第四話

「うっはぁー! やっぱここからの眺めは最高よね~」

 首のタオルで汗を拭いながら、妃夜ちゃんは久しぶりに訪れた高台から下界を見下ろしていた。吹き上げる谷風が彼女の髪をはためかせ、同時に気怠い暑気を吹き飛ばしていく。

 僕はと言えば、備え付けのベンチに腰を掛けたまま、相棒である自転車を見つめていた。彼もまた、疲労困憊の様子で佇んでいる。

 自転車での付き添いだと甘く見ていた。平地での妃夜ちゃんの走る速度にも驚いたのに、その上高台までの上り坂までランニングコースに入っているとは思ってもみなかった。いや、登る前に妃夜ちゃんは、自転車だから坂道は止めておこうかと言ってくれていたのだ。格好悪い所は見せたくないと意地を張った自分がいけないのだ。結果として、情けない姿を見せる事になってしまったが、どれだけ強がりを言おうとしても、膝の微笑みは隠しようが無かった。

「いっちゃんごめんね。大丈夫?」

「へぇきへぇき……」

 零れ出る声が弱々しい。なのに汗だけは先程から勢いよく零れ続けてるものだから、尚の事情けない。

「無理しなくていいのに。ほら、これ飲んで」

 妃夜ちゃんから、半分程減ったスポーツドリンクのペットボトルを渡される。と同時に、頭にタオルを乗せられ、ごしごしと汗を拭かれる。

「風邪ひかないでね。まだまだ練習に付き合って貰うんだから」

 タオル越しに、柔らかい声が飛んでくる。

 タオルからは、柔らかい香りが飛んでくる。

 途端に気恥ずかしくなった僕は、その場に動けなくなってしまった。気を紛らわす為にドリンクを口に含むと、甘みと水分がするりと体内に沁み込んできて、自分が渇いている事実に触れる。

「うし、こーんなもんかな?」

 タオルが外され、視界が開ける。暴力的なまでの太陽の光が、妃夜ちゃんの影を生み出し僕を包む。逆光の中の妃夜ちゃんは、ふふ、と軽く笑い、僕の隣に腰を下ろした。

「なーんか、楽しいね」

 僕に向けて笑う妃夜ちゃんは本当に楽しそうで、でもその笑顔を見た時、僕は先程の陸上部員達の姿がフラッシュバックしてしまった。

「なんか言いたそうな顔してるね」

 見透かされる。

「妃夜ちゃんは、平気なの? こんな風に、まるで追い出されるみたいな事になってさ……」

「ん~、まあ全然平気、無問題って訳じゃないけど、しょうがないじゃない。私に出来る範囲内で、頑張るしかないのよ」

「そんな事言ったってさ! あいつら、ずるいよ! 妃夜ちゃんの事、邪魔者って言うか、汚いものを見るみたいに……。病気になったのは、妃夜ちゃんのせいじゃないのに……」

「いっちゃん、ちょっとこっち向いてごらん」

「何?」

 呼ばれて妃夜ちゃんの方を向くと、鼻をむぎゅっと摘まれてしまった。

「考え過ぎ。いっちゃんが私の事を大事に思ってくれるのはとっても嬉しいよ。でもね、それで誰かの考えを誤解したり、穿った見方をして嫌ったりするのは、ちょっと違うんじゃないかな?」

 鼻から手が離される。

 妃夜ちゃんの目は存外に真剣で、僕は二の句が継げなくなってしまった。

「ねぇ、いっちゃん。いっちゃんは、体育の授業とかで、100メートル走ってした事あるよね?」

「うん、あるけど」

「じゃあ、400メートル走は?」

「……無い」

「そっか。一回やってみたらいいよ。世界が変わるよ」

 そこで妃夜ちゃんは立ち上がった。大きく伸びをした後に、再び街を眺望できる位置まで歩いて行く。敷設された木の柵に手を掛けたかと思うと、くるりと振り向き、柵に腰を置いた。

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