3-10
*
女子トイレの異常に元紀たちが気づいたのは鼻腔をくすぐるような異臭をほのかに感じた時だった。最初はラムジーが屁でもこいたのかと思ったが、すぐに女子トイレから綾子の声を聞いて違うと確信した。
「ユリ! 返事して、ユリ!」
綾子はトイレの中でドアを叩きながら叫び出した。悠里の身に何かあったに違いない。元紀とラムジーは急いで女子トイレに駆けつけようとするが、普段絶対に入ることのない女子トイレという空間に一瞬のためらいを感じてしまった。
その時、手洗い場から綾子の姿が見えた。彼女は口元を手で覆って目に涙を溢れさせている。彼女は元紀たちのことを見ると安堵したのか、その場に崩れ込んだ。
「突然……、ユリのいるトイレから変な臭いがしてきて……、声をかけてみたんだけど、返事がないの!」
彼女の声は湿っていた。
「と、とりあえず中に入って様子を確かめてみよう」
元紀とラムジーは綾子の後について女子トイレに足を踏み入れた。女子トイレの明かりは消えており、よく見ることはできなかったが、どうやら構造としては男子トイレと同じらしい。だが本来短いはずのトイレまでの道のりが、やけに長く感じる。
ようやくトイレが並ぶ通路に出た時、悠里が入っていると思われる一番手前の閉まっていた扉が何の前触れもなしにすーっと開いた。三人は思わずビクッとなって立ち止まる。
「ユリ? 大丈夫?」
「本庄さん?」
三人はゆっくりと歩を進めた。ホラー映画であればこうやって開いた扉からは怪物が出てくるのが定石だが、その様子は一切ない。
やがて三人は
だらりと便座に寄りかかり、垂れ下がったその手が動く様子はない。全身に浴びた稗島の血は洗い流されておらず、血だらけのその顔はどこか安らかにも見えた。
そして、ジャージのズボンをあげる前に力尽きたのか、膝丈にはショーツが引っかかっている。テニスで鍛えられた筋肉質な下半身はあらわになり、辺りが薄暗い中でかすかに■■■■■■■■も認められたが、そんな情報は誰の得にもなりはしないだろう。
「ユリ! ユリ〜〜!」
隣にいた綾子が急に叫び出した。だが、その際に有害なガスを多く吸い込んだのか、彼女はゲホゲホと咳き込む。これ以上ここにいるのはまずい。そう思った元紀はラムジーといっしょに綾子の肩を持って、トイレから離脱した。
トイレの出口までやってくると、大切な仲間を失った三人を嘲笑うかのように、再び甲高い放送が鳴り響いた。
『本庄悠里ご臨終。本庄悠里ご臨終。トイレの個室で毒ガスに陵辱されて、息が詰まってご臨終。アンアンアンッ、って。ゲヘヘヘヘ、アヒャヒャヒャヒャ!』
***
ああ、私はとうとう幼なじみも手にかけてしまったのね。
しかも、男嫌いな彼女にとって最も屈辱的な死に様を見せてしまった。きっと彼女が生きていたら泣いて喚くでしょうね。
生きていたら、だけどね。
ああ、私はなんて非道なんだろう。なんて残酷なんだろう。
……
そう、そうよ。私は恐ろしい殺人鬼。
私は幼なじみでも殺してしまう残虐な人間なんだから。
だから、だから……、どうして私は泣いてるの?
ああ、そっか。ガスをたくさん吸い込んだからか。
じゃあ、なんで涙が溢れると心にヒビができたように感じるの?
……まずい、まずいなあ。
このままだと私は私ではなくなってしまう。
少し心を落ち着かせようか。
4
三月一日水曜 午前〇時十五分
泣きじゃくる彼女を前に、元紀とラムジーはただただ女子トイレの入り口を睨むことしかできなかった。
やはり「ハイヒールマン」がやったのか? しかし、元紀たちがトイレの前にいる間は誰も来なかったし、二人がトイレに行ってる間も誰かが来た気配はない。
第一、綾子と悠里は女子トイレで一緒に行動していたんだから誰か来たのであれば、絶対に気づくはずだ。
となれば……
元紀は嫌な考えに至った。まさか澁谷さんが? あの成績優秀でスポーツ万能、そして人望もある澁谷さんが人を殺す? 元紀は突如、自分がとんでもない思い過ごしをしているのではないかと思った。鼓動が大きく鳴る。いや、ありえない。澁谷さんに限ってそんなことはありえない!
「ユリがトイレに入る前に言ってたの」
涙を手の甲で拭いながら、綾子が口を開いた。
「トイレの鏡に白い着物を着た女の人がいたって」
「そ、それってもしかして『トイレのクミ子さん』とちゃうか?」
ラムジーが唐突に食いつく。
「わからない、わからないわ。けど、私が鏡を見た時にはそれは見えなかったし、彼女の見間違いだったかも……」
嗚咽を漏らす綾子の声音に元紀は一縷の誠意を見た。いや、もしかしたら彼の「澁谷さんは犯人じゃない」という強い信念がそう錯覚させたのかもしれない。少なくとも、彼は彼女の言葉が真実だと感じたのだ。ああ、やっぱりそうだ。元紀はそう思うと同時にどこか申し訳ない気持ちになってしまった。
元紀が一人得心していると、隣にいたラムジーが「そうや」と呟いてハーフとは思えないほど訛りのある弁舌で語り始めた。
「きっとクミ子さんや。多分、あやちゃんが手を洗ってる間にトイレに入って毒ガスをばら撒いたんよ。そして、きっとジェノサイダーもピエロに殺されたんや。理科室の野郎どもが気がつかなかっただけで、ピエロはこの学校全体を走り回れるんや! そしてトイレのクミ子さんはゆりちゃんを殺した。この校舎全体がワシらを殺すためにあるんや!」
元紀はすぐにラムジーの精神状態を察する事ができた。彼の思考は自分でも制御できないほど暴走している。自分たちの中に殺人犯はいないという懐疑的な自信と、次は自分かもしれない恐怖と生への執着がそれに燃料を投下させたに違いない。
この時の対処法を元紀は心得ていた。彼は今にもヒステリック起こしそうな親友の顔の前で大きく手を叩いてみせた。
パン!
渇いた手拍子が一拍、二階の廊下に響き渡った。ラムジーはキョトンとした表情をしながら目をパチクリさせて動作を停止した。これがラムジーがおかしな妄想に取り憑かれた時にやる対処療法だった。半年前の「全人類爬虫類型宇宙人なんじゃないか妄想」の時もこれのおかげで、ラムジーは考えを改めている。
あれ? そうだった気がする。うん、そうに違いない。元紀は半年前のことを思い出そうとした時、若干のノイズが走った気がしたが、すぐに思い過ごしだと判断して親友を再起させる言葉を発した。
「ラム、いろいろ憶測したくなる気持ちもわかるけど、いったん落ち着こう。人体模型も言ってただろ、ピエロが稗島を殺した証拠はあるのか? トイレのクミ子さんが本庄さんを殺した証拠はあるのか? 彼女はトイレのクミ子さんを見たかもしれないけど、クミ子さんが果たして人を殺すような幽霊か? 証拠がない推理は推理じゃない、ただの妄想だ!」
普段は冷静キャラを装っていた元紀だったが、ここばかりは語気を強めなければならなかった。それは手拍子によって思考が停止した親友の脳髄にも強く響いたのだろう。ラムジーは折れかけた膝を再び起き上がらせて元紀の平凡な顔をまじまじと見た。
「すまない、もっちゃん。また迷惑をかけてしもうた」
「助け合うのはお互い様だろ。特にこういう事態では一人でも狂ったら大変だから」
「せやな、ありがとう」
ラムジーはにっと笑ってみせた。だが、その眉は下がっており、無理して笑ってるんだなと元紀は感じた。けど、平常心は取り戻せたみたいだ。それでよしとしよう。
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