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 ふと、金次郎の前に山積みにされた本に目が行く。その背表紙に書かれたタイトルを見て、彼女の凝り固まった思考は一瞬で緩んだ。

 それはうだつの上がらないサラリーマンが異世界のスライムに転生して、仲間とともに冒険する、ネット小説を書籍化したものだった。えっ、金次郎って、こんなものを読むんだ。郁奈の顔から思わず笑みがこぼれた。彼女の視線に気づいたのか、金次郎は自分の目の前にある本を見て、ハハハと笑う。


『いやなに、昔の本は大体読み漁ったし、ここは中学校の図書室ですから「主君論」とかそう言った小難しい本は置いていないので、自然と新しい本に向かってしまうのですよ。

 それでこれを読んでみたのですが、中々面白いですね。死んで別世界にスライムという一見弱小なモンスターとして転生するのですが、気づいたら最強になっていて、自分の国を作っていくという。いやはや、「キルカメッシュ叙事詩」に並ぶ名作ですぞ』


 その一生懸命ぶりに郁奈は再び笑みを浮かべてしまう。


「まさか、作者もそこまで慢心してませんよ。けれども、最近はインターネットに小説を投稿して、それが書籍化されるなんて事が多いんですよ。特に一度死んだり別世界に召喚されたら最強になってる、なんてのが多いですね。いわゆる『やろう系』って呼ばれています」


『なるほど、「やろう系」なるものか。今の疲弊し切った社会にはいい強心剤になるかもしれませんね。しかし、近頃はネットに小説を投稿しているのですか。金次郎像の中に夜中ネットが使える環境のやつがいたかな。後で聞いてみましょう』


 金次郎は全国に置かれた二宮金次郎像の中で一番最強の怪異であるためか、全国の金次郎像と意思疎通することができ、大名のように命令することもできる。

私から言わせれば、そっちの方がよっぽどファンタジーなんだけどな、と郁奈は欠けた心のパーツを拾い上げて思った。


『もし良ければ、他にも面白い作品を紹介していただけませんかな』と金次郎が尋ねてきたので、郁奈は図書室にある最近入庫したネット小説原作の本を紹介した。

 後宮に勤める官女が王宮で起こる事件を薬学の知識で解決していくミステリーや、本のない世界で本を作るために粉骨する少女の話など。今まで見た事ないジャンルに金次郎は興奮した面持ちで彼女の解説を聞いていた。

 また、誰かに自分のオススメを紹介することが好きな郁奈も自然と勢いが増して、あれも、これも、と紹介したい本が増えていく。


 やがて、私だけが紹介されては申し訳ない、と金次郎も自分の読んだ本を紹介し出した。この図書室の本をほとんど読破していた郁奈には、それは不必要なことだったけれども、金次郎の物語における着眼点は中々に鋭くて面白く、ついつい聞き入ってしまった。

 本来、彼自体は生前の二宮尊徳とは一切関わりないのだが、彼の形に創られたことで、彼の魂とリンクし、思考の仕方が本来の金次郎と似ているのだ。


 彼は筆者の考えや識者の解説に左右されず、自分なりに考えて物語を解釈していた。これこそ、読書本来のやり方だ。もっと話したい。彼の考え、知識をもっと吸収したい!


 どれくらい時が経っただろうか、ふと、金次郎が受付の上にある壁掛け時計に目をやったので、彼女もそちらを向いた。時刻は既に午前一時半を過ぎていた。しまった、もう一時間も過ごしてしまった。きっと大人だから、時が進むのが早く感じるのだろう。


『そろそろ、行かねばならぬでしょう』


 金次郎の問いに郁奈は無言で頷く。本当はここにもっといたい。彼と夜が明けるまで話していたい。


 けれども、私にはやらなくてはならないことがある。


 郁奈はハンドバッグを持つと、金次郎の方を向いて頭を深く下げた。


『構わず進み続けなさい。流れに身を任せ、己に与えられた使命を果たして来なさい。そして願わくば、こうして再び話し合いましょう』


 金次郎は優しい声で彼女のことを見送った。




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 三月一日水曜 午前一時四十五分


 

 金次郎の言っていた通り二階の女子トイレに行ってみると、そこには一昔前の津江中学校の制服を着たお下げの少女がポツンと立っていた。

彼女の姿を見て、郁奈はこれがトイレのクミ子さんだと理解した。しかし理解しただけで肝心なところが思い出せない。彼女と自分との間にどんな関係だったのか。


 クミ子さんは郁奈の顔を見ると、ニコッと笑って見せた。ようやく会えたわね、とでも言いたげな笑顔。その唇の綻びと、全てを見透かしてるような破顔に郁奈は寒気がした。


『いらっしゃい、郁奈。私に聞きたいことがあってここに来たんでしょ? けど、それはもうちょっと待ってね。ここでは、彼女の死因を読者に教えてあげなくちゃいけないから』


 読者? 読者って誰? 郁奈の疑問を他所に、クミ子さんは微笑みを浮かべながら目の前の個室を指差した。恐る恐る覗いてみると、そこには毒ガスによって窒息死した本庄悠里の遺体があった。

 その顔は血で真っ赤に染まっていたが、どこか安らかに見える。クミ子さんは悠里の遺体に下着とジャージズボンを履かせてあげると、郁奈に彼女の体を一緒にどかすように言った。

 そして、悠里の遺体を持ち上げる。すでに死後硬直が始まっているようで、彼女の体は持ち上げづらく、日々運動部で鍛えてるせいもあるのか、普段本束を持ち上げている郁奈でも重く感じた。


 二人は悠里をトイレの通路に横たえると、再び彼女が死んだ個室を覗いてみた。死後硬直からしてそれなりの時間が経ったはずなのだが、依然として毒ガスっぽい臭いはこの個室に充満していた。

 温泉とかでよく嗅ぐ臭い、腐卵臭と言えば適切だろうか。温泉地のように換気がしっかりされているところでは、趣向の一つとして嗜めるが、換気の行き届いていないトイレの個室では毒ガスとして十分効力を発揮するだろう。


 スマホの明かりで便器の中を覗いて見ると、中に流されずに残っている個体を二つ見つけた。何やら角張っており、例のブツには見えない。

 クミ子さんもそれに気付いたのか、『何だろうこれ』と躊躇いもなしに右手を便器の中に突っ込んだ。チャプンと音がして、拾い上げた瓶は二つとも真っ黒で、一つには白いキャップがついている。


『これは……』とクミ子さんは瓶のネームタグを見てみると、それぞれ濃塩酸と硫化鉄(Ⅱ)と書かれていた。

 これは文系の郁奈にも理解できる。濃塩酸をトイレの水で薄めて希塩酸にし、そこに硫化鉄を入れると化学反応で硫化水素が発生する。これが毒ガスの正体だ。本庄悠里は急性硫化水素中毒で死亡したのだ。

 でも、こんな薬品、一生徒が手に入れられる代物ではない。一体どうやって……。


『ハーン、「あの子」め。周囲に気づかれないようにこっそりくすねやがったな。ピアノ線の時といい、ホントおいたが過ぎる癖ね』


 どうやらクミ子さんには全て分かったようだった。実を言うと郁奈もどこから調達したかは予想できた。あとはいつ、どうやって、だけ。


『さっ、ここでの私の役割はもう終わり。そろそろ彼らが来るから行かなきゃ。じゃ、また後でね、郁奈』


 クミ子さんはバイバイと手を振ると、見えないエレベーターに乗ってるかのようにすうっと上昇し、そのまま天井をすり抜けて消えてしまった。結局聞きたいことは聞けず仕舞いだった。けど、「また後で」と言っていたから、私は彼女とこの後も会うことになるのだろう。

 でもちょっと待って。彼女は上の階に行ったんだから、今から三階のトイレに行けば再び会えるんじゃない? 郁奈は悠里の遺体に一瞥すると、目を細め、女子トイレを後にした。

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