第4話 恋されたければ絶対にこちらから話しかけてはいけません

 

 人間の心は多重的だ。

 いっけん優しそうにみえる言動がじつは相手を傷つけるための攻撃にすぎない場合もあるし、その逆もある。頭で考えて良かれと思った言動とは矛盾する言動をしてしまうこともある。

 そんな人間の心を支配しているのは、本能だ。人間は本人が思っている以上に、心も体も本能に支配されている。

 だから、わたしはウルフの心身の奥にある本能を刺激して恋に落とし、その恋心を萎えさせないように行動しようと思っていた。追いかけられると逃げ出したくなるし、逃げるものを追いかけたくなる。そういう男の本能をうまく利用しなくてはならないのだ。とくに男性ホルモンがムンムンとにじみ出ているような男の中の男の肉体をもつウルフには、この傾向は強くあてはまると思った。

 そういえば、昔なにかの書物の中でこういう実験結果をみたことがある。

 男児の目の前におもちゃを置き、同じおもちゃを2メートル先にも置く。男児は目の前のおもちゃを無視して、2メートル先にあるおもちゃに飛びついたそうだ。少し努力すれば手に入りそうな位置にあるものは、謎めいてみえるから興味をひくし、努力を誘う。

 自分で追いかけて、自分で手に入れたものは、美化されるから、大事にする。そういうものなんだ。


 わたしは一時間以上スマホを手にしたままベッドの上で呆けていたが、おもむろに身を起こして、手帳のページをめくった。そして、12月の目標と題して新しいルールを記入した。

『ウルフに、こちらから話しかけてはいけません』

『こちらから電話をしてはいけません』

『こちらから近づいてはいけません』

『こちらから誘ってはいけません』

『もし電話がかかってきたら、2分で切る。盛り上がったところで切る』

 そして、これらのセンテンスを目に焼き付けてから、ベッドにあおむけになって目を閉じた。

 するとすぐに心地よい眠りが襲ってきた。



「今日、国際私法のクラス出た?」

 大学のガーデンテラス席でホットココアを飲んでいると、サチが現れて隣に座った。長い栗色の髪からシャネルのヘア・ミスとの香りが漂う。

「出たよ」

「ノート貸してくれない?寝坊しちゃってさ……」

「寝坊?またケイ君と遊んでたんでしょ?」

「えへへ。まあそうなんだけど、あさイチの授業なんて、遊んでなくてもわたしには無理。起きられない。今度帝国ホテルのパンケーキ奢るから、お願い、リリィちゃん」

 わたしはバッグの中から国際私法の板書を写したルーズリーフの束を取り出してサチに渡した。

「奢ってくれなくてもいいよ。お金に困ってないし。パンケーキ食べに行こ」

「ありがとうー!リリィって私法系はけっこう真面目に勉強してるよね」

「うん。将来のためにね」

 真面目に話したことはないが、祖父から商社を受け継いだ父は、わたしを将来の社長にするつもりだと思う。一人っ子のわたしは幼いころから将来を期待されている空気を感じながら育ち、その期待に応えるために一流と言われる大学に入った。合格発表の日に、これで安心して会社を任せられるなと父が言ったことを思い出した。その隣で母は「いいお相手を見つけなさいね」と言った。母は女が社会に出ることをあまりよく思っていない。それよりも、有能な男性をみつけて結婚して家庭にはいるのが女の幸せよ、と言うのが口癖だ。

「将来ってリリィ、会社継ぐの?すごいね」

「ううん、継ぐ気はないけど、いちおうコンプライアンス的なことは知っといたほうがいいでしょ? 会社が潰れるにしても、潰すにしても、訴えられたりとか、いろいろありそうじゃん」

「まあね…。あ!」

 目を細めて遠くをみるサチの視線の先を辿ると、中庭の向こうに長身の男がみえた。太陽に照らされて艶々と輝く健康そうな黒髪に広い肩幅。堂々と優雅に音もなく歩くさまが遠くのここからもはっきりと見える。隣には髪をポニーテールにした女性が、寄り添うように歩きながらウルフの顔をのぞきこんでいる。

「ウルフ、また新しい女連れてる。あー!あれは二年生のチア・リーダーだわ。ずっとがんばってるって聞いてたけど、ついにやったのかな」

「ふうん」

 胸の奥がちくりと痛んだ。

 あの夜の電話以来、ウルフからは連絡がなかった。

 当然だ。わたしが自分のことを話しすぎて、さらけ出しすぎて、せっかく芽生え始めた彼の恋の芽をつぶしてしまったのだから。

「さっさと誘ったら?あんな女よりもリリィのほうがお似合いよ、きっと」

「そんなことないって」

「気づいてないの?リリィ、モテるんだから」

 モテることは気づいている。わたしの母は美形の元ファッションモデルで、父の母は元女優だったから、遺伝子上もわたしが美形なのは当然だ。だから、モテて当然だとわたしも思っている。

 そして、好きでもない男性から言い寄られることにうんざりしている。大学に入って三年の間に挨拶を交わしたほとんどの男性からお茶や食事に誘われた。

 好きでもない男性に対しては好意が一切表に出ないため、男たちはわたしに対して狩猟本能の中の追いかける法則、つまり本能に従って動いているだけなのだ。こちらがアクションを起こさないと勝手に育っていく追いかけっこ。それを恋と呼ぶのが一般的だけど、愛でもなんでもない。ただのひとりよがりの欲求、それが恋の正体だ。

「リリィから誘わなくっちゃ、ほかの女の取られちゃうわよ」

「もう取られてるし」

「いやいや、まだ取られてないと思うよー。あの子、ずっとウルフのことが好きで、パンとかお弁当とかをウルフのために作って持ってるって聞いたことあるの。ウルフはパンは貰って食べてたくせに、付き合うつもりはないって何度も言ってたとか」

「それはそれは、けなげな子なのね。胃袋を掴めば男を落とせると思ってる女が多いのよね」

「そうじゃないの?」

「だって、胃袋を掴むのは料理でしょ? 男は料理が好きなだけで、彼女そのものを好きになったわけじゃないのよ。サチは最初にケイ君に料理作ったりしたの?」

「してない……。今も、ケイ君のほうが上手だし」

「でしょ? でも、サチはケイ君に愛されてるでしょ?」

 サチが頬を赤らめた。サチとケイ君は高校の入学式でひとめぼれし合い、卒業式に告白し合って付き合い始めたという完璧なラブストーリを地で行っているラブラブカップルで、すでに婚約もしている仲だ。はたから見ても愛し合っている。

 中庭の向こうにあるベンチにウルフが腰かけると、彼女が隣に座って紙袋を手渡しているのが見えた。手作りのパンかなにかだろう。ウルフが一口でそれを食べ終え、空になった紙袋を彼女に押し付けて立ち上がり、それから振り返ってこちらを一瞬見た。ううん、気のせいだ。遠いあちらから見るとこっちは影になっているから、ウルフにはこちらが見えるはずがない。わたしは邪念を振り払うように首をふった。

「サチ、パンケーキ、来週末に行こうよ。なんか最近、むしゃくしゃしているから、やけ食いしちゃうかも。あ、じゃあ銀座のラデュレもはしごしない?」

「それ、いいね!リリィ最近痩せたみたいだし、もっと太らなくっちゃね。ラデュレのティーセットも食べようよ」


 それからサチとファッションや映画の話をして気を紛らわせたけど、むしゃくしゃしたきもちは消えなかった。シャトルエレベータをあえて避けて、わたしは長い階段をのぼった。今日最後の授業の国際宇宙法は建物の最上階で行われる。もともと貧血症のうえに、最近食欲がなくて栄養が不足していたのか、目まいがして立ち止まると、目の前に大きな影が立ちはだかったから、驚いて「きゃ」と声を出した。

 見上げると、ポケットに手をつっこんだウルフがわたしを見下ろしていた。

 小窓から差し込むオレンジ色の西日がウルフの頬骨を際立たせていて、まるで彫刻のように美しくみえた。

「なんだウルフか…びっくりしたわ」

「大丈夫か? 顔、青いけど」

 ついさっき、チアガールのお手製パンを食べたウルフの口からは、チアガールの甘いキャンディみたいな匂いがしそうだった。

 女をとっかえひっかえ使い捨てする女の敵ウルフの視線が生まれつきなのか時々優し気にみえてしまうのが、すごく腹立たしかった。むしゃくしゃする。貧血の目まいによる苛立ちと相まって、むしゃくしゃが大きくなった。

「大丈夫よ。どいてくれる? 授業に遅れそうなの。宇宙法、人気だから席取れないと困るし」

「ああ」

 わたしの剣幕に少し驚いたようにウルフはそう言って脇にずれた。その隙をわたしは通り抜ける。

「あ、そうだ」

 わたしは立ち止まって振り返り、バッグの中からD&Gの財布を取り出して、そこから一万円を取り出した。 

 そして、ウルフの目の前にそれを突き出した。

「はい、これ」

「なんだよ」

「電話代、あの日の。そのくらいかかったでしょ」

 ウルフは眉をしかめた。まるで汚いものを見るような目だ。

「急いでるから、さっさと取ってよ」

 微動だにしないウルフの目の前で、わたしはひらひらと万札をゆすった。

「ほら、もってよ」それを彼の手に押し付けた。そして、急いで階段をのぼった。

 背中にウルフの刺すような視線を感じたけれど、わたしは振り向かなかった。



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