1-6
「あっ、ごめん。なんだっけ?」
「せやから、LINE持っとったっけ、って聞いたんやけど……」
「持ってるよ」
「なら、連絡先交換せえへん? 集合時間と場所を教えるで」
いいよ、と綾子も応じてスマホを取り出す。カーストの低い男子がカーストの高い女子と連絡先を交換できる、またとないチャンスである。当然元紀も駆け寄ってくるだろうと綾子は考えた。しかし、元紀は二人から一歩後ろに引いたところで立ち尽くしている。ただ、視線は明らかに綾子の方に向いていた。
それは風景を眺めるかのような俯瞰したものではなく、稀代の骨董品を観察するような、それでいて所々に自分の鼓動と共鳴するかのような艶かしさがあった。
もしかして、彼は……。そんなつまらない考えが頭をよぎったが、それは彼女にとって「無味乾燥」の一言に尽きる代物だったので無視することにした。彼女の欲望は誰かを好きでいることでも、誰かに好きになってもらうことでもない。ただ、彼女の欲望は——。
元紀を置き去りにして、ラムジーと綾子は軽く言葉を交わした。
「決行は今夜にしようと思っとるんやけど、大丈夫か? そう、今日はヤブさんが夜番やからや」
「確かに、忍び込むには絶好のタイミングね。なら、家から抜け出す方法は私の方でなんとかするわ。そこまで難しいことではないと思うから。侵入経路はどうするの?」
「それは、着いてから閉め忘れたドアや窓を探そうと思っとる」
そんな稚拙な考えでは学校に侵入なんてできないわよ、と綾子は心の中で失笑しながら思った。しょうがないから助け舟を出してやる。
「なら、校舎への侵入ルートは私に任せて。体育館と校舎の連絡通路にある扉の鍵を生徒会室から調達しておくわ。そこからなら、たとえヤブさん以外の人が校舎にいたとしても、見つかりづらいでしょ」
「おお、さすがやな。なら、ワシともっちゃんで七不思議を巡るルートを考えるから、あやちゃんは鍵の調達を頼むわ」
「了解!」
結局、最後まで元紀は二人の会話に入ってこなかった。もしかしたら、自分があの会話に入ってもそこまで爪痕を残せないと判断したからかもしれない。けど、この場にいる以上は会話に入ってこない方が別の意味で爪痕を残していると思うんだけど。
ふと元紀が綾子から視線を外していることに気づいた。どこを見ているのかとなぜか無性に気になる。そっと線を辿ってみると、それは教室の扉の方を指していた。
それが分かったときに彼女は嫌な予感がした。まさか、ね。綾子は元紀が見ている「誰か」にバレないよう、恐る恐る扉の方を見てみた。
教室のドアには円形の窓ガラスが付いていて、中を覗くことができる。そこから見える教室の奥、ちょうど先ほどまで綾子がいた場所と同じ位置に彼女はいた。
美しく滑らかな黒線が描かれたテニス部のジャージを身につけたショートカットの女の子。彼女はラケットのグリップを左手で持ち、右手にフレームを添えていた。そのフレームが歪んでいるのは遠目から見ても分かるほどだった。
テニス部部長の
どうしたものか、と綾子は瞬時に頭を回転させた。長年我慢して来た欲望がその回転に拍車をかける。やがて彼女の中で最適解が弾き出された。
そうだ。あの子も仲間に加えてあげればいいんだ。
綾子は笑った。今度は心の中で満面の笑みを。悠里がグループに入れば男子は思わぬ花に喜ぶだろうし、彼女も直接男子を監視できるから一石二鳥だろう。
いや、私にとっては殺せる肉塊が一つ増えるから、一石三鳥というべきかしら。
綾子は笑った。今度は表の顔で。けど、遠目から見ていた悠里にとって、その笑みはおしとやかな生徒会副会長が浮かべる笑みに見えたに相違ない。
ましてや、殺人衝動を持った少女の笑みなどと考えもしなかっただろう。
4
二月二十九日火曜 午後五時八分
すっかり日も暮れ、夕焼けもその名残だけがひっそりと西の空に見える頃、本庄悠里は後輩二人を連れて正面玄関を出た。
脳にあるのは一種の屈辱だった。何で私がこんなことをしなければならないの。けど、脳裏に綾子の顔がよぎれば機嫌も少しばかり治る。彼女のためならば仕方ない、なんて奉仕精神がその屈辱を和らげた。
しかし、その次に湧いてきたのは怒りだった。彼女の連れ添いを許可したあいつらが許せない。憎い、とまでは行かないけど、出来損ないの生物のくせに頭すらまともに働かせられないなんて人間以下よ。
そんな御託を頭の中で並べていると、やがて前方に二つの影が見えた。聞こえるか聞こえないかくらい離れた距離だったが、悠里はそれでも衝動的に声をあげる。
「ちょっと!」
彼女の甲高い声は静まり返った辺りに響き、木に止まっていた鳥たちがバサバサッと飛び立った。ついてきた後輩は肩を震わせてこちらを見て、少年たちは立ち止まって振り返った。
ハーフの男子と純製とでも言うようにどこにでもいそうな影の薄い男子。その存在に気づいている自分が腹立たしくなるくらい価値がないと思っている元紀たちに向かって、悠里は突き放すように言った。
「あんたたち、今夜あやちゃんと校舎に行くんですってね。さっき教室で聞いていたわよ」
「だからなんや? おまんには関係ないやろ」
彼女の口調に呼応するかのように、ラムジーの口調も荒っぽい。
「関係おおありよ。ファンクラブとして、あの子を真夜中に、しかも男しかいないところになんて行かせられないわ」
「ファンクラブとしてって、おまんらあいつの母親か! ずいぶんな大所帯やな。けど、行くか行かないかを決めるのはあやちゃん自身やで。ワシらはもう実行するって決めてるんや。止めるならあの子自身に言うんやな」
「それはもう言ったわ! けど……」
ラムジーの言葉に悠里は思わず口をつぐんでしまった。くそっ、
悠里は心の中で毒づきながら先ほどまでのことを思い出していた。今日は卒業式前の最後の部活動が可能な日。そんな日には決まって練習後に送別会が開かれるのが定番だった。
ホームルーム教室を一つを貸し切って行われた送別会で、悠里は時間を見つけては綾子を説得した。何をされるか分からない。万が一警備員なんかに見つかれば、あやちゃん自身の進路も危うくなると。しかし彼女は決まってこう言って離れてしまう。
——でも、私はもう行くって決めたから。
「言う事を聞かなかったんだろ? だから僕らのところに直接頼みに来た」
元紀の言い方に悠里はカチンときた。
「別に頼みに来たわけじゃないわ。命令しに来たのよ」
そこで悠里は自分の後ろにいる二人の後輩を見た。澁谷綾子は学内でその名を知らない人はいないくらいの人気者である。そのため彼女を応援するファンクラブも存在した。
彼女らはそのファンクラブの幹部を務めるほど生粋の綾子ファンである。彼女のためならその身を捧げても
「今すぐ計画の中止をあや様に伝えなさい」
「さもなくば、あなたたちが夜の校舎に忍び込もうとしていることを先生に言って差し上げますわよ」
それ見なさい。影の薄い男子が早くも狼狽し始めたわ。
しかし、もう片方の金髪ハーフが思わぬことを口にした。
「せやけど、もしこれでワシらが計画を中止したとて、あやちゃんは喜ぶかいな?」
最初、悠里も含めて三人は何を言っているか分からなかった。それもそのはずだ。彼女らは正義の名のもと教師に告げ口をするのであって、そこには澁谷綾子を助け出すためという大義があるのだから。
ではなぜ綾子を助け出すのだろう? 悠里は何かおかしいことに気づいた。その疑問の答えがいち早く出たのか、隣にいた宮野小路がハッと顔を凝固させる。ラムジーはそれをなぞるかのように説明を始めた。
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