第13話
登校してきた夏花ちゃんに僕は早速絵を手渡した。普段ならもっと教室に人が少ない時間に絵を見せたりしていたのだけれど、今日は完成した絵を見せることを優先したくて、夏花ちゃんが教室にやって来たときには体は勝手に動き出していた。僕の様子に要件を悟った夏花ちゃんは僕の机の前に移動してから、じっくりと絵を眺めた。
「アキ君が描いた金魚の絵は可愛いね!私こういう絵が好きなんだ。ありがとう!」
その絵を見ながら微笑む夏花ちゃんの顔を見ていると少し息苦しさを覚えるほどに心臓が高鳴っていた。
その絵を大切そうに抱えた夏花ちゃんは朝の会が始まろうとしていたから、もう一度、僕にお礼を告げて席に戻っていく。その姿を僕は目で追っていた。この絵は僕がプレゼントした最後の絵になる。
夏花ちゃんにお願いされなくても、一人でいろいろなものを描いている。風景であったり、植物であったり、ジャンルは特に決まっていない。だけど、唯一人物の絵は描いたことがない。絵に描けるほどに僕は人間を観察出来ないのが理由だ。いつか描けるようになりたいと思いながらも、秋空の下の河川敷で腰を下ろして、流れる水流の音を聞きながら目に映る景色を自分のキャンパスに落とし込んでいく。
いつの間にか10月になっていた。外の風は夕方になると少し肌寒く感じる季節だ。今はまだ昼過ぎだから、特に寒さを感じることもない。だから、無我夢中に色鉛筆を走らせる。
金魚の絵をプレゼントして以来。夏花ちゃんが僕に絵をお願いしてくることがプツリと無くなってしまった。金魚の絵が気に入らなかったのか、僕の絵を好きでは無くなってしまったのではないか。考えれば考えるだけ浮かび上がる暗い気持ち。それから逃げ出すように僕は自分のキャンパスに集中する。何度間違えたっていい。何度描き直してもいい。だけど、気持ちがこもっていない線は僕のキャンパスには必要ない。何百回でも描き直す。
「これもだめだ……」
一瞬強く吹いた風が僕の長い前髪を揺らす。絵を描くときだけはこの長い前髪が少しうっとうしく感じてしまう。
小さくため息を吐いて、スケッチブックのページをめくりあげる。集中しようにも、集中出来ない日々が続いていた。
その理由は明らかだった。夏花ちゃんの様子が最近少しおかしいことだ。
僕に絵のリクエストをしてくれなくなったことは寂しくはあるけれど、いくらでも理由を予想することが出来る。
でも、夏花ちゃんがクラス内で少し浮き始めている理由は僕には全く理解出来ない。
夏休みが開けた辺りからだ。夏花ちゃんが何かを発表しているときに、真剣に聞かないクラスメイトが現れだした。その時は偶然だろうと思っていたのだけれど、そのクラスメイトは別の日もまた別の日も、嫌がらせのように繰り返した。それだけなら、僕も似たようなことをされているが、それは、時間が経つにつれて悪化しているように感じている。
授業の時にケアレスミスをすることは、頭の良い夏花ちゃんにだって存在する。夏休み前であれば、クラスメイトはみんな『珍しいね』と言って、少し心配する程度だったのだが、今は夏花ちゃんが小さな間違いをするたびにクラスメイトの数名は嘲笑する。
たった数ヶ月のうちに夏花ちゃんはクラスの人気者というのには、難しいポジションになっていた。僕は絵のこと以外では、あまり話したことがなかったけれど、勇気を振り絞って問いかけた。
『何か困っていることでもあるの?』
前の日から沢山考えて、悩んで、藻掻いた結果に選び出した言葉だ。もっと優しい気の利いた言葉を掛けるべきだったのだろうか。でも、それを見つけ出せる力は僕には無かった。
僕の言葉に夏花ちゃんは以前からクラスメイト達に振りまいていた笑顔で答えを告げる。
『大丈夫だよ!全然何にも無いから』
その時の笑顔は僕の絵を見たときの表情とは全く異なるもので、見ているとチクリと胸を刺す痛みが走ったように感じた。
言葉を告げているとき夏花ちゃんは手を握りしめて、力を込めていた。それは緊張の合図。恐いとき、辛いとき、頑張らなくてはいけないとき、夏花ちゃんはいつもそうして自分を鼓舞してきたそうだ。
僕はこれでも小学二年生の頃から頻度は多くは無いが話をしたりして過ごしてきた。夏花ちゃんが自分で言っていたことだから、握る手の合図は間違いではないはずなのだが、大丈夫の一点張り。僕にはどうすることが出来なかった。
「どうしたんだろう?夏花ちゃん……」
河川敷で座りながらぽつりと呟くが、もちろん答えが降ってくるはずもなく。進まない色鉛筆を片づけて、家に帰ることにした。――
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