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 三月一日水曜 午後四時四十分



 そこから先の周囲の変化に吉満は大した反応を見せなかった。いちいち問題に驚愕して、原因を究明するのが馬鹿らしくなったのだ。これは人の力によるものではない。いや、人の力であっていいはずがない!


 鑑識課を出るとまず日樫から電話があった。応答すると、彼の怒号がスピーカーから聞こえてくる。


「おい、いつまでぶらぶらしてんだ。今日が研修初日だってこと忘れたか! こっちはお前が来るのをずっと待ってんだぞ!」

「い、いえ、今朝課長が津江中学校の事件を捜査しろと言ったので、そちらを行っていたのですが」


 吉満は若干の困惑を覚えながらも、なるべく冷静に答えた。


「はっ? 津江中? そんなところで


 まさか、と吉満は思った。みんなのか? 明らかに吉満は今朝、津江中学校に行き、そこで日樫から捜査を一人でやるようにと無理やり任された。しかし、日樫はそれを覚えていないという。全くもって矛盾である。圧倒的矛盾!


 内ポケットに入れていたはずの日樫のメモもいつの間にかなくなっていた。これは証拠を見せつけて強制的に捜査を続行しなくては。そうでないと気持ちの落としどころがなくなってしまう。

 そう思って再び鑑識課に戻ろうとした時、吉満は孔と出会った。孔はまるでナナオ署に来てから初めて会ったかのように「よオ、調子はどうヨ」と挨拶してきた。嫌な予感がした。すぐに孔を連れて鑑識課に行く。鑑識課には濱島が自分のデスクで作業していた。


「濱島さん!」


 吉満の声に濱島は少し驚いて顔をあげた。そして吉満を認めて一言目に、


「なんで俺のことを」


 と言う。彼の悪い予感は的中してしまった。孔や濱島でさえこの事件はもとい、今朝までの出来事を忘れてしまっている。


 でも、まだ希望はある。自分たちが持ってきた証拠を見せれば否が応でも納得するはずだ。吉満は今朝の津江中学校の証拠品を見せてほしいと濱島に頼んだ。しかし、濱島は首を捻って


「今朝は津江中で事件は起きてないし、ここ数年、津江中では警察沙汰は起きていないぞ」と言った。どうやら数ヶ月前の猟奇ざたも忘れてしまっているらしい。


「とにかく、今日起きた事件の証拠品を見せてください!」


 吉満は無理を承知で濱島に頼み込んだ。最初は渋っていた濱島だが、孔が「こイつ、一度走り出シたら止まらないタイプなんだヨ。納得さセるためニも見セてヤってクださい」と一緒に頭を下げてくれたおかげで見せてもらえることになった。


 しかし、結果は残念なものだった。濱島の言う通り、今朝起きたはずの津江中学校の証拠品は一切保管されておらず、半年前に起きたとされる小動物大量虐殺事件の証拠もさっぱりなくなっていた。


 ついに物的証拠までなくなり、途方にくれた吉満が鑑識課から出た時、電話が鳴った。相手は津江中の体育教師、浜田からだった。


「吉満さん、大変です! EC教室にあったはずのシミがなくなってしまいました!」


 その言葉に吉満は首をかしげた。EC教室? はて、俺はそんなところとゆかりがあっただろうか? 間違い電話ではじゃないか、と問い返すと男は


「そんなことありません。ナナオ警察署の吉満さんですよね? 外人っぽい見た目をした」と返した。

 どうやら向こうは自分のことを知ってるようだ。しかし、彼のことが思い出せない。浜田。どこかで聞いたことある名前だと思うが、ああそうだ。お笑いコンビのツッコミの人だ。


「それと、もう一人の行方不明の教職員が分かったんですよ」


 男は戸惑いながらも続けようとしたので、吉満は、


「すみません、この後急ぎの予定があるので、また次の機会に」


 と言って電話を切ってしまった。着信履歴には知らない携帯電話番号が載っていた。


 携帯の画面をやや見つめてから吉満はあっと思った。そうだ。浜田じゃないか! 津江中学校の体育教師、浜田じゃないか。自分はさっきまで津江中で起きた事件を追いかけて奔走していたのに、なんで忘れてしまったのだろう。

 しかも、彼はもう一人の行方不明者が分かったと言っていた。これは限りなく事件の輪郭を掴む手がかりになるはずだ。


 吉満は急いで電話をかけなおした。しかし、時すでに遅かった。浜田は吉満の電話に出て第一声に「どちら様ですか」と言ってきたのだ。それは吉満が今朝からの経緯を話しても変わることはなかった。


「澁谷綾子、関根ラムジー、稗島五月、本庄悠里、森島元紀。この五人が今日学校に来ていないはずなんですが……」

「いえ、五人ともしっかり出席していましたよ。私は彼らの体育を担当していたので見間違うはずがありません」

「では、最後に一つだけ聞いてもいいですか?」


 吉満は学校と連絡が取れた時に聞いておこうと思っていたことも思い出して、忘れないうちに尋ねた。


「昨晩、そちらの女子テニス部は合宿をしていましたでしょうか?」

「ええ、していましたよ」


 浜田の回答は明らかに今朝とは変わっていた。実際にはなんて言っていたかは覚えてないが、テニス部は合宿をしていなかった気がする。いや、していたんだっけか? もう忘れてしまった。


 吉満は浜田との通話を終えると、急いでフェリーに飛び乗った。あの夜だ。あの夜に何かあったからこんな歪んだ状態は生まれたんだ。人々の記憶は漆のように上塗りされ、回収されたものは動かされていないかのように元の場所に戻っている。日は変わらず昇り、そして沈んでいく。


 忘れまいとする吉満の脳裏をたくさんの幻が過ぎ去っていった。教室の床にできたシミ、老練刑事の困った表情、同期と先輩の顔、海鮮丼のお椀、簡素な校舎、少年少女らの話し声、歳を取りすぎた警備員、彼らの顔、彼らの親の顔、どこかで聞いたことのあるメロディー、そして防犯カメラに映った一人の少女。



 アle?

 


 俺は今まで何をしていたんだっけ? よく思い出せない。


 今朝起きて、朝飯を食って……、いや食わなかったんだ。今日が何か大事な日だから、緊張して忘れていたんだ。なんの日だっけ。

 今日? 今日は三月一日水曜日。そして俺の名前は吉満・クリスチャン・雅範。うん、これは覚えている。つまり突如の記憶喪失や認知症になったわけではないようだ。


 フェリーが津江島に接岸した。津江島? 確かナナオ署の管轄にある小さな島だった気がするが、俺はどうしてここに? 散歩でも決め込んでここまで来てしまったのだろうか。


 突如、吉満の携帯電話が鳴り出した。見知らぬ電話番号からの着信。通話ボタンを押すなり怒鳴り声が彼の耳をキーンとさせる。


「おい、もう夕方だぞ! 一体いつまで油を売ってるつもりだ! さっさと来い!」


 そ、そうだ。吉満は思い出した。今日はナナオ署での実地研修初日だった。一体どうして俺はこんな大事な日を忘れていたんだ。てっきり家でくつろいでから、散歩だなんて休日のような過ごし方をしてしまったじゃないか。


「す、すみません! すぐに向かいます!」


 吉満は心底謝罪の意を表すと、この日最後の便であるフェリーに乗り込んだ。

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