第二話

 家に帰ると、母さんがキッチンで夕飯の支度をしていた。

「ただいま」

「あら、おかえり樹。妃夜ちゃん、どうだった?」

「意外と元気だったよ。割と、いつも通りだった」

「あらそう。無理してるんじゃなきゃいいんだけどね」

「無理してる感じは無かったけど、無理は言ってるみたい。妃夜ちゃんね、再来週の大会、出る気らしくて、それで無理言って戻って来たんだって」

 料理を作っていた母さんの手が止まる。

「ちょっと、それ大丈夫なの?」

「分かんない」

「ん~、でも、そうよねぇ。妃夜ちゃんもずっと頑張って来たんだし、そりゃあ出たいわよねぇ」

「そりゃあ、そうだろうけど……」

 妃夜ちゃんの足に触れて、その足から生えている鱗に改めて触れて、僕は思ってしまったのだ。大会なんかよりも、一刻も早く大きな病院で検査を受けて、治療に専念した方がいいのでは無いかと。だけど僕は、それをありのまま妃夜ちゃんに伝えられる勇気も強さも、持ち合わせていなかった。

 あの覚悟に満ちた瞳に、一体どんな言葉を返せたと言うのだろう。僕は悔しいくらいに、子供で、幼くて、そんな自分が情けなかった。

「ちょっと、出て来る……」

「ちょっと樹! もう遅いし、もうすぐご飯よ!」

 背中に掛る母さんの声に、すぐ戻るから、と返し、僕は再び家を飛び出して、自転車に跨った。

 ペダルに足を掛け、漕ぎ出す。サドルには腰を下ろさず、坂道を立ち漕ぎのまま昇って行く。今夜は月は出ていない。星達は雲に隠され、周囲の家々の明かりも標にはなってくれない。自力発電のライトが道を照らす以外に頼れる物は何も無く、自分が走っている地面すらもが闇に溶けていく。迷いを振り払うように、汗も拭わずに坂を駆け上がると、程無くして景色は開け、見慣れた街の眺望が目に飛び込んで来た。

 坂の多いこの街の住人に、自転車を好む人は少ない。僕も引っ越して来たのでは無く、この街で生まれ育ったのならば、きっと自転車とは縁の無い生活を送っていたことだろう。

 ――樹君って言うんだ。じゃあ、いっちゃんだね。私は妃夜って言うのよ。私の方がちょっとお姉ちゃんだけど、妃夜ちゃんって呼んでくれていいからね?

 街を一望出来るこの高台で、僕は初めて妃夜ちゃんと出会った。母親同士が親友だった為に引き合わされた僕らは、その日から、幼馴染になった。もうずっとずっと前の話だ。

 ――自転車格好いいね。私は自転車に乗れないから、すごいなって思うわ。その代わり、走るのはめっちゃ早いんだよ? 今度競争しようか?

 見知らぬ土地で不安だった僕の事を、妃夜ちゃんはいつも気に掛けてくれた。小学校の頃は一緒に登校をしたし、休みの日にはよく母親を連れ立ってお互いの家に遊びに行った。

 ――いっちゃん、困った事があったら私に言うんだよ。ちゃんと言うんだよ。私はお姉ちゃんなんだから、頼っていいんだからね?

 沢山沢山助けて貰って、沢山沢山遊んで貰って、沢山沢山、貰ってばかりだった……。

 僕は妃夜ちゃんに、一体何を返せたのだろう? 子供でいる事に甘えてばかりで、何も出来なかった気がする。気にしなくていいんだよと笑う妃夜ちゃんの為に、僕は何が出来るだろう。

 僕に何が出来るのかは、今はまだ分からない。だけど、今は妃夜ちゃんの為に出来る事をしてあげたい、そう思った。

 どうせ反対なんて出来ないんだ。だったら後二週間、何も考えず、妃夜ちゃんの為だけに動こう。妃夜ちゃんの笑顔が曇らない事だけを考えよう。その為に何をすべきかは、妃夜ちゃんの望む事を、妃夜ちゃんと一緒に考えればいい。

 流れ出る汗を拭うように、顔全体を両手でごしごしと擦った。

 言葉に詰まった僕の顔を困ったように見つめる、夕闇に包まれた妃夜ちゃんの顔が思い浮かばれる。

 二週間後、その光景が後悔に変わっていない事を、強く願った。

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