5-10
四十五年目。
綾子は文芸誌の編集長になった。文芸誌は己の教養を高める素晴らしいものだとして再評価され、活躍の場所も紙から電子媒体に移していった。
多くの有名作家を輩出した名編集者として、綾子は世間から脚光を浴びる事になる。もちろん、夫に体を売って得た名声だ、など誹謗中傷の声はあったが、称賛の声に比べると微々たるものだった。
彼女はさらに多数の文庫本の解説を執筆することになる。彼女が編集や解説で携わった本はたちまちベストセラーになり、「澁谷なくして今の文芸なし」とまで言われるようになった。
一部の識者からは、近いうちに本を出すのではないかと注目されたが、彼女は一切本を書かなかった。綾子にとって、自分が表舞台で目立つよりも、素晴らしい才能を持った作家が世の中に羽ばたいていく姿を見送る方が大好きだったからだ。
その年のインタビュー番組で、老練の女性司会者に成功の秘訣はなんですか、と聞かれると、彼女は黙考した後にこう答えた。
「秘訣かどうかは分かりませんが、ある時から自分の頭に一つの音楽が流れ続けているんです。それは誰もが一度は聞いたことのあるメロディーで、歌詞がちょっとおかしいんですよね。
どうもダークメルヘンと言うか、狂気的と言った方が正しいかもしれません。けど、その歌が私はここにいる、ここにいるぞって叫んでるみたいで。ああ、私は地に足つけて、お日様見上げて生きてるんだって、再認識させてくれるんです。それが自分を客観的に捉えさせてくれたから、いまに繋がっているんだと思います」
七十年目。
彼女は八十四歳で逝去する。最後は家族や友人、同僚に見守られながら幸せな最期だったと後年出された彼女の伝記には記されている。それが全世界でベストセラーを記録した事は言うまでもない。
(あら、どうして私の体がこんなところに)
綾子は目の前にあるシワクチャな顔をした自分の体を見て首を傾げた。辺りを見回してみると、彼女の体を囲むように人々が群がっている。しかし、彼らは目の前で目を瞑る遺体と瓜二つな彼女に気がついていない。
(ああ、私はとうとう死んでしまったのね)
不思議と彼女は冷静にそう思った。その時、群衆の一人が顔を上げて綾子のことを見ている事に気づいた。黒髪のお下げに随分昔の丸ぶちメガネをかけ、これまたオールドファッショナブルな制服を着こなしている。
『そう、あなたは死んだのよ、綾子。自分に与えられた役割を全うしてね』
彼女は群衆から離れて綾子の目の前まで来た。いつの間にか綾子の遺体も、それを囲む人々もいなくなっている。
(あなたは誰かしら。私のことが見えてるの?)
綾子はキョトンとした表情で尋ねた。
『ええ、見えてるわ。逆に、彼らに私たちが見えていないの』
(それじゃあ、あなたも死んだ人間なのかい。そんな若い年で、かわいそうに)
彼女の心配する声に、少女は照れ臭そうに俯くと、気を取り直して綾子のことを見た。
『どうだったかしら、今回の人生は』
彼女は398545920回目になるその質問を未だ信じられない面持ちで辺りを見回す老婆に投げかけた。
(今回と言っても、前回も前々回もあたしゃ憶えていないからね。比べることはできないけれど——)
そこまで言うと彼女は間を置いて、
(でも、とても幸せ者だったかもしれないわ)
『それはどうして?』
老婆の答えに少女は問い続ける。
(だって、この世には自身の夢も希望も果たせないまま死んでしまった人がたくさんいるからね。それに比べたら、あたしは天職を見つけられたし、愛する人とも出会えたし、子供や孫に囲まれて、本当に幸せな人生だったよ)
『不思議ね。前の人生ではあなたは人を殺したい、と言っていたのに、そんな他人を思いやる言葉を出すなんて』
(あら、前世のあたしはそんな物騒な事を考えてたのかい? それはいけないね。過去に行けるなら今すぐにでも行って殴ってやりたいよ)
老婆の血気あふれる言動に少女はウフフと天真爛漫に笑って見せた。それを見て、老婆は何かを思い出したように語り出した。
(そういえば昔、娘になんで人を殺しちゃいけないの、と尋ねられたことがあったっけ。その時の言葉を昔のあたしにかけてあげたら、かつてのあたしは目覚めてくれるかね)
そう言うと老婆は何かを悟ったのか、はっと黙り込んでしまった。少女もなにも言わずに二人の間には沈黙が流れる。老婆はまるで死んでしまったかのように目を閉じ、そんな彼女を少女は温かい瞳で見つめ続けた。
『私のことを思い出してくれたかしら』
少女はそっと彼女に尋ねる。
(ええ、思い出したわ、トイレのクミ子さん)
老婆は老婆でなくなっていた。澁谷綾子という一人の少女に戻っていた。そのストレートな黒髪とまだ幼さの残る体にクミ子さんは再び柔らかい笑みを浮かべた。
気がつくと、音楽は止んでいた。
クミ子さんは右手を上げる。一瞬、綾子の鼓動が大きく鳴った。また、一から人生をやり直すことになるかもしれない。これが何回目か忘れてしまったが、きっと二度とこんな幸せな一生を送ることはできないだろう。
けど、良いかもしれない。せっかく、こんな幸福な日常を送れたのよ。この日のことをしっかりと心に刻み込んで、贖罪を続けよう。
クミ子さんは指を鳴らした。すると、あたりの景色が次々と変わっていき、何人もの権力者や文化人が現れては消えていった。そして、それ以外のスポットライトに当たらない人々も次々と現れては消えていく。
やがて、二人はベッドがたくさん置かれた一室にやってきた。そう、ここは人類が滅亡した場所だ。綾子がどんなに頑張っても、足掻いても、声を荒げても、この未来を変えることはできなかった。
『これが、あなたが死んだ後の世界よ。まあ、もちろん、私が計算した結果だから、正確には、あなたが死んだ後の九十九パーセントの確率で起こる世界と言ったほうが正しいかもしれないわ』
クミ子さんは突き放すような口調で言った。綾子の心臓が別の意味で大きく鼓動する。目の前にいるのは、彼女が何万回も、何千万回もその死を看取ってきたクリシェだったからだ。
彼は誰にも看取られる事なく、最後の看護師を一瞥して嘆息をついていた。そこから発せられる言葉はもはや意味を為さないだろう。
やがて、鼓動していた心臓が停止する音が部屋中に響いた。それを止める者は、もはや誰もいやしない。この音は電源が落ちるまで鳴り続ける。たとえ遺体が腐敗しようとも。
『三秒』
ポツリとクミ子さんが呟いた。
『あなたが人を殺さなかったことで、人類は三秒生き残ったわ』
その言葉に綾子は胸が痛くなった。私が人を殺しても殺さなくても人類は滅亡してしまうの? それじゃあ、私がこれまで経験してきた思い出したくもない日々は一体何だったのよ!
『どうして人類は滅んでしまったか分かる?』
クミ子さんの問いに綾子は黙って首を横に振った。もう、何も考えることができない。彼女は分からなかった。これまで迎えていた世界の破滅は自分が招いたものだと思っていた。
一人でも人を殺してしまった自分はその重責に耐えることができずに、世界は方向を見誤り、破滅を招いたのだと思っていた。しかし今、彼女が一人も殺さなかった世界でクリシェは緑が広がる平原で牧畜を営んでいるわけではなく、あの時と変わらず血だらけで臥している。
彼女は分からなかった。一人の命の重さを痛感するだけなら一人分の人生でよかったはずだ。なぜ変わる事もない人類の行く末まで見させたのだろう。
しかし、それこそクミ子さんが伝えたい事だった。いわば最後の一押しのためにクミ子さんは綾子に破滅まで歩ませたのだ。
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