第一章 全身義体 Ⅰ
読んでいるのは『超訳ニーチェの言いたかったこと』――哲学書である。
西日が図書室の中を、オレンジ色に染める。色が白く、どこか
「暗くない?」
鈴の音のような声がかかる。
図書室のカウンターから、優しそうな女の子がこちらを見ていた。彼女は愁思郎のクラスメイトで、図書委員の
幼さを残す顔立ちに反比例するかのように、身体は成熟を迎えつつある。
そこに何とも言えない華があった。
「あんまり気にならなかったけど……そうだね。少し暗いかな」
愁思郎が窓の外を見やると、日がだいぶ傾いていた。
気付けば時間はもう少しで五時になるというところ。部活動のない生徒は、下校の時間だ。
「私も本が好きだけど、上月くんも相当だね」
「そうかな」
「だってほぼ毎日、放課後は図書室でしょ」
「それを言うなら、佐久間さんも同じだろ」
図書委員の彼女は、本の貸出を任されているが、それも当番制のはずだ。毎日図書室の受付カウンターに座っているのは、本人が希望したからだと聞いている。
「私はほら、人と話すのは得意じゃないし」
「そうなの?」
愁思郎には意外だった。
「俺とはこうして話しているじゃないか」
「本好きって共通点があるからだよ。そういうのがないと、上手く話せなくてさ。流行りのアイドルとか芸能人とか、あんまり興味なくて」
興味があるフリをして、話を合わせるのも苦手なの――美穂はそう言った。
「それは俺も同じかな」
「だと思った」
言ってから美穂は、アッと何か気付いたようなリアクションをする。
「ごめんなさい。そういう意味じゃ……」
「ああ。気にしてない……ていうかその通りだから。佐久間さんも気にしないで」
愁思郎は友達の多いタイプではない。人に積極的に関わる
「でもそうか。だからなのかな」
「何が?」
「私、上月くんとは話しやすいから。もしかして、似ているとこあるのかなって」
「どうだろうね」
愁思郎も美穂とは話しやすいと感じている。でもそれは美穂と似ているところがあるからではないと思う。
愁思郎から見て、美穂はだいぶ上等な人間に見えていた。
──自分など及びもつかないような、まっとうな人間に。
と、その時、勢い良く図書室の入り口が開いた。
「愁思郎いる?」
入ってきたのは、派手な女子生徒だった。
茶髪にピアス。そして短く折ったスカート。そこから伸びる太ももが
彼女は
クラスメイトであり――愁思郎の同僚。周囲には言っていないが同居人でもある。
「何かあったの?」
「何かあったの――じゃあないわよ!」
愁思郎に歩み寄る梓。
何やら怒っているらしいことは、鈍い愁思郎でも分かった。
「携帯、すぐに出なさいよ!」
「え?」
「何度かけても出ないんだから」
慌ててポケットを探る愁思郎。取り出した携帯の画面を見ると、着信履歴が何件も入っている。
相手は全部梓だ。
マナーモードにしていたから、着信の際のヴァイブレーションに気づかなかったのだ。
「ごめん」
「まったく本を読んでると、何にも頭に入らなくなるんだから」
「そう?」
「一人の世界って感じ」
そんなつもりはない――と言っても説得力がないか。
考えが顔に出たのか、梓はジトっとした目で愁思郎を
「アンタは休み時間の超うるさい教室の中でも、まったく気にせず本を読んでいるでしょうが」
「…………」
その通りである。グウの音も出ない。
「それで何があったんだ?」
話題を変える愁思郎。
梓はチラリと美穂を見て、
「涼子から呼び出し――仕事よ」
と後半のセリフを小さく言った。その一言で愁思郎は全てを察する。
「……分かった」
椅子から立ち上がると、美穂に顔を向ける。
「ちょっと保護者から呼び出し受けちゃった」
「そうなんだ。急ぎ?」
「うん」
「それなら読んでた本は、私が本棚に戻しておくよ。あっ、それとも借りてく?」
「ありがと。それじゃこの本は返しておいて」
美穂に本を手渡すと、梓が待ってましたとばかりに愁思郎の首根っこを掴んだ。グイグイと引っ張って、図書室の出入口へ向かう。
「ちょっ⁉」
「やることは終わったんでしょ。さっさと行くわよ」
愁思郎の抗議に梓は耳を貸さず、引きずるようにして図書室を出て行く。
後ろ向きに歩きながら、愁思郎は美穂に向けて手を振った。
「佐久間さん、また明日――ていうか梓、いい加減離してくれないか。襟が伸びる」
「いいからキリキリは歩きなさい!」
「……うん、また明日」
騒々しいやり取りに呆気にとられたまま、美穂は二人を見送った。
(前から気になってたけど、上月くんと南条さんってどういう関係なんだろ?)
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