5-11

 は少女を一瞥して続けた。


『それはね、この世にはあなた以外にも殺人を犯している人がたくさんいるからよ』


 そう言ってクミ子さんは場所を移した。そこは荒廃した大地。しかし、かつてはニューヤークという世界一の都市があった。そんなメトロポリタンも今では全て灰未満の存在と化していて、かつての華やかさは文字通り微塵も残っていない。


『この世界で一年間にどれくらい殺人事件が起きてるか知ってるかしら。四十七万三千三百二十九件起きてるらしいわ。もちろん、これが正しい情報とは限らないし、発表していない国や地域もあれば、まだ公にされていない殺人もある。けど、確実に毎年五十万近くの人が他人によって殺されているの。加えて貧困やハラスメントによる衰弱死や自殺を含めればその数は何倍にも膨れ上がるわ。


 いい、綾子? 確かにあなたが人を殺しても三秒しか人類の未来は変わらなかった。けど逆に言えば、あなた自身の手で人類の未来が変わるのよ。

 もし、これが何万人、何億人やったらどうなるかしら。一年はたったの三千百五十三万六〇〇〇秒。人類みんなが他人を苦しめず、尊ぶ気持ちを持っていれば、人類の未来は何年も、そして未来の人類も同じことを繰り返せれば永劫の時を、進むことができるわ。


 もちろん、これが詭弁だって重々承知している。そんな遠いことに責任を感じる必要はどこにあるんだって。けど、それは違うと思うの。時というのは連続的なもので、決して散逸したものではないわ。

 だから、過去に誰かが起こした事象が今も引き継がれている。

 あなたが人を殺せば、どこかであなたに返ってくる。それは、あなたが人の命の尊さを教えることも然り。巡り巡ってあなたの利益になる』


 人を殺すということは人類の存続に関わる、とクミ子さんは言った。しかし、百三十四回目の時には人を殺すことは一人の命を背負う事だとも言っている。どっちが正しいかなどない。どちらも正しくて、それが結果的に人を殺さない理由になるのであれば良い。彼女は綾子が二度と殺人を犯さないように二つの壁を作ったのだ。

 一つは人の人生を背負い込むということ、もう一つは一人の命は人類の命と等価であるということ。一の理由と全の理由。これだけ隙間のない壁を壊してまで誰が人を殺そうか。


「それを私に分からせるために、ここまでの事をしたの?」


 綾子の問いかけにクミ子さんは上目遣いで彼女を見た。


『ほら私って元は中学一年生のどこにでもいる女の子でしょ。ちょっと周りよりも可愛いいだけの、ただの女の子。だから、あなたを言葉で諫めるのは無理だと感じたの。まあ、果たしてそれが出来る人がこの世にどれだけいるかって話なんだけど、今は置いときましょ。

 だから、無理やりにでも理性に直接訴えかける方法を取ることにしたの。それが、これだったってだけ。決して辛い事ではないわ。こんなの朝飯前よ』


 クミ子さんは崩れた笑顔で綾子の事を見た。彼女は眉間にシワを寄せ、不安そうな表情でを見る。その表情にクミ子さんは『もう大丈夫そうね』と呟くと、パンと手を叩いた。すると、綾子の周囲に光子が浮かび上がり、それとともに彼女の姿も薄れていく。


『あなたたちの昨晩の記憶は、それに至る過程も含めて全て消しておいたわ。朝になれば、あなたはいつものように起きて、何事もなかったかのように仲間と中学校生活最後の日々を過ごすことになるでしょう。

 けど、安心して。あなたがここで体験したことは決してあなたの心から消えたりはしないから。あなたに再び殺人欲求が湧く事はないはずよ』


 綾子は自分が元の世界に戻るのだと確信した。長い、永い時間だった。けれども、これは〇秒という人類が観測することのできない間に起こった事だという事を忘れてはならない。


 ありがとう、と綾子はクミ子さんに礼を言った。彼女は今までに見た事もないくらい満面の笑みを浮かべて、綾子の事を見送った。



 綾子が完全に消えた事を確認すると、クミ子さんは糸が切れたマリオネットよろしく、ばたりと地面に倒れ込んだ。全身からは冷たい汗が絶え間なく吹き出し、小さな肺はゼエハアと激しく空気を出し入れした。


 澁谷綾子に与えた数千億年もの旅路。それは、実際にクミ子さんが世界を操ったのではない。そもそもそんな事は地方の一怪異ができることではないのだ。は、綾子に偽りの世界を見せていた。

 綾子が百五十人もの人を殺し、その生を全て背負って辿った永劫の時をクミ子さんは予め演算し、綾子の頭の中で架空の世界を展開させた。

 綾子自身はその出来事を現実世界の延長として受け取っていたが、現実ではこの果てしなき旅路は観測不可能な〇秒の間で行われていたのだ。数千億年を〇秒に圧縮してのシミュレーション。怪異とはいえ、そんな荒唐無稽の技をやってみせたのだから、その代償が来てもおかしくない。


『まだよ、まだ終わらないわ』


 クミ子さんは弱まりかけた魂の炎にもう一度エネルギーを吹き込んだ。ストックしていた最後のエネルギー。本当、今回ばかりは無茶しすぎたかもしれない。


 多少の無理を押し通すために、彼ら六人の体を力が通りやすい形に配置しておいた。処理を実行すると、彼らはあっという間に体が持っているエネルギーそのものも使い果たしてしまい、腐食して床の上にシミだけになってしまった。EC教室に残るのは中央にいた町田郁奈の頭部と接触している綾子のみ。このまま彼女が起きてしまっても不自然だ。


 しかし、かといって今のクミ子さんには短時間で四人をシミから戻す余力は残っていない。時を戻す作業というのは因果律を狂わせる。なので、彼らを元に戻すにはクミ子さんであれ多大なエネルギーを使わなければならなかった。日の出まで間も無くである。

 しょうがない、これは明日中に済ませよう。その間の人間の動きをシミュレートして、先手先手を打たないと。


 ああ、何でこんな時に警察庁からエリート二人が派遣されてくるの。けど、二人は私の事を知らない。ならばまだ勝つことができる。ちゃんと恐怖が染み込まれるように演出しなければ。

 クミ子さんは演出のために、やむなく綾子の体と郁奈の頭部を腐食させた。一人分強の体を腐らせるくらいならまだ可能だった。あとは、彼らが回復するまでに刑事たちを撹乱するだけ。防犯カメラや島の人の記憶も改竄して——。


 さあ、あとは日が昇るのを待つだけ。そして、沈むまでに決められた通りに行動すれば、私はその存在の片鱗すら見せずに、この騒動を終えられる。


 そしたら、少しだけお休みしましょう。


 たくさん頑張ったご褒美として、休息を自分に与えましょう。だってどこの世界でもそうでしょ。頑張った人は休む権利が与えられるの。怪異だけが休むなって、あまりにもブラックすぎない?


 だから少しだけ、ほんの少しだけ休みましょう。


 そう、ほんの少しだけ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る