第三話
ある日突然、太ももから足首にかけて、鱗に近い何かが生えると言う奇病は、数年前にヨーロッパで発見されて以来、世界各地で時折散見するようになった。今の所、原因は不明である。
症状が進行すると足全体が魚のようになってしまう事と、10代の女性にしか発症例が無い事から、通称『マーメイド病』と呼ばれるようになる。
発症後に死亡したケースは無いが、足を鱗が覆う度に痛みに襲われ、症状が進行するにつれ、間接が曲がらなくなり、歩行は困難になって行く。
明確な治療法や特効薬は確立されてはいないが、去年の12月、フランスの研究チームが海水に含まれる何らかの成分が、マーメイド病の治療に効果がある事を学会で発表。現在も尚、研究が続いている。
日本でも3件の症例はあるものの、まだまだ謎の多い病気である……。
妃夜ちゃんの発症以来何度も開いたネット上の百科事典をそっと閉じ、僕は誰にも気づかれないように細く溜息を吐いた。
放課後の校庭は、部活動に励む生徒達の声で賑わっている。まだ日は高く、7月の熱気が肌に纏わりついて鬱陶しい。
妃夜ちゃんはグラウンドの隅で、念入りに準備運動をしていた。足を覆っている鱗は、それを更に覆う黒いタイツの下に隠されている。
――タイツじゃないよ。スポーツトレンカって言うの。可愛いでしょ? 練習中はこれを履くつもり。別に見せるのが嫌な訳じゃないけど、面倒事は避けたいしね。あー、早く走りたいなぁ。
得意気に、そして楽しそうに笑う昨日の妃夜ちゃんの姿が思い起こされる。
そして次の日、つまり今日、妃夜ちゃんは久しぶりに登校をした。マーメイド病発症から約1カ月、そして、病院から家に戻ってからは5日が経過していた。つまり大会まで、もう残り10日を切っているのだ。
ストレッチに勤しむ妃夜ちゃんの横顔は真剣そのものだった。特に足回りを慎重に、重点的に伸ばしているのは、やはり少なからず違和感を感じるからなのだろうか?
「いっちゃんごめんね、お待たせ」
たっぷり1時間程、足や身体を伸ばした妃夜ちゃんが、こちらへ戻って来た。
「気にしないで。それより、どう? 足?」
「ん~、な~んかいつもよりは伸ばし辛い感じはするかな。でも、これが病気のせいなのか、暫く休んでたからこうなってんのかは分かんないからね~」
「痛みとかは?」
「あ、それは全然無い。大丈夫よ。それより、いっちゃん本当にいいの? 大会までの練習付き合ってくれるって、別に無理しなくてもいいんだよ?」
「無理なんかしてないよ。手伝いたいんだ」
「それならいいけど……」
「寧ろ、邪魔じゃない?」
「全然! いっちゃんが練習付き合ってくれるなんて、お姉ちゃん百人力ですよ!」
そう朗らかに笑って見せる妃夜ちゃんの肩越しに、こちらを遠巻きに見つめる陸上部員の姿が見えた。まるで腫れものを避けるかのような態度。だが興味はあるのだろう、同情と憐憫、そして多分の好奇が含まれた目線が、僕には何だか腹立たしかった。
妃夜ちゃんの走りをずっと見て来た筈の陸上部の顧問は、妃夜ちゃんの足を見るなり、懇願するように言ったのだと言う。大会には出させてやるが、出来れば陸上部の練習には参加しないで欲しい。大会の近い、ただでさえデリケートで大事な時期、他の部員に、余計な気遣いをさせたくないのだ、と。
――まぁ、ダメージ無いかって言われたら無いわけじゃないけど、先生の気持ちも、皆の気持ちもわかるしね。こんな病気になっちゃった私が悪いのもあるんだろうし、最後の大会に出させてもらえるだけ、有り難いと思わなくっちゃ、ね。
妃夜ちゃんはそう微笑んで見せたけど、その頬は、赤く腫れていた。
気合いを入れる時、気持ちを切り替える時、妃夜ちゃんは自分の頬を強く張る癖があるのだ。その癖は、涙を我慢する時もしかり。
「そんじゃ、今日はとりあえず、ロードワークと洒落込みましょう。まずは短距離長距離とか考えないで、この足で走る事に慣れないとね。いっちゃん、今日も自転車乗って来てるわよね? 一緒に並走してもらっていいかな?」
「うん、分かった」
「そんじゃ行こっか」
先程の陸上部員達が、校庭から出ていく妃夜ちゃんを見ながら、何やらひそひそと話しているのが目に付いた。こちらを窺うようなその様子が気にはなったけれど、今は妃夜ちゃんの練習の手助けをする事だけを考えようと思い直し、彼女らに一瞥だけをくれて、僕は正門へと向かった妃夜ちゃんの背中を追いかけた。
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