第29話

 家に着いた頃にはもう18時を回っていて、一端自分の部屋に向かい荷物をベッドに放り投げて、着替えを済ませる。


 その後はリビングの机に置いてある手紙に手を付けていた。それは母さんが残していったものだ。いつも通り帰りが遅くなるから自分で晩ご飯を済ませておいてほしいと書いてあり、千円札が一緒に置かれている。


 俺に物心が付いたときから父親の存在はなく。母さんが一人で俺のことを育ててくれている。高校入学を境にして、母さんは帰ってくる時間も遅くなり、このように一人で夜ご飯を済ませる機会も増えた。


 そのこともあり一通りに家事はこなせるようになり、料理も人並みには出来るようになっていた。


「これから買い出しに行くのは面倒だな……」


 冷蔵庫の中身を確認しながら一人呟く。


 普段なら16時には家に帰ってきているから、この手紙を見てから買い出しに向かうのだが、今日は珍しく帰ってくるのが遅くなってしまったから、出かける気にはなれない。


「今日は適当でいいや」


 冷蔵庫の中身と相談をしても、メニューが思いつかなかったので、パタリと扉を閉めて、食器棚の下に隠してあるカップ麺を取り出す。


 母さんから口うるさく自分で料理を作るように言われている。カップ麺などを食べていると後から、小言を言われてしまうが、今日のところは許して貰おう。


 お湯を注いだカップ麺と麦茶をリビングの机の上に準備して、三分間待っている間にテレビの電源を付けて適当に流しておく。


 画面の向こうではバラエティー番組が映されている。今流行のお笑い芸人やアイドルグループがクイズに解答している番組のようだ。簡単な問題に苦戦して頭を抱える人達の様子を見ていても俺には何が面白いのかが分からない。


 ただ、テレビをつけていなければ、全く音がない空間になってしまう。静かな空間は嫌いではない。だが、無音というのはどうにも得意になれない。学校でも、一人で静かにしているが、教室内の喧噪が俺にとって丁度良い音になってくれている。


 つまらない番組でも無いよりはましなので、なんとなく流しながら、俺はカップ麺に手を付ける。


 カップ麺というのは中々に悪魔的な存在だ。お湯を入れるだけである程度美味しいものが出来上がるなんて、料理をする気が無くなってしまう。


 空腹を満たすのには少しだけ少ない量であったが、文句も言ってられないのでこれで我慢するとしよう。外はもう真っ暗になっている。明日はどうせ学校も休みだし、少し勉強してから、読書でもしようか。


 食べ終わった食事の後片付けを済ませて、テレビの電源を消し、リビングの照明を落とす。


 自分の部屋に入ると先ず真っ先に勉強机に向かう。整理整頓された机の上に数学の参考書とノートを広げて椅子に座る。


 勉強が好きなわけではないのにいつの間にか習慣になっていて、こうして毎日数学の問題とにらめっこをしている。テスト期間は終わったが俺の日課は終わることはない。


 深冬先生のテストは難しい問題もあるが、しっかりと普段の授業を聞いていれば解ける問題だ。今回は一門だけ例外があったけれど。


 だから、普段はもっと難しい参考書を使って勉強をしている。これは深冬先生のテストで好成績を残すための戦略でもある。


「七森さんも簡単って言っていたよな」


 時間の流れも忘れて問題にかじりついていた俺は何かを思い出したかのように呟いていた。無意識のうちに。


『滅茶苦茶簡単でした」


 あの時の声が脳裏を過り、耳を擽るような吐息が、一瞬近寄った温もりが滅茶苦茶鮮明に蘇る。その瞬間に何かが決壊したかのように恥ずかしさが込み上げてきた。


 自分が悪かったが、こうなってしまってはさすがに勉強は手に付かない。諦めて手に持っていたペンを放り投げて、机に突っ伏す。


「何してるんだろう……。俺」


 自分への問いかけだった。ここのところ自分が言葉に出している感情や思っていたこととは、全く違う行動を取っている。


 七森さんとの再会を喜べなかった自分。七森さんとの約束を守れなかった自分。それらは何一つ解決してはいないのに、また別の感情が込み上げてくる。いや、蘇ってくる。


 そうして、物思いに浸っていると無音だった部屋にピコン!という音が響いた。ビックリして突っ伏していた体を正す。何の音かと思って音の正体を探すために、辺りを見渡す。


 音の正体はスマートフォンだった。通知が来たことによって画面が点灯していて気が付くことが出来た。普段あまり通知が来たりしないから、この音がスマートフォンの通知音だということに気が付くことが出来なかった。


 ゲームの通知音は消しているし、母さんもよっぽどのことがない限りメッセージを送ってくることはない。置き手紙が家に置いてあるくないなのだから、気が付けなくても仕方が無いと思う。


 だとしたら、俺のスマートフォンは誰からの通知だ?時計を確認すると針はもう21時を回っていた。


 そんな時間に光希は連絡を入れてこない。大抵は休日の早朝に気持ちよく寝ている時間をスナイプして用件を入れてくる。それによって起こされて、その連絡は大抵『一時間後に駅前集合な』だ。


 俺じゃなかったらこんな連絡なんて無視されるだろう。俺だって一時間で支度をするのは結構大変だ。それでも、いつもなんだかんだ言って世話を掛けているから、今のところ光希の呼び出しを蹴ったことはない。呼ばれるのは大抵ボランティア活動の数あわせだ。参加して損したこともない。


 さて、ここまで考えたところで一つ思い出したことがある。俺は今日七森さんの家の届け物をしたついでに一枚のメモを渡して、そこに俺のメッセージアプリのIDを記入しておいたのだ。


 それを思い出したてなんだか急に緊張感が高まってきて、メッセージアプリを起動しながら、ベッドに仰向けに横たわっていた。


『榊原君。今日はわざわざ私の家までプリントを届けてくれてありがとう!』


 そこに映し出されたのは七森さんからのメッセージだった。それに続くようにして、最近流行っている犬のマスコットが頭を下げているスタンプも付いて来ている。


 既読の表示が付いているから俺も何か返さなければと、急いで言葉を探すが焦りすぎて何を言ったら良いか分からなくなっていた。スタンプも碌に使ったことがないから、デフォルトで入っているものしかなくて使うことが出来ない。


「まさか、榊原君がメッセージアプリのIDを書き置きして言ってくれているとは思わなくてビックリした!それに気がついた勢いでメッセージを送ったの。返すのが面倒だったら無視してもいいからね」


 俺が言葉を探している間には次のメッセージが届く。ずっとトーク画面を開いているから、もちろん、それにも既読の文字が付く。


「ああ!やばい、このままじゃ既読スルーしてることになるじゃん!ていうか、七森さんの入力スピードが速すぎて追いつけない……。女子高生はみんなこんなに早いのか?」


 頭を抱えて、俺はもだえ苦しんでいた。『無視してもいいから』の一分で七森さんに気を使わせていることは明らかだ。早く何か返事を考えなければ。


『直接教える勇気は無かったんだ。なんか卑怯っぽいことをして、ごめん。』


 よく考えたら直接渡すのが恥ずかしいからって書き置きして親に預けるなんて、情けないことをしていたと思い謝ることから始まった。


『普通は親に書き置きを手渡すことの方が恥ずかしいと思うよ?榊原君はやっぱり面白いことを言うね。私は榊原君の連絡先を知ることが出来て良かったと思っているよ。今日学校休んでちょっと得をした気分』


 俺が必死でメッセージを送った矢先、既読が付いて、あっという間に返信が帰ってきていた。どんだけ、入力スピード速いんだよ……。


 俺もペースを乱さないように、返事を考えては入力する。


『学校休んで得する思いをするのはダメだろ……。授業は無慈悲にも進んでいたよ」

『私は多少授業に遅れても問題は無いよ?』


 七森さんからの返信を見て完全に俺は論破された気分になっていた。全教科九五点以上をマークした七森さんの学力を俺が心配すること自体が間違いだ。


『それに、数学は榊原君が教えてくれるみたいだから、余裕だよ』

『まあ、俺が教える必要がある問題があるか分からないが、数学だけなら任せてくれ』


 俺が七森さんに残した置き手紙の文面は……。


【数学の問題で知りたいことがあれば聞いて】


 この一文の後にメッセージアプリのIDを記入しておいた。なんか少し偉そうな文面になってしまっていた気がしたが、あの時は勢いで行動していたから、何にも感じることはなかった。


 もしかしたら、必要ないものだったかと心配にもなったが、連絡をくれたということは悪くは無い行動だったようだ。


 先程から、七森さんからの返信が無い。コミュニケーションに難を抱えている俺にとってこの空白の時間は何を意味しているのかを理解出来ない。


 もうアプリを閉じて違うことをしているのだろうか。それとも、違う人と連絡を取り合っているのだろうか。俺には同時に二つのことをこなせるような器用さは持ち合わせてはいない。だから、ベッドに仰向けになり、ひたすらにスマートフォンの画面を凝視していた。


 5分ぐらいただ画面を眺めて過ごしていた俺はメッセージアプリを閉じようとした。丁度その時。


『榊原君。数学以外の話題も送って良いの?』


 五分間何があったのかは分からないけれど、俺はこの質問に今日一番のスピードで返信をする。


『もちろん!』


 俺は数学を教えたくて連絡先を教えたわけではない。何気ない雑談とかも出来たら嬉しいな。なんて思いながら連絡先を教えた。


 七森さんが今の質問をしてきたということは、俺が書いた一文は『数学のこと以外はNG』と受け取られようとしていたのだろうか。だとしたら、凄く危険な状況だった。確認してくれてありがとう七森さん。


 俺のメッセージに今度は数秒もしないうちに返信が返ってくる。


「本当に!?良かった~」


 また犬のマスコットが安堵の息を零しているようなスタンプが一緒に送られてくる。「このキャラクターが好きなのだろうか」と思いながら自分から話題を振ってみることにした。


『そういえば、病院に行ったって聞いたけれど体調の方は大丈夫?』

『うん。大丈夫だよ。お父さんが心配性でね……。ちゃんと、来週からは登校するから』


 まぁ、こんな時間にメッセージのやりとりをすることが出来ているのだから、それほど問題が無いことは分かっていた。ただ、自分から振る話題が思いつかなかったから聞いてみただけだったが、やはり本人から大丈夫と言われるとスッと不安だった気持ちが抜けていった気がした。


『そっか、良かったよ』


 そこで俺のターンは終了して、ここからずっと七森さんのターンになっていった。


『晩ご飯は何を食べたの?』『勉強以外には何をしているの?』『苦手な教科はあるの?』


 怒濤の質問攻めを食らったものの、特段答えづらいものはなく。難なく解答していく。面と向かって話をするよりもすんなりとコミュニケーションが取れるのかもしれない。そんなメッセージアプリの新しい可能性に気が付いて、少し調子に乗ろうとしていたとき、俺の手はピタリと時間が止まったかのように動きを止めた。


 それはメッセージアプリに送られてきた質問が理由だった。


『榊原君は好きな人とかいるの?』


 目を擦って再び画面を見つめても、やはり見間違いではない。


 こういうことを話したことなんて殆ど無い。光希には結構いじられてはいるけれど、あいつはまた別の話だ。


 普通こういう場合はどういう風に答えるのが正解なのか教えてほしい。


 俺はきっと今も七森さんのことが好きなんだと思う。その気持ちはもう理解することが出来たのだけど、それを表に出せるかと言われれば話は別だ。


 恥ずかしい気持ちはもちろんだが、俺はまだ七森さんとの約束を守れなかったことにけじめを付けることが出来ていないからだ。


 カチカチと時計が時を刻む音が俺の部屋を支配する。このまま、眠ってしまえば、明日になったらこの質問は消えて無くなっているなんてこともあるかも、そんな逃げの一手を考えている自分がいることに大きくため息が吐き出される。


「ダサいな。俺……」


 いつだって気持ちを伝えるのは難しい。相手に嫌な思いをさせるのではないだろうか。関係がこじれてしまうのではないだろうか。そんな思いが俺の頭の中ではずっと渦巻いていた。


 だから、この質問にもストレートに返事をすることは出来ない。慣れない手つきでスマートフォンの画面に指を走らせる。


『いるんだと思う……』


 そんな曖昧な文を送って、俺はメッセージアプリを閉じてスマートフォンを手放した。時計を確認するともう0時を迎えようとしている。七森さんの質問攻めは思った以上に長時間に渡っているものだったみたいだ。


 明日は休みとは言っても、やるべきことはそれなりにある。これ以上起きていても、勉強には手が付きそうにもないので、寝る支度をすることにした。



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