第六話

「樹、どうしたの? ぼーっとして」

 夕食の途中、ふと止まった箸を母さんに見咎められる。

「ああ、うん、ごめん。ちょっと、考え事……」

「妃夜ちゃんの事?」

「……うん」

「そっか……。大会って、明後日だったわよね。練習の方はどうなの?」

「うん……、いや、僕には、よく分かんなくて……」

「そう……、でも、妃夜ちゃん、頑張ってるのよね?」

「頑張ってるよ。凄く、凄く頑張ってる……」

 ここ一週間、妃夜ちゃんの練習に付き添い、妃夜ちゃんの走りをずっと傍で見て来た。妃夜ちゃんの走る事に対する姿勢は真剣そのもので、練習の最中、僕は何度も感動した。だけど、この一週間僕の右手と共にあったストップウォッチはそうでは無かった。

 ――私は、走るのは好きだけど、才能がある訳じゃないから、そんなに早い訳じゃないんだよね。それでも、始めた頃から比べたら、随分タイムは縮んだんだよ?

 そう笑顔を見せようとする妃夜ちゃんの表情は、日を跨ぐ毎に、曇る事が多くなった。僕が話しかけると笑みは浮かべる。だけど、時折見せる悔しそうな表情から、彼女の心根は見てとれた。

 それともう一つ、妃夜ちゃんの顔を曇らせる要因があった。

 痛みだ。

 ここ2日程、妃夜ちゃんの足は急激に痛み出し、練習中の休憩時間が多くなった。トレンカをめくり足を見せて貰うと、既に足首から上は、妃夜ちゃんの皮膚の部分を見つける方が難しいような状態だった。

 ――ちっくしょぉ……。

 密かに零れる妃夜ちゃんの悔しさを掬い取ってやれない自分が情けなかった。

「ねぇ樹。あんたさ、どうして妃夜ちゃんの練習に付き合おうって思ったの?」

「え? どうしてって?」

「あんたの性格だったら、どっちかって言ったら、大会なんかより、すぐに病院に入った方がいいって、言いそうなもんだと思ったから」

「どうして分かるの?」

「それは、樹のお母さんだからね」

「そう言うもんかな」

「それが、反対しない上に、手伝おうだなんて言い出したから、お母さん驚いちゃった」

「うん、本当は、反対したかったんだ。でも、妃夜ちゃんがね、あんまり真剣だったから、反対出来なくて……。反対出来ないんなら、協力しようって、思ったんだ」

 本当は、もっと色々な思いがあったはずだったのだけど、言葉に纏めてしまうと、つまりは、これだけの事なのだろう。

「そうなんだ。これは、妃夜ちゃんのお母さんに聞いたんだけどね、妃夜ちゃん、樹が一緒に練習してくれて、すごい喜んでるんだって。そうよね、お母さんも、もし樹が妃夜ちゃんと同じような感じになったら、やっぱりすぐに病院に入って欲しいって思う気がする。でも、妃夜ちゃんの立場で考えたら、やっぱりそれは寂しい事よね。だからね、お母さんは樹が、妃夜ちゃんの為に頑張ってるのは、すっごく素敵な事だと思う。だから、あんたがそんな風にしょげてちゃ駄目なんじゃない? 妃夜ちゃんの助けに、なってあげるんでしょ?」

「妃夜ちゃんの、助けに……」

 僕に出来る事は何だろうと考える。

 きっと、タイムを縮める手助けは、僕には出来ないだろう。だけど……、何も出来ないのは、やっぱり悔し過ぎる。何でもいい、妃夜ちゃんの為に動きたい、そう思ったら、居ても立っても居られなくなった。

「母さん、今日、父さんって遅くなる?」

「今日は遅いって言ってたけど、どうしたの?」

「そっか。じゃあ、僕、ちょっと出て来る」

「樹」

 立ち上がろうとする僕を、母さんが呼び止める。

「御飯だけは、ちゃんと食べて行きなさい」

「ああ、うん」

 席に着き直し、置いた箸に再び手を伸ばす。

「何か思いついたの?」

「うん、駄目かもしれないけど、なんにもしないよりは……」

「そう」

「ご馳走様でした」

 大急ぎで平らげ、携帯と財布を引っ掴んで外へ飛び出した。

「気を付けてね! なんかあったら連絡するのよ!」

 母さんの声を背中に浴びて、僕は自転車に跨った。携帯で地図を開き、ナビに従い坂を下って行く。

 道を照らす淡い月明かりが、優しく微笑んでくれているように感じられた。

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