第八話

 入念にストレッチはした。だけど海水を吹きかける事で、痛みを抑える代わりに、足の動きは鈍くなっているように感じると、妃夜ちゃんは漏らしていた。

 僕にはもう祈る事しか出来ない。

 妃夜ちゃんの出番になる前に、妃夜ちゃんの走りが見やすい場所に移動をしようと思い、荷物を纏めて立ちあがった。

 場内は疎らではあるけれど、それなりの数の人がいた。押し分けて進み、気がつくとトラックを一望出来る最前列まで来ていた。

 選手の紹介。スターターの掛け声。鳴り響く銃声。駈け出して行く選手達。湧き立つ歓声。肌に迫る緊張。会場を包む熱気。押し寄せて来る荒波のような想い。

 そして、遂に妃夜ちゃんの姿が見えた。

 次々と名前を呼ばれていく選手達。妃夜ちゃんは、何度も自身の頬を張っていた。気合いを入れる時、気持ちを切り替える時。小さい頃から何度も見た妃夜ちゃんの姿、それが、今は僕の手の届かない場所で行われている。

 足はてらてらと輝き、太陽の光を反射する。妃夜ちゃんの足に関する、不快な雑音が周囲から零れ、広がっていく。願わくばこのノイズが、彼女の耳に届きませんように。

 スターターの合図と共に、選手が位置に着く。

 数瞬の静寂。

 直後、鳴り響く銃声と共に選手達が駆けていく。

 一瞬の内に遠ざかっていく選手の群れに、妃夜ちゃんの身体が混ざる。

 100メートル。

 足を上げ、頬を紅潮させて、凛とした顔で走るその姿は、僕が何度も感動したあの姿のままだった。

 150メートル。

 ぞっとする程の真剣さが、こちらにまで伝わって来る。呑みこんだ息が、吐き出せない。妃夜ちゃんの姿から、目が離せない。

 200メートル

 つと、世界のスピードが緩んで行く。

『手を思いっきり振って、地面を思いっきり蹴って、まるで自分が、今こうして走る為に生れて来たんじゃないかって、走ってる最中なのに、無我夢中で必死で、苦しくて仕方ないはずなのに、頭はどんどん冴えてくるのね。その時に、まるで水の中にいるみたいに、自分も世界も、全部がゆっくり動いて見えるの。一緒に走ってる相手も、自分の事を応援してくれる人も、地面も、空気も、全部に包まれてるような感覚になるのね』

 あの時の妃夜ちゃんの言葉が耳に蘇って来る。

 ねぇ妃夜ちゃん。妃夜ちゃんも今、水の中を走ってるの?

 太陽の光に負けず、その鱗に覆われた人魚のような足で、水の中を走ってるの?

 ねぇ妃夜ちゃん。

 僕も今、妃夜ちゃんと同じ場所にいるよ? 

 水の中にいるよ。

 吹き出る汗と一緒に、零れ出る涙を拭う。自分が何故こんなにも胸を打たれるのかは分からない。だけど、涙の理由なんて、ただ感動したと言う一点だけで充分だろう。

 250メートル。

 その時、見つめていた妃夜ちゃんの顔が一瞬にして苦痛に歪んだ。痛みがぶり返したのか、とも思ったが、次の瞬間、妃夜ちゃんの足は硬直するように停止してしまった。水の中を駆けていた人魚は、空気に足を絡め取られ、まるで溺れるように宙を舞った。支えを失った上半身が、そのままトラックの上を転がる。

 刹那の内に陸に打ちあげられた魚のように、地面をのたうつ妃夜ちゃんの姿が、否応無しに目に飛び込んで来る。

「妃夜ちゃああああああああん!!」

 気づけば僕は、叫んでいた。

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