第19話


 久々に外の空気を吸う。冷たい空気が体に取り込まれて、芯から冷えていく感覚に襲われる。それでも、家に戻るわけにはいかない。今日からはまた学校に行かなければいけないのだから。白い息を吐き出しながら、トボトボと一人で通学路を進む。


 教室の喧噪はいつにも増して激しいものだった。年末年始をどう過ごしただとか、お年玉を幾ら貰っただとか、自慢大会みたいな雰囲気が漂っていて、僕としては、居心地が悪すぎて帰りたい気持ちに駆られる。


 当たり前のように過ごしているクラスメイト達はみんな夏花ちゃんのことは忘れてしまっているのでは無いかと思ってしまう。


 僕はぽっかりと空いてしまっている一人分のスペースに目をやる。こんな僕にも声を掛けてくれて、上手くもない絵を見て笑顔を向けてくれる。僕にとって特別な存在が、確かにこの前までそこにいた。僕は改めて痛感する。居なくなってしまった人が僕の生活にどれだけ彩りを与えてくれていたのか。


 クラスメイトと話をすることがない僕はジッと机に座って授業の開始を待っていた。勉強の成果を出してやると意気込んでいたが、正直どうでも良くなってきた。別に僕が難しい問題を華麗に答えたところで、誰も見てくれる人は居ないのだから。


 机の上に腕を組んでそこに頭を落とす。こうしていると一人の空間に潜ることが出来るから、何もないときはこうして目を閉じていることが多い。別に居眠りをしているわけではないし、僕に話し掛けてくる人なんて居ないから問題は無い。


「……。君」


 遠くから声が聞こえた。どうせ僕の隣の子が話しているんだろうと思っていたから、顔を上げることはしなかった。


「秋博君!」


 ゆさゆさと体を揺らされる感覚で僕はやっと自分が呼ばれていることを理解した。ムクリと体を起こすと机の前に立つ一人の男子生徒の姿がある。


「やっと起きてくれた。ごめんね、寝ているところを起こしちゃって」


 小さく頭を下げているのは、クラス委員長の『大原光希』君だ。僕でも名前を覚えているのは、彼はこのクラスではかなり有名だからだ。見た目も格好良くて、運動も得意な彼は女子から熱い視線を送られている。それでも、傲慢な態度を見せたりしないで、みんながやりたがらない役割も率先して請け負い、クラス委員長として役割を果たしてくれている。そんな、スーパーヒーローみたいな人だから、名前ぐらいは僕だって覚えている。


「こちらこそ、気が付かなくてごめんね。何かあったかな?」


 クラス委員長である彼が僕のところに来るということは、何か大切なことを忘れているのだろうか?宿題の提出は後で良いはずだし、心当たりはなかった。


「あのね、秋博君が冬休み最終日にお休みしたでしょ。その日にクラス全員で夏花さんと記念写真を撮ったんだ。秋博君は彼女と仲が良かったのに、一緒に写真を撮ることが出来なかったけど、これ、最後に夏花さんがみんなと撮った写真。あげる」


 一枚の写真を僕に手渡してくれる。自分が写っていない写真を貰っても、どう扱って良いのか分からなくて少し困ってしまう。


 写真をチラッと見ると、夏花ちゃんを中心に僕以外のクラスメイトが集まっている写真だった。クラスメイト達はこれまでの冷たい扱いのことなんて、忘れてしまったかのように浮かれていた。変なポーズを取っている男子生徒や目を半分閉じてしまっている女子生徒。みんな楽しそうに最後の一時をこうやって切り取ったようだ。


 でも、この写真の中心人物の笑顔は上手く笑えているようには見えなかった。必死に取り作った笑顔と申し訳程度に作られた右手のピースサイン。その場にいる人達は気が付くことは無かっただろう。夏花ちゃんの左手は何かを堪えるかのように強く握られていることに。


「この写真に写っている夏花さんは上手く笑えていないよね……」


 小さく落ち込んだ声でこの写真の核心を突いてくる大原君に僕は少し驚かされる。僕しか気が付いていないと思っていたのだけれど、別にそんなこともなかったみたいだ。


「そうだね。夏花ちゃんは緊張しているときは、握り拳を作る癖があるらしいよ」


 ハッと驚いた顔をする大原君。一度顔を上げていたけど、すぐに少し下を向いてしまう。どうやら机の上の写真を見ているようだ。


 そして、大原君の頬に一筋の涙が伝っていく。


 僕は内心バクバクだった。まさか涙を流すなんて思ってもいなかったからだ。人とのコミュニケーションが得意ではない僕にとってこの状況は最悪といって間違いない。どうしようか悩んでいると大原君は自ら涙を袖で拭って、話を始めた。


「僕が……。もっと、しっかりしていれば、夏花さんは転校することもなかったはずなのに……」


 嗚咽混じりの言葉に僕は耳を疑った。夏花ちゃんの転校の理由は親の仕事の都合だと聞いている。そうであるならば、大原君が涙を流して後悔する必要なんて存在しないはずだ。


『僕の知らないだけか?』『今更、本当のことを聞いたところで仕方が無いじゃないか』


 いろいろな気持ちが僕の中に混在していた。それでも勝手に口が動いていた。


「なにがあったの?」


 僕は夏花ちゃん以外のクラスメイトのことなんても知らない。だから、夏花ちゃんに何があったのかを僕は知らない。いつだって笑顔で『大丈夫だよ』と言っていたから、そして僕はそれを疑うこともなく受け入れていたのだから……。


「そっか……。秋博君にも相談はしていなかったんだね……」


 別に大原君の言葉にとげがあったわけではない。それなのに、僕の心に深い傷が広がる。僕はやっぱり何も知らないまま、笑顔を向けてくれる夏花ちゃんと過ごしていた。僕が知らないところでどれだけ傷ついているのかも考えないで……。


「夏花さんね。クラス内でいじめに遭っていたみたいなんだ。僕も怪しい感じはしていたよ。クラスメイトが小さいミスを笑い出した辺りから、夏花さんに様子を聞いても『何でも無い』の一点張り。先生に相談しても、取り合ってもらえなくてさ。結局何もしてあげられなかった。おまけに、夏花さんがいじめを受けていた理由を知ったのは、彼女が居なくなった後。本当にクラス委員長失格だ……」


 大原君は悔しそうに言葉を絞り出していた。本当に彼は凄い人だと思う。同じ年だとは思えないくらいしっかりとしている。そんな彼に何か励ましの声を掛けてあげるのが普通なんだと思う。だけど、僕の精神状態はかなり揺らいでいた。怒りなのか。悔しさなのか。そんな負の感情だけが体中を巡る。


 なぜ、あんなに頑張っていた夏花ちゃんがいじめられなきゃいけない?誰がそんなことをしていたのか?黒い気持ちは無限に湧き出てくる。そして、僕はこの時、初めて人のことを恨んだ。


「大原君。夏花ちゃんが何故いじめられていたのか教えてください」


 僕は頭を下げていた。人に真剣に頭を下げたのも、これが初めてのことかもしれない。他人とあまり関わらないし、悪いことをすることもなかったからかな。


「夏花さんがね、夏休み前の放課後に喧嘩をしたみたいなんだ。僕も彼女が喧嘩をするなんて最初は信じられなかったけれど、先生にしつこく聞きまくったら、認めてくれた」

「何があったの?」


 僕は食い気味に喧嘩の原因を問い詰める。


「なんか、夏花さんが持っていた絵にいちゃもんを付けた女子生徒が居たんだって、その言葉に夏花さんは激高してその女子生徒が泣き出すほどの罵声を浴びせたみたい。結局、周りに居た生徒が先生を呼びに行って、先生が来たところで、強制的に終わらせられたみたい。目撃者に聞いたら『鬼のような剣幕だったけれど、なぜか夏花さんも涙ぐんでいた』って言ってた……」


 一度言葉を句切ってから、大原君は少し声を小さくして話す。


「ここからはあまり大きい声じゃ言えないけれど、罵倒された子がグループの友達にそのことを脚色して話をした。それが伝播した結果。クラスの一定数は夏花さんのことを『悪者』だと認識して、無視をしたり、笑ったりし始めたみたい。きっと、もっと酷いこともしていたと思う。夏花さんの机の上、さっきしっかり確認したら、落書きの跡がいっぱい残っていた。綺麗に消そうとしていたみたいだけれど、きっと、気が付かないうちにいろいろな嫌がらせを受けていたと思う」


 大原君は真剣に話してくれているにも関わらず、僕はその声をあまり聞けていなかった。何があったのかを理解したと同時に全てが自分の責任であることが分かってしまった。夏花ちゃんに僕が絵をあげていなければ、いじめられることはなかったのではないか?僕の絵がもっと上手ければ、馬鹿にされることもなかったはずだ。


「全部……。僕のせいじゃないか……」


 気持ちが溢れる。後悔。悲しみ。怒り。全部が混ざり合い涙が一滴零れる。


「ど、どうしたの?」


 目の前に居た大原君は僕の涙の理由を理解出来ていないため、先程の僕みたいに慌てている。そのことに気が付いて僕は慌てて涙を拭う。クラスメイトは僕たちが交互に涙を流しているなんて気が付く様子もなく。楽しそうに時間を過ごしている。


 大原君には何でも無いことだけを告げる。彼はそれ以上言及してくることなく、自分の席に帰っていった。


 手に持ったままの写真に再び目を落とす。写真の中に映る一生懸命の作り笑顔を見ていると、心に広がる傷口が痛む。チクリと刺すような痛みと共に溢れるのは自分の絵に対する怒りだ。


 誰が見ても顔をしかめる絵をプレゼントした結果。夏花ちゃんはイジメに遭ってしまった。僕の絵を好きだと言ってくれたから、絵を描くことが更に好きになった。でも、それはただの自己満足にすぎなかったのかもしれない。


「ごめんね……。夏花ちゃん」


 写真に写る人に謝ったところで、誰にも届くことはないことは知っている。だけど、言葉に出さないと心を保つことが出来そうになかった。


 そこに込めた想いは、僕の絵の所為で苦しめてしまったことだけではない。夏花ちゃんが応援してくれた夢を諦めることも含まれていた。


 そうして、小学5年生の冬に僕の夢は壊れて弾けた。


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