第15話
どれだけ授業に集中しようとしても上手くいかないまま帰りのホームルームが終了していた。給食もまともに喉を通らなかったから、少し体調も良くない状態だ。
クラスメイト達は放課後の予定を互いに確認しながら教室を出て行く。僕は普段なら一番に教室を出て、すぐに家に帰って絵を描くのだけれど、今日は自分の席から立ち上がれないでいた。
夏花ちゃんの席に目を移すとそこにはもう姿はなかった。
「私。アキ君が来てくれるのを待っているからね」
休み時間のときに言われた言葉が頭を過る。本当に待っているのだろうか。4ヶ月も話しかけてこなかったのに、今日になって突然、話し掛けてくるなんて、何かあるのではないかと思ってしまう。
「それでも、行かないと……」
自分に言い聞かせるように立ち上がり、机の上に置いていたランドセルを背負いあげる。そして、教室を出て、夏花ちゃんが待っている図書館に向かう。
階段を降りていると、多くの生徒とすれ違う。すぐには帰らないで雑談しているグループや放課後に一緒に遊ぶ約束を取り付けている人達がいる。
僕にも上手く話をする力があれば、夏花ちゃんと沢山の思い出を残すことが出来たのではないかと思うとまた、悲しさが込み上げてくる。
僕たちにある思い出は、絵を描いている僕と横で見ている夏花ちゃん。この構図しか存在しない。どこかに遊びに行ったりしたことは一度も無い。
暗い気持ちのまま僕は廊下を歩いた。そして、図書館の扉の前で足をとめる。一度深呼吸をして気持ちを落ち着かせてから、扉に力を込める。
音を立てて、スライド式のドアが開く。
開けた瞬間に感じたのは、本の匂いだ。僕はあんまり本を読むことはないけれど、この柔らかい匂いは好きだから、絵を描くときにここを使用したこともある。
受付にはおばさんが座っていて、なにかの書類をめくって仕事をしているようだ。僕は軽く会釈をしてから奥の方へと足を勧める。
2mぐらいの高さがある本棚が視界いっぱいに並んでいて、その棚を埋め尽くすように本が敷き詰められている。
この図書館を使用する生徒は多く無いようで利用者は今は一人しかいない。読書用に設けられた机の上で本をめくっている夏花ちゃんだ。
「あ、アキ君。来てくれてありがとうね」
パタンと音を立てて本を閉じた夏花ちゃんは僕に椅子に座るように促してくれた。ランドセルを椅子の背もたれに引っかけてから僕は向かい合うように椅子に座る。机の上に置かれているのは夏花ちゃんが読んでいた分厚くて難しそうな本と赤色のランドセルだった。
椅子に座っても僕は特になにも話そうとせず、ただ言葉を待っていた。その間は数秒のことだったけれど、静かな図書室という空間だ。周りの音が存在しないから、時計の秒針が時を刻む音と自分の心臓の音が一層うるさく聞こえた。
「アキ君。引っ越しすることを黙っていてごめんね。実は夏休みに入る前から決まっていたことだったの。お父さんのお仕事の関係で少し遠いところに行くんだ」
静寂は切り裂かれて、夏花ちゃんの落ち着いた優しい声が響く。
「遠いところ?」
「そう。飛行機に乗っていくようなところだよ」
別に転校したって会えなくなるわけじゃない。会いに行くことだって勇気を振り絞れば出来るだろう。僕は心の隅に希望があった。今の言葉でその希望すらもなくなって、今日何度目か分からない悲しい気持ちが込み上げてくる。
「そんな悲しい顔しないで……。私も寂しいけれど、一生の別れってことでも無いでしょう?大きくなったら、ばったり再会するかもしれないしさ。まぁ、アキ君がその時まで私を覚えているか分からないけれどね」
「僕は……。僕は絶対に忘れない!」
図書館にいるということも忘れて、大きな声で僕は声を上げた。余程大きい声だったのか。僕の反応が意外だったのか。夏花ちゃんは目を見開いて驚いていた。
「ありがとう。アキ君!」
驚いた後に微笑みながら、突然ランドセルの中をごそごそと物色し始めた。僕は何か忘れ物でもしたのだろうと思いながらただその光景を見ている。
「アキ君は画家を目指してるんだよね。絵を描くことが好きなんだよね」
僕の将来の夢は確かに今も変わっていない。絵を描くことだって大好きだ。もう一つ絵を描く理由を与えてくれたから、僕は無我夢中に絵を描くことが出来る。
「うん。僕は絵を描くことが好きだよ。多分これからも描き続けると思う」
夏花ちゃんの確認するかのような質問に答えるとランドセルの中から、何かを取りだした。
「はい。これ、アキ君にプレゼントだよ」
そう言いながら手渡された物は24色入りの色鉛筆だ。缶ケースに入っている新品の色鉛筆に僕の目は輝いてしまう。今まで、使っていた色鉛筆は元々家にあった物で丁度ケースもボロボロになってきていたから新しい物を買おうか考えているところだった。
「これを僕に?貰っても良いの」
友達から何かを貰うなんて初めてだったから、正しい反応の仕方が分からなかった。小学生の僕たちにとって色鉛筆を買うお小遣いは非常に貴重なのに、僕なんかが貰ってしまっても良いのだろうか?そんな不安が湧き上がってくる。
「もちろん!そのために持って来たんだから、貰ってくれないと私が困るよ」
夏花ちゃんの後ろにある窓から差し込む夕日によって、微笑んでいる姿がとても眩しく感じた。
「ありがとう。今度僕もなにかプレゼントを持ってくるね」
何をあげたら夏花ちゃんが喜んでくれるかなんて見当も付かないけれど、何かお返しをあげたいという気持ちは強くあったから言葉にしていた。
「本当に!?それじゃあ、私ね。欲しいものがあるんだけど良いかな?」
手を叩くような仕草をしながら喜んでいる夏花ちゃん。僕の少ないお小遣いでも買うことが出来る物なら何だって買うつもりだ。
「もちろん、僕でも買えそうなものであれば、何でも言って」
僕の言葉に口角を上げて首を振った。
「私がお願いしたいのはね。アキ君にしか用意出来ない物だよ」
「僕にしかプレゼント出来ない物?」
全く検討も付かなかった僕は首を傾げて聞き返していた。
「私はアキ君が描いた絵がほしいな!何の絵でも良い。今アキ君が描きたいと思う絵を描いてほしい」
そのお願いに僕の心臓はドクッと強く脈を打った。勝手に夏花ちゃんは僕の絵が嫌いになってしまったと思っていた。でも、それは違ったらしい。夏花ちゃんはまだ僕の絵を欲してくれている。その事実が僕の心臓を高鳴らせた。
「もちろん!僕は良いけれど……。夏花ちゃんは本当に僕の絵で良いの?」
僕の絵、一枚に色鉛筆が釣り合うとは到底思えなかった。絵を描くことは断るはずもないけれど、本当に僕なんかの絵で良いのか自信が無かった。
僕の言葉に夏花ちゃんは大きく笑った。
「何を言っているのアキ君。私は君の絵だからほしいんだよ?ゴッホやピカソの絵を渡されても私には良さが分からないから困っちゃうよ。だって、私が好きなのはアキ君が描いた絵なんだから」
僕の瞳には勝手に涙が溢れていた。今日一日、何度も溢れそうになっては堪えてきた滴が頬を辿っていく。悲しみによる涙ではない。むしろ、夏花ちゃんが僕の絵をそんなに好きでいてくれたことが嬉しくて涙が零れた。
僕が突然涙を流したものだから目の前に座っている夏花ちゃんを驚かせてしまった。慌てふためくその様子に涙は止まって吹き出してしまう。
「ごめんね、夏花ちゃん。別に悲しくて泣いているわけじゃないよ。いや、悲しくはあるけれど……。夏花ちゃんが僕の絵をそこまで気に入ってくれていることが嬉しくて、涙が出ちゃった」
僕は服の裾でゴシゴシと涙を拭って笑ってみせた。
「良かった……。どうしたら良いか分からなくて焦ったよ。それじゃ、アキ君の絵を楽しみにしているから!」
僕は夏花ちゃんの期待の籠もった声に大きく頷いてから、時計を確認した。
もうすぐ時計は4時30分を指そうとしている。別に僕にはこの後の予定はないから、何時でも困らないのだけれど、どうやら、夏花ちゃんの方は予定が迫っているようだった。
「あ!もうこんな時間だ!家に帰ってお母さんのお手伝いをしないといけないから、そろそろ帰らないと!」
夏花ちゃんはガッと引きずる音を立てて椅子をずらして立ち上がった。机の上に置かれたランドセルを背負って、机の上に置かれた分厚い本を抱えて帰る支度をしている。
「じゃあね!アキ君。また明日!」
そうやって、手を振る姿を僕は目で追いながら小さく手を振って挨拶をする。
話し相手がいなくなった僕も跡を追うように図書館を後にして、家に帰ることにした。
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