4-2

 覚悟を決めて連絡通路を渡っていく。しかし、前に見える体育館は真っ暗なままで、誰かがいる気配もしない。けれどもザワザワ、ザワザワ、と何かがいる物音はする。

 とても不思議な感覚だった。何もいないのに、何かいる物音はする。そんな不可思議な感触は体育館の目の前に来ても変わることはなかった。


 郁奈は体育館の入り口前で中の様子を伺ってみるが、真っ暗なままで誰かが見える訳でもないし、いる気配もない。けれどもザワザワ、ザワザワ。

 彼女はその場で数十秒たじろぐと、ええい、と足を一歩体育館に踏み入れた。すると、突如としてあたりにたくさんの人の気配を感じた。真空の中に生まれた星々みたいにどこか温かみを感じる。けれども、それらが見えるわけではない。まるで目隠しをしながら人混みの中に入っているような感覚だった。


『マチねえ!』


 ふとステージの方から声が聞こえた。どうやら数人がステージ上で何かの設営をしているらしい。声をかけたのはその中で一番若い青年だった。彼は郁奈に向かって手を振ると、ステージから降りて、彼女のもとに走り寄った。その様子、気配、雰囲気を感じて彼女の口からポツリと名前が溢れる。


「……健太」


 そう、彼は健太、町田健太だ。齢十二にして自分の会社が倒産した親の借金を払うために、生命保険をかけられ自殺するよう言われた、私の唯一の弟。

 親に辛い思いをさせないために、自分が世界一のミュージシャンになるっと言ってたけど、集客できずに切り捨てられた、夢と愛情に捨てられた私の弟。これまで片時も忘れていないはずだったのに、どうして今の今まで忘れていたのかしら。彼女の心の芯が大きく揺らいだ。


『マチねえ、大変なんだ』


 ケンタは郁奈の元まで来ると切迫した口調で言った。幽霊だから息切れはしないのか。どうしたの、と戸惑いながら尋ねる彼女にケンタは言った。


『「あの子」が、「あの子」が、とうとう人を殺めてしまったんだ』


「あの子」? 「あの子」って誰? 私は知らない。

 けれども、知ってる。「あの子」のことを。「あの子」がして来たことを。「あの子」について相談されたことも。


 その時、彼女の心にポッカリと穴が開いた。今まで埋められていたものが、偽りであると。自分には別の本当の記憶があると。彼女は本能で察した。


『みんなやらないと思っていた。理科室の科学者も図書室の金次郎も、絶対にやらないと思っていた。けれども、「あの子」は彼女の言う通り人を殺めてしまったんだ。

 マチねえ。僕は嫌だよ。の言っている「終わりなき戦い」を始めたくないよ。あの頃の父さんや母さんみたいな思いを「あの子」にはして欲しくないんだ』


「ちょっと待って。『あの子』って誰よ?」

『それは僕の口から言うことは出来ない。けど、『あの子』を止められるのはマチねえしかいないんだ』


 自分の口から言えない人物、しかも殺人犯を止めろなんて無茶すぎる。そう思ったものの、郁奈の心にはいつの間にか一筋の線が現れていた。それは自分がこれから何をしなければならないのか、指し示しているようだった。すると、まるで深淵なる大穴に引き込まれていくように、彼女の意思は固まっていく。

 詳しいことはまだ分からない。けれども、私が今やるべきことは学校から出ることではない。そして、おそらくもう、私は学校から出ることは出来ない。


『マチねえ、頼むよ。今、「あの子」を止められるのはマチねえしかいないんだ』


 ケンタは目に涙を浮かべるようにして話した。本当かどうかは、郁奈には彼の姿が見えていないから分からない。けれども、

「うん、分かった。やってみる」と、彼女は力強く言った。


 ケンタに別れを言って彼女は体育館を後にした。不思議なことに体育館から一歩でも外に出ると、彼らの気配は一切しなくなった。しかし、相変わらず中から音は聞こえて来る。今はリハーサルの最中なのか、ギターのチューニングをしている音が聞こえた。


 彼女のやらなければいけないこと。それは「あの子」を止めること。けど、「あの子」の名前が分からないと手の打ちようがない。であるならば、まずは稗島くんの死因を調べなきゃ。

 郁奈は息を大きく吸って吐くと、体育館連絡通路を渡って一階の廊下に出た。彼の体を真っ二つにしたのは、おそらくあの鋭利なピアノ線で間違いないが、問題はどうやって切られたかだ。ここを通って切られてくださいね、と言って、はいそれとあの惨状が出来上がるわけではない。ではどうやって?


 郁奈は稗島の遺体の前まで来た。残虐な遺体の前でも(彼には申し訳ないが)生ゴミと同じだと思えば自然と冷静さを保っていられた。

 郁奈は稗島の上半身の遺体を軽く物色してみたが、ブレザーのポケットから出て来るのは爆竹であったり、ライターであったりと、関係のないものばかり。けれども、その物騒なものが彼女の推理を混乱させた。


 もしかして、ここで誰かと決闘する覚悟をして来たってこと? 三年生の内部事情についてはそこまで詳しくないけど、いじめや喧嘩など目立った事件は起きていなかったはずだ。

 もしくは、稗島くんは言い方は悪いけど妄想癖のある子だ。想像の誰かと闘うために夜の学校に忍び込み、ピアノ線に切られた。それなら納得できるかもしれない。


 けど、先程のケンタの言い方からみるに、「あの子」が彼を殺したはずだ。そして、「あの子」はまだ殺人を続ける気でいる。それは今夜中に行われるのだろう。なら、「あの子」はまだこの校舎の中にいて、他の子と一緒に行動しているのかもしれない。それなら、稗島くんの持ち物の説明ができない——。


 郁奈がジレンマに陥っていると、技術室の方からあの悲鳴が再び聞こえて来た。そこで彼女はその悲鳴の正体を思い出す。あれはピエロの悲鳴だ。粉砕機で自らの体を粉々にして死んだピエロの霊だ。


 ピエロは悲鳴をあげながらバタバタと技術室の中を走り続けている。まるで何かを探しているかのように。やがて、彼は技術室を出て郁奈を見つけたのか、イヒッと気味の悪い笑い声を上げた。そして悲鳴をあげながら彼女の方へ走って来る。

 やばい、逃げなきゃ。郁奈は北階段へ向かって走り出そうとした。しかし、腹部にピアノ線が引っかかって血の気が引く。

 そうか。稗島はこのピエロから逃げるために走っていて、鋭利なピアノ線に気付かずに通過しようとしたんだ。だから下半身だけ走り続けてしまい、北階段の麓まで行った。鋭利なピアノ線なら、走る推進力を利用して服から皮膚、内臓、そして背骨まで切れてしまうだろう。いや、分からない。この細い線でそんな器用なことができるのかは分からない。けれども、そう考えないと辻褄が合わない。


 となると、なぜ彼はそのピアノ線に速度を落とさず突っ込んだのかだ。郁奈がその疑問にたどり着いた時、耳元であの狂気あふれる悲鳴が響いた。ピエロはもう彼女の目の前まで接近していたのだ。それはただの悲鳴のはずなのに、とても嬉々としているように聞こえた。



 ここだよ、僕はここにいるんだよ! 



 刹那、彼女は一瞬だけ思考する。まずい、このままだと捕まってしまって……。


 しかし、考え終わる前にピエロは彼女の体をすり抜けて走り去ってしまった。今度は悲しそうな悲鳴を上げながら消えていく。

 そうだ。彼は実体を持たない霊体だから、いくら力が強くても物に触れることはできないんだった。彼女の心に欠けていたパーツが一つ埋まった気がした。

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