3-9
『ったく、ドキドキしたぜ、ユリ。俺の声に全然反応しねえんだもん』
ふと突然頭の中で声が響いた。「タケル」だ。
彼女が理想とする男性像を存分に詰め込んで作り出した彼女だけが認知できる存在。もう一人の悠里。こんな男性がいればと小学生の頃にタケルを作った。しかし、世の男性は彼ほど完璧ではなかった。だから、彼女は男に失望した。一人の少女の希望すら叶えられない愚族なんて早々に滅ぶべきなんだ。
けれどもタケルはそんな悠里の考えを知っている。もちろん、あやちゃんのことも。けれども彼は悠里が理想とする男性だから優しく彼女の意見を肯定してくれるのだった。
(うるさい、黙っててよタケル。なんであんたは肝心なところでいっつも出て来んの)
『だって、お前のことが心配で声をかけてるんだぜ。漠然とした不安なんてものじゃない、昼間とは違う明らかな殺意と恐怖を感じたんだよ』
そう言い終わるとタケルは寂しそうに『もう手遅れだけどね』と呟いた。そう言えば、この学校に入ってから一度だけものすごく悠里のことを止めようと彼が声をかけてきた時があった。そう、音楽室の時だ。悠里が音楽室の扉を開けて中に入ろうとした時、タケルが現れて彼女のことを必死に呼び止めたのだった。
『ヤバイ、ヤバイ、ヤバイよ。なんかヤバイ予感がする。今すぐここから離れよう。悠里だけでもいいから、離れよう。ここにいたらとんでもない事に巻き込まれてしまう』
そう言って悠里の頭の中で暴れ回ったのだ。ただ、音楽室は入る前にピアノの音が聞こえていたくらいで、ピエロや骸骨、校内放送のような明らかな怪異はなかった。
(ねえ、タケル。なんであの時あなたは音楽室に入る私たちを全力で止めてたの?)
タケルは言う。
『そんなの当たり前じゃないか。お前のことが心配だからだよ』
(冗談言わないで! あなたはこうなることを予想して私に声かけてたんでしょ? どうして分かったの?)
タケルは黙った。それは考え込んでいるダンマリというよりは言いたくない沈黙だった。しかし、悠里はタケルと一心同体だ。悠里が何を考えているかも、タケルが何を考えているかも、全て互いに筒抜けになってしまう。
まさか!
タケルの考えを受け取った悠里は全てを理解した。あくまで可能性の一端でしかない。しかし、音楽室での出来事、技術室から北階段へ走る途中に見た光景。私が稗島の血を大量に浴びた理由。これらが彼女を一つの結論に導いた。
そんな馬鹿な。それじゃあ、本当の殺人鬼は……。
!!
ふと、自分の周囲を吸ってはいけない空気で覆われていることに気づいた。吸うと明らかに違和感を感じるのだ。喉を引きちぎられるような痛みが走る。それに臭いも。鼻の奥に残る嫌な臭いが……。
途端に悠里は気道を掻きむしられているような感覚に襲われてゲェと空気を吐き出した。咳き込もうとするが、横隔膜が上下運動を拒絶しているようでうまくできない。
『ユリ! まずい。早くここから出よう!』
タケルが叫び声をあげた。
(分かってる。今パンツを……)
下着に手を伸ばそうとした時、彼女は違和感を覚えた。腕が思った通りに動かない。下着までほんの少しなのに鉛みたいに腕が重い。どうやら臭いに気づく前に既に大量の気体を吸ってしまったようだ。これはまずい、いや、まずいどころではない!
『くそ、あの子だ。あいつがこんな罠を張ったんだ。ユリ、大丈夫か。動けるか?』
分かってる。今動く。動きたい! けど、身体が重くて言うことを聞かないの。頭がぼーっとして考えがまとまらないの。
扉をどんどん叩く音がする。きっとこの異臭に気づいた綾子だろう。すぐ目の前にはあやちゃんが待っている。あやちゃんの元へ行かなきゃ。私がいなくなったら誰があやちゃんを守るの? あいつらはオスだ。性欲のまま動くバカだ。私がついてあげなきゃダメなのに……。
「ユリ! ユリ!」綾子の声が聞こえる。
あやちゃん、あやちゃん、あやちゃん、あやちゃん、あやちゃん、あやちゃん。
「ユリ! 返事して! 大丈夫?」
あやちゃん、あやちゃん、あやちゃん、あやちゃん。
あやちゃん、あやちゃん、あやちゃん、あやちゃん、あやちゃん、あやちゃん。
『ユリ……しっかり……しろ……お前が……しっかり……しなきゃ……俺も……』
あやちゃん! あやちゃん! あやちゃん! あやちゃん! あやちゃん!
(あやちゃん! あやちゃん! あやちゃん! あやちゃん! あやちゃん! あやちゃん! あやちゃん! あやちゃん! あやちゃん! あやちゃん! あやちゃん! あやちゃん! あやちゃん! あやちゃん! あやちゃん!)
その時、悠里は不思議な感覚に陥った。人間が生死の狭間を彷徨うときの極限状態とでも言えばいいのか。頭はぼーっとして考えがまとまらないはずなのに、一つの答えが重力に導かれるように集まってくる。まるで自分の頭よりも数次元高い次元で審議が行われているかのように。それは頭で考えている、と言うよりも「心」で考えていると表現した方が正しいかもしれない。
悠里は重たい拳を少し上げては自分の腿に下ろす作業を三回繰り返した。これで噂が実現するか分からない。けど、これで少しでも助かるのなら、少しでもあやちゃんの側にいれるなら……
あなたはもうすぐ死ぬわ、悠里
扉の奥に現れた「何か」がそう答えた。なぜ、「何か」が彼女の名前を知ってるかなど、悠里は考えなかった。その「何か」こそ悠里が求めた存在だったからだ。彼女なら助けられるかもしれない。助けて! 今すぐ私を助けて!
『いいえ、あなたはここで死ぬの。そういう役割なの』
その「何か」はもう一度悠里に語りかけた。朦朧とする意識の中で、扉の奥で叫ぶ綾子の声は残響が激しい一方で、彼女の声ははっきりと聞こえた。私は死ぬの? このまま窒息して哀れな姿で死ぬの? こうやって苦しみながら、生に固執しながら死ぬの?
『人とは生に執着するようプログラムされているのよ、悠里。それは運命なんて生温いものではない、一行の方程式の中で満たされた化学変化なの。そして生を奪うのもまた化学変化。人間がどうこうできる話ではないわ』
それをどうこうしてもらうためにあなたを呼んだのよ。私はまだ死にたくない。あやちゃんの側にいたい。だから、そんな化学変化なんて全部台無しにして! だから、扉を開けて今すぐ私をあやちゃんの元へ行かせて! だから、だから、だから、だからぁ!
悠里は遠のく意識の中で精一杯に叫んだ。生まれる時にプログラムされた通りではなく、理性という人間らしく、知的生命体らしく野生的に叫んだ。
けど、そんな彼女を「何か」はとても寂しい瞳で見つめた。実際に見えたわけではない。彼女の目はもうとうの昔に閉じられてしまっているから見れるはずがない。けれども、彼女が悲哀に満ちた瞳で見つめているように感じたのだ。
少女は悟った。
——ああ、私は死ぬのね。
『そう、あなたは死ぬのよ。ここで死ぬことになってるの。悠里、ここまで来てくれてありがとう。己の生を顧みずに、もう一人の自分の警告を聞かずに、この校舎に入ってくれてありがとう。ここからは私たちに任せて。最善を尽くして見せるわ。だからもう……
おやすみ
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