第34話

 文化祭まで、残り一週間。クラス内はわくわくとした雰囲気が蔓延している反面。本番が近づいていることによる緊張感が漂っている。


 順調に物事が動いているように見えたクラス内だが、ここに来て不穏な空気が流れ始めた。


 俺はいつもと同じように、朝早く教室に来て、一人で数学の問題と格闘していた。最近は七森さんも文化祭の準備のために普段より少しだけ早く登校して何やら作業をしているようだ。


 予算関係の取りまとめを行っているようで、隣から素早く電卓を叩く音が聞こえてくる。得意なことをクラスに分担しているため、みんながやりたがらない仕事は七森さんが担っているらしい。


 手伝おうかとも思ったのだけれど、七森さんの作業スピードを見ていると俺が手を貸す方が余計に時間を使わせてしまいそうなので、見守ることに徹していた。


 一定のリズムで電卓を叩いていた七森さんの手がピタリと止まったことで俺は異変に気が付いた。


 横目で様子を確認すると、忙しなくスマートフォンを操作している様子だった。


「どうしたの?」


 俺は数学の教科書を片付けながら問いかけてみる。できることは数少ないが、なにもしないで見逃すことは出来ない。


 声を掛けたことが意外だったのか、七森さんは少し驚いた表情を向けてくる。確かに普段から集中して数学の問題と戦っているが、そこまで驚かれることだっただろうか。


「えっとね。実はポスターをデザインする予定だった子がさ。突然辞退しちゃって、誰か他に変われる人が居ないか探しているんだけれど……」


 苦笑いを浮かべながら話をしていた。七森さんの説明を最後まで聞くまでもなく結果は分かっている。このクラスにはデザインやイラストを描ける人は他には居ないようだった。


「でも、大丈夫!誰もいないなら、私が描くから!」


 状況を聞いておきながら、何も提案してあげることは出来ずにいると、七森さんは自分の席から離れて教室から出て行った。


 静かな教室に時計の針の音と俺が吐き出したため息が響く。


 自分の出来ることが分からない。七森さんは確かに困っている様子だった。それは紛れもない事実なのに、何もしてあげることは出来ない。美術部の存在を教えてあげることが正しかったのか。光希に頼るように助言するのが正しかったのか。全く正解が分からずに気持ちはモヤモヤとしていた。


 俺のモヤモヤが解決するよりも七森さんが教室に戻ってくる方が早かった。スケッチブックと何色かのペンを持って来た七森さんは早速席に着いて、ペンを手に取った。


 七森さんが自分で着手した作業だ。きっと、誰もが驚くような絵を描いてくれるのだと思う。だから、俺は邪魔をしてしまわないように、再び数学の問題に着手することに決めた。


「できた!!!」


 作業開始から10分も経過していないのに、教室に響いた声に俺は顔を上げて様子を見た。普通なら10分足らずで完成するなんてあり得ないと思うところだけれど、七森さんのことだから、ちゃんとしたものが出来ているのだろうと確信していた。


「秋博君!見てよ!私の力作!」


 自信満々に俺にポスターを見るように言ってくるので、褒める言葉を考えながらそれを手に取った。


「……。……?」

「どう?凄いでしょう!」


 今すぐにでも褒めてくれと言わんばかりの表情を浮かべている七森さん。俺の方は正直驚きすぎて言語機能に障害が出そうになっていた。


「ああ、す、凄すぎてやばい……」


 それはあまりにも禍々しかった。黒や紫、赤などの主張が濃い色だけで、彩られたスケッチブックは恐怖を引き立てるデザインになっている。これはクラスがお化け屋敷をするのならピッタリなデザインなのではないだろうか。


「そうでしょう!これをみんなに見せて、クラス展示のポスターにしようと思うんだ!」


 七森さんは俺の語彙力が低下しきった感想をポジティブに受け入れていて、これを校内のいたる所に貼ってまわろうとしている。


 まさかこんな形で七森さんが苦手とすることが浮かび上がってくるとは思ってもいなかった。いろいろな意味で俺は驚かされたが、それよりもなによりも、あのポスターを貼って回ることを俺が阻止しなくてはいけない。


『何が起きるか分からないのが学校生活だ。七森さんが困っていたら、秋博、お前が手を差し伸べてあげろよ。約束な』


 少し前に光希が俺に助言したことが頭をよぎる。あいつは超能力者かなにかなのか?こんなことになるとまでは流石に予想はできてないだろうけれどな。


「自分の手で……」


 小さく言葉が漏れた。こんな状況で俺にできることは……。一つだけあった。


「七森さん!よかったら、俺にポスターを作らせてくれないか?」


 自分の手で七森さんを助ける方法はこれしか思い浮かばなかった。正直に言えば自信はないし、うまく描くことができるのかも分からない。なにせかれこれ、6年ぐらい絵を描くためにはペンを持っていないのだから。


 それでも、勇気を振り絞ってみる価値があると俺は思った。これまで逃げてきてばかりいた自分を変えるためにも、そして、この文化祭を精一杯頑張っている七森さんのためにも。


 俺のお願いがよほど意外だったのか。目をパチパチと瞬かせている。そうだろう。俺は以前七森さんにきっぱりと絵は描いていないと伝えたのだから。


「いいの?秋博くんはもう絵を描いていないって聞いたから、絵を描くことが嫌いになっちゃったのかと思っていたけど……」


 やっぱり、七森さんは俺のことを思って遠慮していたらしい。この文化祭の準備がはじまって以来。俺だけが何もしないで、ただ見守ることに徹していた。


 去年までの俺であれば、そんなことすらも気にしていなかったのだろうけれど。今の俺は七森さんがここまで頑張って来たのだから、なんとしても成功させたい。そんなふうに考えることができるようにはなっていた。


「いや、俺は絵を描くことが嫌いになったわけじゃないよ。絵を描くことに意味を見いだせなくなっただけだよ。今は必要だと思ったから描く」


 七森さんのために頑張るとは言えないが、俺にとっての絵を描く理由というのは、昔から七森さんのためだ。もしも、あのポスターをクラスの人に見せてしまうとどのような反応をされてしまうかがわからない。


 俺がデザインを描いてしまえば、文句を言ってくる人もいるかも知れないが、俺が描いたものだから仕方がないという言葉で全てを片付けることができる。


「秋博君が描いてくれるなら、私も嬉しいな!久しぶりに秋博君の描いた絵を見ることができるのは楽しみ!」


 七森さんのその言葉は俺に任せてくれるということだろう。久しぶりに絵を描くのは緊張するけれど、せっかくの文化祭だ。盛り上げられるように頑張ってみよう。


「あまり、期待しないで待っていて、どうにか明日までには、準備してくるから」

「うん。よろしくね!」


 こうして、俺の文化祭準備期間が開始された。

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