだけど、入って貰っても良いかしら?」

「え?誰が来ているの?」

「榊原君よ」


 その時だった。突然廊下にも大きく響く声が聞こえてきた。


「ダメ!」


 拒絶の声だ。まさかここまで拒否されるとは思っていなかった。特に夏花さんに悪いことをした覚えはないのだが……。


「どうして? 折角来てくれたんだよ?」


 夏花さんのお母さんはゆっくりと優しい声で理由を尋ねていた。その内容は俺としてもかなり気になる内容であったため、一歩だけ閉まっている扉に近づいて耳を澄ませていた。


「ダメだよ。私は秋博君との約束を破っちゃったんだよ? どんな顔をして会えば良いのかが分からないもん」


 その言葉の意味を理解出来るのはきっと俺だけだろう。あの日のことを根に持っていたりはしていない。だが、それを伝える方法は直接話をするしかない。


「分かった。榊原君には今日は帰ってもらうからね」


 その言葉を最後に部屋の中から、声が聞こえてくることはなく。すぐに扉は開き夏花さんのお母さんが姿を現した。


「ごめんね。榊原君。聞こえていたかも知れないけれど、今の夏花は会えないみたいなの……」


 全て聞こえていたから別に驚くこともなかったけれど、俺はここで引き下がるわけにはいかなかった。夏花さんに伝えなくてはいけないことがある。


「お願いです。直接じゃなくても良いんです。話だけで良いのでお願いします! どうしても伝えなくちゃいけないことがあるんですっ」


 病院の廊下に自分の声が響く。俺のお願いに驚いた表情を浮かべる夏花さんのお母さん。


 それもそのはずだ。今居る場所のことを考慮しないで行動していたのだから、廊下を歩く看護師はチラリとこちらの様子を伺うように見ていた。


 それで初めて自分の行動があまり正しいことではないと認識することが出来た。


「す、すみません! やっぱり、今日は帰ります!」


 今すぐにでもこの場から離れたいという気持ちはあった。だが、あれだけのことを言った手前逃げ出すことは出来ないので、夏花さんのお母さんに一度頭を下げて俺は踵を返そうとした。


 その時。自分の名を呼ばれて踏みとどまった。


「待って! 榊原君、そんなに伝えたいことがあるなら、しっかりと伝えていって、カーテンは閉まってるけど、その前でなら、普通に話をしても声は届くでしょ?」

「良いんですか?」


 確認の意味を込めて聞き返すと夏花さんのお母さんは深く頷いて返してくれる。


「うふふ。あそこまで真剣な顔でお願いされたら、私もこのまま帰れなんて言えないわ。私は少し買い物をしてくるからね」


 笑顔で夏花さんのお母さんは俺が行こうとした方向へと歩いて行く。その姿を見送り、俺は一度大きく息を吸ってから、扉に手を掛ける。


「失礼します」


 恐る恐る声を掛けて扉を開ける。それと同時に一つの反応が返ってくる。


「どうして? 秋博君がいるの!?」


 驚きが混じった問いかけ、黄色いカーテンに遮られているから表情を伺うことは出来ないが、声のトーンが明らかにいつもと違った。


「ごめん。七森さんのお母さんにどうしても伝えたいことがあるってお願いしたんだ」


 ひとまずは、俺がここに来た理由を伝えることを選ぶ。七森さんの気持ちをくみ取らなかったことは少し申し訳ないけれど。


「秋博君は……。秋博君は怒っていないの?」


 俺が話を始める前に質問を投げかけてきたのは七森さんの方だった。その声は明らかに弱々しく不安に押しつぶ されそうなものだった。俺はその質問に対して迷うことなく答えた。


「怒っていたら、会いになんて来ないよ。確かにあの日、一人でいたことは不安ではあったよ。それこそ、知らない間に七森さんを怒らせちゃったかなってね」


 あの日のことはなかなか忘れることは出来ないけれど、きっといつかは笑い話に出来る日が来るだろう。俺はそう信じているから、今こうやって七森さんに全てを打ち明けようとしている。


「あのさ、約束のことは七森さんが気に病む必要なんて無いんだけどさ。実は俺も七森さんとの約束を破ってしまっていたんだ……」


 突然の俺の発言に七森さんは疑問符を浮かべているだろうか。俺達を遮るカーテンによって表情を伺う方法は存在していない。ただ、数拍の間を置いて七森さんはあっさりと言葉を紡ぐ。


「約束って、小学生の頃のでしょう?」


 当たり前のように七森さんは過去も約束を口にしていく。


「私が色鉛筆を秋博君にあげて、秋博君は私が転校する前に絵をプレゼントするっていう約束。覚えてるよ。忘れられるはずがない……」


 七森さんが約束の内容を口にするのを聞いていると、悲しくて、悔しくて、酷く胸を締め付けられる感覚に苛まれる。もう忘れていると勝手に思い込んでいたが、全くそんなことはなく。七森さんを傷つけていた。


「ごめん。本当にごめん。俺は七森さんがあのことを覚えていないと思っていて、ずっと黙っていた。約束を守ることが出来なかったことを思い出したら七森さんに嫌われる。そんな風に考えてた……」


 以前光希にいつかこの件について打ち明ける必要があると言われていたが、まさかこんな形で話すことになるとは思ってもいなかった。この後、どんな返答が帰ってきても俺はそれをしっかりと受け入れなければいけない。例え嫌われるとしても。


「私がそれで秋博君のことを嫌いになると思っているの?」


 その声は少しいじらしそうな雰囲気を孕んでいるもので、俺の心臓はドキリッと跳ね上がる。それを悟られないようにすぐに頭の中で言葉を探す。


「あれだけ偉そうに約束をしておいて、それも守ることが出来ないなんて……。それでさえ、俺なんて絵を描くことぐらいしか能が無かったのに……」

「秋博君はもっと自分を評価しても良いと思うの。あの時のことは鮮明に覚えてるよ。秋博君には内緒にしていたことがあるんだけどね」


 七森さんは過去のことを話すために大きく息を吸った。


「私はあの日、秋博君のお家に行ったの。宿題を届けるっていう役割をもらって、最後に秋博君に会おうと思ってね。でも、お家には秋博君はいなくて、秋博君のお母さんがいらっしゃった。慌ただしく何かを準備している最中だったんだけれど、宿題を渡した後に秋博君のお母さんが見せてくれたんだよ。秋博君が書いてくれた私の絵」


 あの日の俺は目を覚ましたら、もう冬休みに突入してしまっていた。突然の別れを認められずにショックで涙を流していた。悲しくて絵を見てもらえなかったことを悔やんで、何もする気持ちがなくなってしまっていたあの頃。七森さんはちゃんと絵を見届けてくれていたらしい。


 俺もその真実をすぐに受け入れることはできなかった。母さんも七森さんが来て絵を見せたことは話をしてくれなかったからだ。


「でも、母さんは特に何も言ってくれなかったけど」

「秋博君のお母さんはいい人なんだね。私が内緒にしてってお願いしたからしっかりと守ってくれたみたい」


 何故あの時の七森さんは俺にそのことを秘密にしたのだろうか。


「だから、秋博君はあの時のことを気にする必要は無いんだよ」


 七森さんは俺を慰めるかのような優しい声でそう告げた後。声のトーンを一気に下げる。


「でも、私は違う。秋博君を一人で待たせて、約束も守ることが出来なかった!」


 七森さんは俺を慰めて、自分を責め続けている。優しすぎる性格だから、自分を許すことが出来ないのだろう。


「俺達はお互いに約束を引きずって生きている。もうやめよう……。今回の件でお相子ってことにしないか?」


 これが一番の提案だったと思う。七森さんと俺がお互いに自分たちを許す方法はこれしかないと思っている。


「秋博君はそれで良いの?」


 七森さんは不安げに俺に問いかけてくる。その声は酷く弱々しいものに聞こえた。


「俺としてはそれで構わないよ。七森さんとこれからも仲良くしたいと思っているからさ」

「私はあの頃から秋博君のことが、大好きでした。こんな状況で気持ちを伝えるのはずるいかもしれないけれどね。こんな状況だからこそ伝えなくちゃいけないと思ったの」


 今もまだカーテンで表情を伺うことが出来ない。七森さんからも俺の表情を伺うことは出来ないだろうけれど、現状の俺の顔は真っ赤に沸騰していた。


 この状況で俺はついに数年間伝えることが出来なかった気持ちを伝えることが出来た。


「俺もあの頃から七森さんのことが好きだよ。こんな形で気持ちを伝えることになるとは思っていなかったけれどね」


 本当のことを言えば、本人にこの気持ちを伝えることは無いと思っていた。


「そうだったんだ。あの頃の秋博君は私のことを下の名前で呼んでくれていたのに、今は七森さんなんて呼んでくるから、もう忘れているのかと思ってた」

「だって、いきなり下の名前を呼んだら、嫌がられるかと思ってさ」


 小学校の頃は七森ちゃんなんて呼んでいたけれど、よくそんな風に呼ぶことが出来たなと思う。今なんて女子の名前を呼ぶ機会も少なくなって、下の名前を呼んでいるのは光希ぐらいだ。七森さんに直接、下の名前なんて呼ぶことが出来ない。


「そんなことないよ。良かったら、今日からは前みたいに呼んでくれないかな?」


 突然の七森さんからのお願いに俺の心拍数は上昇していく。七森さんのお願いに答えるために小さく言葉を吐き出した。


「夏花……さん」


 俺の絞り出した声に七森さんは強く反論を返してきた。


「私は秋博君と同い年なんだけれど、なぜ、『さん』付けで呼ぶの?」

「さすがに、小学校の時みたいに『ちゃん』付けで呼ぶことなんて、出来る訳ない」

「じゃあ、呼び捨てで呼ぼうよ。私も良ければ呼び捨てで呼ぶからさ」

「分かった。よろしく。夏花」

「こちらこそ、よろしく、秋博」


 お互いに少しぎこちなさを感じるが、なんだかとてもしっくりきたような気がした。


 その後、俺達は少しの間だけ、静かな時をともにした。それを打ち破ったのは七森さんのお母さんの足音だった。これ以上、ここに居座って夏花の体調が悪化してしまっても困る。一声掛けて俺はおいとまする。


「俺は今日はこれで失礼するよ。また、会いに来てもいいかな?」

「うん!いつでもいいよ。秋博に時間があるときに会いに来てくれたら、私も嬉しい」


 最後に挨拶を済ませて、病室のドアをゆっくりと開ける。その先には、買い物から帰ってきた夏花のお母さんが立っていった。小さく笑いながら俺に問いかけてくる。


「秋博君。お話ししたいことはできたかな?もしまだなら、もう少し席を外しているけど?」


 夏花のお母さんは俺に気を遣って提案してくれている。俺は小さくお辞儀をして現状を伝える。


「大丈夫です! 今日お話ししたかったことは、全てお話しすることが出来ました。また、今度会いに来るって夏花にも言ってあるので、日を改めて会いに来ようと思います!」


 それだけ伝えると夏花のお母さんは優しく笑いながら、俺と入れ替わり病室のドアを開けた。中に入っていく前に小さく俺に呟く。


「いつでも、会いに来てあげて、夏花もきっと喜ぶだろうから」


 その言葉に小さく会釈してから、その場を後にする。


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