第五話
「400メートル走ってね、単純に100メートル走の4倍って訳じゃないのよね。私も難しい事はよく分かんないんだけどさ、400メートルって、人間が無酸素で走れる限界の距離らしいのね?」
「無酸素? え? 走ってる時、息止めてるの?」
「うん、いっちゃんも100メートル走の時、無我夢中で走ってる時は、無意識で息を止めてる筈だよ。でも、100メートルだったら、苦しいって思う前にゴールするから、あー苦しかった、で終わるのね。でも、400はね、走ってる最中も苦しいの。まるで自分が、呼吸の仕方を忘れちゃったんじゃないかって思うくらい。身体の感覚はふわふわしてくるし、目が霞んじゃう時だってある。苦しいし辛いし、いい事なんか一っつも無いように思う。それでもね、身体が走り方を覚えてるから、ゴールに向かって全力で進んで行くの。手を思いっきり振って、地面を思いっきり蹴って、まるで自分が、今こうして走る為に生れて来たんじゃないかって、走ってる最中なのに、無我夢中で必死で、苦しくて仕方ないはずなのに、頭はどんどん冴えてくるのね。その時に、まるで水の中にいるみたいに、自分も世界も、全部がゆっくり動いて見えるの。一緒に走ってる相手も、自分の事を応援してくれる人も、地面も、空気も、全部に包まれてるような感覚になるのね」
柵から腰を上げた妃夜ちゃんが、こっちに戻って来る。僕のすぐ近くまで来ると、僕の両肩に手を置き、得意気に笑って見せる。
「その瞬間がね、最っ高に気持ちいいんだ~」
「その為なら、嫌がらせも我慢出来るって言うの?」
「ん~、そう言う事じゃなくってさぁ……。そもそもあれは嫌がらせって程じゃ無いじゃない? 実際、みんなが大事な時期なのは分かるし、私がいる事で迷惑かけちゃうかもしれないのも事実だし、変わった病気に罹ったらそりゃ気になるだろうけど、直で聞くのはなんだなぁって気持ちも分からなくも無いし、自分が同じような立場になった時に、全く同じ事しないかって言ったら、分かんないしねぇ」
妃夜ちゃんは僕から手を離し、考え込むようにして再び僕の隣に座った。
「まぁ、あれよ。つまんない事に頭使ってても仕方ないのよ。考え事とか悩み事って、めっちゃめちゃ酸素使うんだよ? 海に深ーく潜る潜水のプロって、潜ってる最中は極力酸素使わないように、何も考えないようにしてるんだって」
隣でうんうんと一人で頷く妃夜ちゃんに、僕は頷きを合わせる事が出来ない。
僕の考え過ぎなのだろうか?
それとも、妃夜ちゃんの楽観が過ぎるのだろうか?
「でもね。いっちゃんがそうやって、私の代わりに怒ってくれてるからさ、私は気楽に笑ってられるのかもしれない。一人だったら、きっとぐっちぐち考えて、無駄に酸素使ってたと思うわ」
「貴重な酸素を?」
「そう、貴重な酸素を」
妃夜ちゃんの手が伸びて、僕の頭を優しく撫でる。
「ありがとね」
「ううん、僕こそ、少しでも役に立てて良かったよ。手伝うなんて偉そうな事言ったけど、何にも出来ないんじゃないかって思ってたから」
「いやいや、これからいっちゃんには大事な仕事がありますよ?」
「何?」
「いやぁ、上り坂ってのはさ、膝に負担が少ないんだけど、実の所、逆はあまりよろしく無いのよねぇ」
「……乗せろと?」
「車掌さん、鈍行でお願いします。ブレーキいっぱい握りしめて、ゆっくりゆっくりでお願いします」
「歌の歌詞じゃないんだから」
言うが早いか、妃夜ちゃんは僕よりも先に、自転車の後ろ側に跨った。先程まで汗を拭いていたタオルを、座る部分に敷くと言う準備の良さまで発揮する。
二人乗りで坂を下る間、落ちないように僕の腰に掴まる妃夜ちゃんの手は、想像していたよりもずっと、細く華奢だった。
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