5-9

398545920  0人を殺した時


 

一年目。


 朝、いつも通りの朝。紛い物の太陽は今日も昇り、沈んでいく。

 目覚めた綾子は「昨日」とは違う違和感を覚えた。頭の奥の方で自分の意思とは関係なしにある曲が鳴り続いていたのだ。これは幼稚園や小学校で聞いた童謡の一つだ。しかし、歌詞が所々怖いな。「ぜつぼう」や「えいえんのゆめ」など、何だか物騒な文言も並んでいる。


 そういえば、何だかとても壮大な夢を見ていた気がする。けれども、その内容を思い出せない。いや、夢なんて覚えているものじゃないから当たり前なんだけど、いつもの夢とは違う、どこか別の世界で過ごしていたような、そんな気がする夢だった。


 なんか、すごく疲れを感じる。いつも通り寝たはずなのに、寝た気がしない。綾子はそんな子供っぽいことを思うと、再び布団にくるまった。母親が「アヤー、朝ごはんできてるわよー」と声をかけるまで。そこで彼女はようやく行動を開始した。


 いつも通りの朝、いつも通りの朝食、いつも通りの家族。


 いつも通りの通学路、いつも通りの校舎、教室。




 そして、みんな。




 翌日の卒業式で綾子は最後から二番目に卒業証書をもらった。最後は生徒会長の和久が校長から証書を授与すると、その場で卒業生代表の言葉を述べた。二人で放課後遅くまで考えた言葉。胸の鼓動が少し高鳴りながら考えた言葉。彼の言葉が終わると、式は閉会し、彼女たちの三年間は終わりを告げる。


 ふと、これで中学校生活が終わってしまうと思うと心の奥底からこみ上げてくるものがあった。けど、これが永劫の別れではない。彼らとはまた会えるのだ。


 突然、目から涙が溢れ出した。脳裏によぎるのは、輝かしかった中学校生活の数々。興奮、遺憾、笑顔、そしてちょっぴり甘酸っぱいこの気持ち。

 なんでこんな感極まるのか分からない。周りが困惑するように、自分でも困惑しているくらいだ。もしかしたら今朝まで見ていた夢が原因かもしれない。もしくは頭の中で流れ続けるあの曲のせいなのかもしれない。


 卒業式が終わった後に綾子は和久を呼び出した。自分が今まで感じていた思いを伝えるために。けれども、異性に自分の思いを伝えることは想像以上に難しくて緊張した。

 あたふたして取り乱す彼女に、和久は何かを察したのか「ありがとう」と笑顔で言って校門前で待つ自分を思ってくれる人のところへ行ってしまった。


 ああ、これで一戦一敗ね。




 三年目。


 初めて恋人、と呼べるものができた。彼とは高校の生徒会活動の一環で知り合った、別の学校の生徒会役員だった。突然、告白というものをされて、最初は戸惑ったが、そこまで嫌いではなかったし、付き合ってみることにした。


 彼とはいろいろな事をした。デートや食事、買い物にちょっぴり大人な事。少し痛かったけど、甘い感情が体を満たしたのは、いつまで経っても忘れなかった。


 けれど、彼とは一年後に別れてしまう。大学が別々になり、しかも綾子はヤマト市の大学へ行ったため彼とは会いづらくなってしまったからだ。けど、彼女はそのことを一切後悔していなかった。もともと彼といても、何か心にグッとくるものがなかったから。

 一緒に帰る時も、手を繋いでる時も、時も。綾子の心の奥には黒いモヤが渦巻いていて、それが彼女を悪い子にした。きっと彼は私の運命の人じゃなかったのよ。


 綾子はそんなツンとする気持ちを抑えながら、大学の校門を潜った。




 八年目。


 綾子は出版社の編集者になった。別段、本が好きだったわけではないし、それほど読んでいたわけでもなかった。ただ、誰かを支える手伝いをしたいと思って就職活動をしていたら、偶然ダメ元で応募した大手出版社に内定をもらったのだ。おそらく、彼女の明るくて、おしとやかな性格が採用担当者の心を惹きつけたのだろう。


 そこで彼女は文芸書の出版を担当することになる。最初は馴れない仕事についていけなかったが、個性豊かな先輩たちが手取り足取り教えてくれて、時には飲みにも誘ってくれて、なんとか一人で本を出版できるようになった。


 自分が影で支えながら出された本が人々の手にとってもらえるのはとても嬉しかった。いや、もしかしたらが書いてくれた本だからかも。綾子は貝殻のイヤリングを触りながらそう思った。


 I've been working on the railroad All the livelong day。




 十五年目。


 綾子はかねてより付き合っていた男性と結婚する事になる。彼は曲枝賞を受賞するほどの売れっ子作家で、なんと綾子の中学時代の同級生だった。成人式で帰省した際に二人は偶然出会い、そこから会う回数を重ねて、付き合うようになった。


 彼は中学の頃とは雰囲気が随分変わっていて、明るく、はつらつとしていた。教室の隅で一部の友人とふざけていたのが嘘みたいだ。

 もしかしたら、彼女はそのギャップに惹かれたのかもしれない。気づいた時には彼のことが好きになっていた。高校時代の彼氏に抱いていた感情よりもずっと深い、一生続くのでは、と思えるくらいの「好き」だった。


 彼との間には二人の子供をもうけた。男の子と女の子が一人づつ。二人ともすくすくと真面目に育ち、綾子の遺伝子を受け継いだからか、長男の方は学業もスポーツも優秀だった。

 一方、妹は兄とは違ってすこぶる勉強ができるわけでもなく、運動はどちらかといえば苦手な方だった。きっと旦那の遺伝子を色濃く受け継いだに違いない。そのせいか、時々ハッとする質問を投げかけてくる。


「ねえねえ、お母さん。どうして人は人を殺しちゃいけないの?」


 ある時、こんなことを娘が尋ねてきて綾子は困ってしまった。どうやら、たまたま見ていた刑事ドラマの犯人がそんな事を言っていたそうで、彼への主人公の言葉に娘は納得できなかったらしい。


 綾子は彼女の頭を撫でながら一考すると、口を開いた。


「それはね、私たちが一人の命しか背負うことしかできないからなの。私たちは自分一人の人生しか背負うことができない。もし、人を殺してしまったら、その人が未来でするはずだった仕事、偉業、それら全てに対して責任を負わなければいけない。

 それは、どんなに優秀な人であってもできる事ではない。できないことは最初からしてはならない。だから、私たちは人を殺してはいけないのよ」

「じゃあ、何もしない人は殺しても良いの? お父さんとか」


 娘がそう言うと、居間の奥で本を読んでた旦那が声を上げて笑った。娘にとって作家である旦那は家でひたすら本を読んでる暇人ひまびとにしか見えないのだろう。


 いいえ違うわ、と綾子は首を横に振る。


「何もしていない人間なんてこの世には一人もいないのよ。生まれてきた、それだけでその人は私たちにとって価値があるの」


 そっか。だから、千里ちゃんが生まれた時に皆んな喜んでたのね、と娘は納得したそうで笑みを見せた。千里ちゃんとは、綾子の親友の子供のことで、娘にとっては初めて目にする赤ん坊だった。


 そういえば、どこかの世界でこんな事を言われた気がするな。綾子はふと郷愁の思いに浸った。この世界ではなかった気がする。もっと壮絶で、荒廃した世界で言われた事のように思える。けど、その世界を彼女はついぞ思い出すことはなかった。


 夜、娘を寝かせるために綾子は鼻歌を歌う。あの日から彼女の頭に流れ続けるあの歌を。歌詞は物騒だから鼻歌で。これを聞くと娘はあっという間に眠りについた。

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