3-19

 三人は悲鳴を上げながら振り向くと、一目散に走り出した。ハイヒールマンはその悲鳴に一瞬たじろいだ様子だったが、すぐにカツカツと音を鳴らして追いかけてきた。

 三人は放送室を出ると、右に曲がり、北階段を目指した。もうなりふり構ってはいられない。カツカツという音はまだ聞こえてくる。元紀は腕を大きく振り、足はこれでもかと目一杯まで前に出して走り続けた。先ほどのピエロの時とは違う、恐怖を帯びた走り。これが一生懸命の走りだ!


 三人は北階段にたどり着くと、そのまま数段飛ばしで階段を駆け下りた。ガンガンガンガンと階段が鳴るせいでハイヒールの音は聞こえない。それでも三人は降り続けた。


 


 やがて、三人は一階の踊り場にたどり着いた。そこから下に目を向けると、麓には稗島の下半身だけが無様に置かれていた。仰向けに倒れた下半身の股間部は濡れており、薄暗くても分かるほど真っ黒なシミを作っていた。

 それと相似するように大きな円形の血溜まりが広がっている。そして切断面のある側からは、破損した■■と■■が模様をつけ(ところどころに未消化のカップ麺が見えた)、■■と■■がだらしなく伸びていた。

 実際に近くで見るととても気持ち悪い。魚の内臓や理科室の解剖実験で見たカエルの内臓よりも、人間の臓腑はとても大きくてグロテスクだった。


 ラムジーの後に続いて元紀も吐き気を抑えながらも渡ろうとしたが、後ろから綾子がついてくる気配がなかった。振り返ると、彼女は両手を口元に持って来て必死にジェノサイダーの下半身を凝視していた。きっと彼女も僕と同じで恐いのだろう。であれば、僕がとるべき行動は一つしかないのではないか。やるんだ、森島元紀。お前ならやれる。

 元紀は何も言わずに彼女にそっと手を差し伸ばした。いつもなら少しでも躊躇ためらうのに、なぜだろう、とても自然にできた。心臓の鼓動は高鳴ったままだ。


 綾子はその手に思い惑う様子を見せながらも、そっと握りしめた。彼女の手はとても冷たく柔らかだった。きっとどんなアイスも、どんな果物も、この世に存在するありとあらゆる自然物でさえも、これを再現することは叶わないだろう。


「目を瞑ってていいから、僕が先導するよ」


 彼がそう声をかけると彼女は顔をジャージの袖で覆った。二人はゆっくりと歩みを進める。稗島の血は乾きかけてはいるが、まだ湿っているところもあり、それはべっとり足裏にひっついた。気持ち悪い。けれども構わず歩みを進める。

 彼女のペースに合わせてゆっくり歩いていたつもりだったのだが、いくらか遅かったようだ。次第に二人の距離は縮まっていき、彼の腕と彼女の胸が触れ合った。柔らかかった。それ以上、元紀は考えることをしなかった。ただただ黙って足を前に出した。


 やがて、玄関が見えるところで上半身が見つかった。稗島の目は自身の身に起きたことが信じられないかのようにパチリと開かれ、両腕は受け身をとるかのように大きく広げられている。そんな彼の顔の前でラムジーがしゃがみ込んで手を合わせていた。目をつむり、彼の魂が浄土へ向かうことを祈るかのように。


 ラムジーは二人のことに気づくと、顔を上げ、立ち上がった。そして元紀の方をむいてニヤリと笑って見せる。やるやない、もっちゃん。そう言っているような気がした。元紀は何も言わず、口を真一文字に結んで頷くだけだった。鼓動は高鳴ったままだ。


 玄関を通り過ぎ、トイレまで来たところで綾子がジャージの袖を目元から離した。それと合わせて元紀も彼女の手を離す。二人の間に空間が生まれた。先ほどの気まずいものではなく、信頼と「何か」で満たされた心地よい空間。あと一歩踏み出せば……。


 そう思った時に、技術室の方から悲鳴が聞こえて来た。ピエロがいる。彼は人を殺すことができないと知っていても、この悲鳴は十二分に応えた。一刻も早く体育館に行かなければと三人の思考を揺れ動かす。


 三人は体育館連絡通路を渡った。音楽室からは始めのようなピアノの音は聞こえてこない。しかし、その奥にある体育館からは熱気とドラム、ギター、ベースの音が聞こえてきた。けれども、目の前に見える体育館の入り口には誰の姿も見えない。真っ暗で先ほどと全く一緒だ。けれども音だけが確実に聞こえてくる。


 スネアとシンバルが激しくなる。ベースが低音を響かせ、ギターが絶技のように旋律を高速で奏でる。誰かがマイク越しで何か叫んでいるが、エコーが激しくて聞き取れない。彼の声に反応して歓声が轟くのが聞こえる。その大きさは体育館を埋め尽くすほどの人がいなければなし得ないはずなのに、誰の姿も見えない。


 やがて、長い連絡通路を歩いて体育館に一歩踏み入れた時、そう、本当に一歩踏み入れた瞬間、目の前に多くの人がパッと現れた。彼らの顔は見えない。彼らの体もあるのかよく分からない。実際に見えないのだから。けれども、そこには紛れもなくたくさんの人々が存在し、ステージに向かって熱いコールを送っていた。

 そしてステージにはいくつものライトに照らされたバンドマン三人が汗を散らばせながら熱唱していた。まさに音楽フェスティバルだった。その熱気に気圧されてか、三人も自然と汗ばんでくる。


 とても不思議な光景だった。一見すればそこには何もない。真っ暗な体育館があるはずなのに、歓声や音楽に耳を傾けながら見ると彼らが現れる。まるで脳が目の前で鳴り響く音を分析して、本当ならこんな風景が広がっていなければおかしいと幻覚を見せているかのようだった。けれども、これは幻覚ではない、現実だ。


「すごい……、これがフェスか」


 ラムジーは他の二人に増してその鼓動を高鳴らせていた。彼は暇な時間があればインターネットで海外の有名アーティストのライブを見ており、時々ふと自分の妄想を元紀に語っていた。

 もしも、自分がここに立っていたら、それはさぞかし気持ちの良いことだろう。わかっている。自分がそこに行けないことは十分わかっている。けれども一度は味わってみたい。一度はその爽快な味のする果実にかぶりついてみたい。


『やあ、君たちは新入りさんかな?』


 右から声が聞こえた。視覚では認知できないが、そこには「何か」がいた。きっと青年の幽霊だろう。そして彼の奥には数体の幽霊を知覚できる。彼らの放つ殺気にも近いオーラからみるに、もしかするとアーティストかもしれない。


『大丈夫かい?』


 青年はもう一度三人に尋ねた。「ありがとう、すごい熱気ね」と綾子が言うと青年は「そうだろう、今日はまたとない特別な日なんだ。だから僕らも盛り上がっていかないとね」と声の調子を上げて言った。なんか、僕と雰囲気が似てるな。元紀はそう思うのと同時にジェラシーにも似た黒いモヤが心の中を漂うのを感じた。


『君たちは生きた人たちだろ』


 青年は何のこなしにそんな質問をぶつけて来た。


「も、もしかして、この体育館に踏み入ったら死ぬんか?」


 ラムジーがとても不安そうに尋ねると、青年は笑って、「そんなことはないよ、プリマヴェーラじゃないんだから」と言った。体育館の音楽フェスは魂の集合体と言っていたが、どうやら一人一人が「七不思議」としての自覚はあるみたいだ。

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