エピローグ「日は昇り、そして沈む」

0-1

七月十七日土曜日 午前十一時二十分



 昇っては、沈み、


 沈んでは、昇る。


 幾千幾億とも繰り返されるその営みは、ほんの小さな瞬間の積み重ねによって成り立つ。その一瞬は一人の少年にとっては教室中を飛び跳ねる時間となり、一人の少女には何千億年の旅路へいざな道標みちしるべとなる。一方で、その一瞬は、ある少年にとってはあくびをかいている間に終わってしまうほど簡素なものであった。


 倉田誠一はかつて森島元紀という少年が座っていた三階の窓際の後ろの席で大あくびをかいた。退屈な終業式が終わり、もう夏休みは目の前だというのに、担任の平川先生の話が終わる様子はない。


 誠一は窓の外を眺めてみる。そこには校庭と、奥にはギラギラと真夏の太陽を反射する海が広がっていた。何で親父はこんな田舎島に住もうなんて思ったんやろう。これやから、文学人ちゅう職業は嫌いなんや。

 誠一は父の仕事の都合、もとい、父の勝手な振る舞いで、中学に入るタイミングでオウサカからこの島に無理やり連れてこられていた。おかげで、最初は友達すらおらず、唯一、双子の弟、みのるだけが喋り相手だった。


 まあ、それもこの三年で随分変わったんやけどな。


 チャイムが鳴り、首相演説くらい終わりの見えなかった平川先生の話にも終わりが来た。総務が起立礼の号令をかけ、クラスはようやく夏休みに突入する。大声を出す者、キャッキャッウフウフ騒ぐ者、黙って教室を後にする者と、生徒はそれぞれ自分に見合った行動をする。


「誠一くん、今度の日曜日空いてる? みんなで海に行こうと思ってんだけど」


 誠一にクラスの中心にいる廣川英治が尋ねてきた。「おお、ええで」と誠一は応じて詳細の日程を訊こうとした時、教室の扉がバンと大きく開かれて一人の小柄な男の子が入ってきた。彼を見て誠一は大きなため息をつく。

 ランドセルを背負わせたら小学生に間違われてしまいそうなくらい背丈の低いこの男子こそが、誠一の二卵性双子の弟、穰なのだ。彼はその性格の特殊さからか、クラスでは少々浮いた存在になっていた。どんな性格かって? それは見てのお楽しみ。


「にいちゃん、にいちゃん、緊急事態や」


 穣は誠一に近づきながら言った。


「なんや、なんや。どないしたん」

「おとんが風呂場でぎっくり腰やってもうて、動けんらしいんよ」

「ま、マジか。あのクソ親父」

「とにかく、俺一人やとなんも出来ひんから、にいちゃんも一緒に来てくれへんか」


 おう、分かった、と誠一は荷物をまとめて立つと、英治に詳しい予定は携帯に連絡してくれと謝り、帰路についた。


「それで、親父の方は大丈夫なんか」


 教室を出て、北階段を降りながら誠一が尋ねると、穣はとても真っ直ぐな瞳で誠一のことを見つめた。その瞬間、まさか、と誠一の背中に冷や汗が流れる。


「にいちゃん、すまん。あれ、嘘やねん」


 なに平気で嘘こいてんねん、と誠一は穰の頭を思いっきしはたいた。穣は苦笑いを浮かべながら、叩かれたところを撫でる。いや、笑って済む話やないで。せっかくクラスのみんなと友好を深められるチャンスやったのに、それを尽く潰しおって。まるで意地の悪い新玉線の車掌みたいやないか。


「『えー、新玉線新オウサカ行き。間も無くドアが閉まります』

『あっ、待ってください。乗りまーす』

 プシュー

『はい、残念でしたー』って、ちゃうからな!」


 と、誠一は得意の車掌の物真似をする。それを穣はニヤニヤしながら眺める。これがこの兄弟の日常であった。


「いや、にいちゃんが一緒に帰れなさそうだから、救ってあげたんよ」

「救ってあげたって、お前はワシのおかんか! おかん今、オウサカに単身赴任中やからって、息子の友達関係壊してまで一緒に帰ろ言うおかんがどこにおるんねん」

「ええやないの。な、それよりにいちゃん。わし、面白い話を仕入れたねん。聞きたいやろ? 聞きたいよな。よし、しょうがないから話してやろう」

「なんで自分で振っといて自分で話し出しとるんねん、こいつは」


 誠一は困った笑みをこぼしながら、穰の話に耳を傾けた。


「この学校にはな、ワシらが入学するずーっと前からある噂があるんやって。その名も『津江中学校の七不思議』。どうも、これはただの都市伝説や怪奇現象と違って、本当に存在するらしいんよ」

「そんなこと、あり得へんやろ。幽霊なんてテレビやネットに上がってるやつ、全部偽物やってたけしが言うとったで」

「確かにな。ああいうのはヤラセやとワシも思う。けど、ここのは本当にあるらしいんや。まず一つ目は理科室。この学校の理科室、薬品が新しくなるスピードが早いやろ。それは理科室の骸骨や人体模型が夜な夜な実験をしてるからなんやって」

「誰が、そんなひねりの利かせた噂をでっちあげたんねん」

「そして次は校門前にある二宮金次郎像。あれが夜になると動き出して、図書室で本を読んでるらしいんや」

「ぜんっぜん、怖ないで。なんや、本を読んでる動く金次郎像って。なんで動けるのに、静止したまんまなんや。そんなん、『妖怪時計』の方がまだ怖いわ」


「にいちゃん、にいちゃん。ここまではほんの前哨戦や。怖いんはここから。なんとな、夜になると美術室にある、あのエッチィ絵が動き出すらしいんや」

「そんなん、どこが怖いねん」

「まだまだやで、体育館では夜な夜な音楽フェスティバルが開かれてるらしいんや。そして……」

「穰、穰、ちょっと落ち着こうか」


 玄関まで来た誠一は穰の話を手を彼の前に出すことで遮った。夏休みに突入したばかりの玄関はとても騒がしく、声を通すだけでもやっとだ。


「お前、ワシのことを小学生かなんかやと勘違いしとらんか?」

「いんや、しとらんで。なあ、にいちゃん。信じてくれや。これは、先輩・後輩、そして先生からも得た情報なんやで」

「んじゃあ、そのソース全部言ってみ」


 強気の彼に誠一もムッとなりながら、靴箱を開けて上履きをしまう。あっ、今日は終業式やから、上履きは持って帰るんやった。


「理科室の噂は理科のシンゾーから、図書室の噂は去年退職した司書のマッチーから、そして美術室の噂は友人のちーちゃんから」

「お前、友人なんておったんか」

「おるわ、ボケ! ワシを舐めんなよ。そして、体育館の噂をヤブさんからや。ほな、どうだ! 全部言ってやったぞ」


 誠一は半年前に買ったスニーカーの紐を解かずに足を入れようと四苦八苦していた。半年前にピッタシのサイズで買ったはずなのに、もう入らなくなっている。彼は隣で小学生の頃から履き続けているボロボロのスニーカーを何の抵抗もなしに履く穣を見て、少し羨ましく思った。


「全部言ったからって、なんもあらへんで。まあ、情報源がちゃんとあるんやったら、続きを聞いてやろうか」

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