第四章「もう一人の客人」
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二月二十九日火曜 午後十一時〇分
沈んでは、昇り、
昇っては、沈む。
幾千幾億とも繰り返されたこの営みを維持しているのは何も、強い光を放つ太陽だけではない。弱いながらも、孤独を慰めてくれる月もまた然りである。
その月が沈む頃、町田郁奈は津江中学校の校門の前にいた。こんな深夜遅く、しかも勤務時間内で仕事がある程度完結する司書がここに来るのは些か不似合いだ。
その理由は至極単純明解で何て事はない。化粧ポーチを学校に忘れて来たのだ。翌朝取りくればいいが、翌日は朝早くから高校時代の同級生とグアムへ行くため、今夜中に取りに行く必要があった。
校門の前にある当直棟には明かりがついていて、中にはのんびりとした雰囲気の藪崎龍之介がテレビを見ながらくつろいでいた。マイペースよね、あの人は、と郁奈は微笑を浮かべながら当直棟に近づいていく。
「ヤブさん、こんばんは」
「ありゃ、図書室の先生。こんな夜遅くにどうして、ここに」
藪崎はいつも通りの陽気でのんびりとした声を出す。「ちょっと忘れ物しちゃって、職員室にあるはずなんで取りに来たんです」と言うと、「そりゃあ、ご苦労様です」と頭を下げた。
「ああ、先生」
校門に入ろうとしたところで、藪崎が当直棟の扉から身体を半分出して声をかけた。郁奈ははい、と言って振り返る。
「今夜は冷えますぜ。そんな薄着だときっと、風邪を引いてござんしょう。早めにお帰りなさい」
癖の強いその言葉に郁奈は礼を言うと校門を潜った。
月明かりのない校内は消えかかった電灯だけが頼りで、とても寂しく見えた。いつか、前にこれと似たような体験をしたな、と郁奈は思い返す。確か十五の頃、けどその内容があまり思い出せない。
そう、彼女はまだ十五年前のあの日を思い出していなかった。確か真夜中に外出した気がするのに、中学三年間で彼女は一度も夜に外へ出た事がないという事ははっきり憶えている。うーん、矛盾だ。
そんな背反命題を抱えながら、郁奈は教職員用通用口の前まで来た。そこで彼女はある違和感を覚える。通用口の先の廊下に何かいる。暗くてそれが「何か」までは判別できないが、黒い塊が床に転がっている。
もしかして、動物でも忍び込んでいるのかな。ここは小さな島で野生動物もそれなりに生息している。その可能性が一番高く、現実的だった。
けれども、通用口を通って目の前まで来た時、その「何か」が彼女を非現実へと引っ張り上げた。目が大きく見開かれた男子生徒の遺体。しかも、目の前にあるのは上半身だけで、下半身は北階段前で何かピクピクするものと一緒に置かれていた。
郁奈は中太りなその体型を一目見て、彼の名前を思い出した。
中二の夏あたりからやたらとデトラ・クエストやパージー・ジャンクソンを借りていくにも関わらず、どれも全制覇できずに終わっていた生徒だ。そんな子が何でここに、こんな状態で死んでるの?
ふと、彼女はある異変に気づいた。稗島の遺体の上に赤い一本の線が浮いていたのだ。恐る恐るその線に触れてみると、ピッと彼女の指の表面がきれいに切れた。幸いにも傷は血管まで届いておらず、表面に傷ができるだけで済んだ。いや、それよりも——、これはピアノ線だ。しかもとても鋭利に加工されている。
次の瞬間、耳が張り裂けそうなくらい大きな悲鳴が一階を包み込んだ。郁奈は瞬発的に耳を塞ぐが、その狂気に満ちた叫び声に涙とおしっこが出そうになる。
悲鳴が鳴り止むと、今度は廊下をひたひたとこちらに向かって走って来る音が聞こえた。「何か」がこっちにやって来る。見ることはできないけれども、恐ろしい何かが。郁奈はピアノ線に触れないようそれを潜り抜けると、そのままカツカツと一階の廊下を走り出した。
そしてそのまま北階段を駆け上がる。元紀達が駆け上がった階段を。そして、彼らが隠れた理科室のある二階ではなく、職員室のある三階へ向かった。自分以外にこの校舎に人がいることも知らずに。ましてや、この校舎がもはや普通の場所ではないことも知らずに。
職員室の鍵を急いで開け、中に入って扉を閉めると、郁奈はその場に座り込んだ。つい、ハイヒールを履いたまま校舎に入ってしまった。本来なら室内用のスニーカーに変えているのに。
おまけにハイヒールのまま走ったから足の付け根が痛い。後で絆創膏を貼っておかなくっちゃ。そんな呑気なことを考える余裕がまだあった。
郁奈は立ち上がってハイヒールを脱ぐと、職員室の明かりをつけて自分の席まで行った。明かりが点くと幾分か心も落ち着いて来る。
そうよ、きっとあれは夢よ。さっきのは疲れ過ぎた私が見た幻覚。毎日十八時には帰っているから、疲れてるはずはないんだけど、きっと気づかぬうちに溜まっていたのね。だからあんな非現実的な幻覚を見たのよ。さっさと化粧ポーチを見つけて帰りましょう。それで今日のことは全部忘れましょう。
彼女はハンドバッグを椅子に置くと、自分の机の上、引き出し、そして机の下を捜索した。しかし、化粧ポーチは見当たらない。
おかしいな。あるとしたらこの辺りだし、しかも探している化粧ポーチは深成岩の結晶のように独特な柄だから見間違えることもないはずだ。
それでも彼女は三回ほど同じところを探したが、結局見つからなかった。
あれ、と彼女は確認の意味もこめて持って来たハンドバッグを開いてみた。すると、そこにはオレンジと緑と青の斑点が等粒状組織のように組み合わさった柄の化粧ポーチが見えたのだ。
おかしい。家では三回ほどこのバッグの中を見たから、こうも簡単に見つかるわけがない。
おかしい。私は化粧ポーチがないと気付いて
おかしい、おかしい、おかしい、おかしい……
その時、バツンと激しい物音がして、職員室の照明が落ちた。途端に辺りは真っ暗になり、郁奈はきゃっと柄にもない声を上げてしまう。
嘘、停電? こんな時に。彼女の心の中には嫌な予感がしていた。一刻も早くここを抜け出したい。目的のものは手に入ったんだし、とっとと帰ろう。郁奈はハンドバッグを担ぐと、一応職員室の照明のスイッチをオフにして出た。
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三月一日火曜 午前〇時〇分
一階に辿り着くと、稗島の遺体は先ほどと変わらずそこに転がっていた。これは幻覚、これは幻覚、と自分に言い聞かせながらも、ストッキングが彼の血を吸い込んだので涙が溢れそうになった。郁奈はそっとハイヒールを履いた。
さっきのピアノ線の前まで来ると、郁奈は壁に接着しているところを見てみた。何か白いもので塗られている。触ってみるととても固かった。
これは、瞬間強力接着剤だ。どうして深夜の学校に接着剤で固定された鋭利なピアノ線が置いてあるの?
そんな疑問を覚えた時に、体育館の方がザワザワし出した。もしかして誰かいるの? 彼を殺したバイキングみたいな奴らが、宴でも開いてるのかしら。そんな不安がよぎったが、気づけば足は体育館に向かっていた。
体育館連絡通路からは校舎と体育館が一直線で見通せる。郁奈が音楽室の近くから体育館の様子を伺ってみると、そこは真っ暗で何も見えなければ、誰かがいる気配もない。けれどもザワザワした話し声は聞こえて来る。
これは直接行って確かめなきゃいけないの? これで行って悲惨な目にあって来たキャラクターをたくさん知ってるんだけど。郁奈は頭の中で悲鳴をあげた。
でも、そうよね。行かないといけないわよね。私は教師だもの。ええ、いいわ。記念すべき犠牲者第二号になってあげる。
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