第31話 知ったら仕舞い

 

 兜町、7時半。

 山師の会社が有る、テナントビルの前に着く売り方。

 必要無いだろうとは思いながらも、一応念の為にと思い直し、その中に入った。


 会社のドアの前、応対してきたのは社長である山師だった。

 やはり、彼も売り方の事を忘れている。

 売り方は、名乗った上で自分の運転免許証を取り出して見せ、ここの社員名簿に同じ名前がある筈だから確認しろと言った。


 売り方は、山師が自分を会社の社員だと認めたら、即座に叱り飛ばすつもりでいた。

 だが、その必要は無かった。

 名簿を確認して出てきた山師は、名簿にはあるが何かの手違いだろうと言った。

 多分、同姓同名なのだろうとも。


 取引は、人と人との信用の上に成り立っている。

 帳簿や何かの記録などは、それを補佐するものでしかない。

 それを、見知らぬ者だが帳簿にあるので仲間だと認める様では、信用の認識自体が出来ていない。それでは証券の取引や客のカネを扱う仕事など不可能だし、そもそもしてはいけない事なのだ。


 何故か申し訳無さそうな山師に対し、売り方は、こちらの勘違いだった様だと言って、その場から離れようとした。

 この後の事は、山師に任せておいて大丈夫だろう。

 その確信を得られた売り方は、心に残っていた僅かな染みが消えるのを感じた。


 だが、山師が呼び止めた。

 何故かは分からないが、アンタを行かせてはいけない様な気がすると。

 もし用事が無いのなら、とりあえずこのオフィスで過ごさないかと。

 今日は、外は寒いだろうとも。


 売り方は、山師の肩越しに部屋の中を見た。

 そこには、出勤してきたばかりなのか、コートを着たままの従業員や営業マンたち、それに事務の女性の姿があった。

 皆、売り方を見ている。

 そして皆一様に、社長の言う通りにしては如何か? という表情をしていた。


 売り方は、胸の奥からこみ上げて来るものを感じながらも、今日は用事が詰まってるのでこれで、と言った。

 そして、今度こそその場を辞した。




 8時15分。

 売り方は、東証の屋上に居た。


 妙に浮かれた気分で、鬼女とアンサンブルをした場所。

 僅か36時間ほど前の出来事だった。

 今はそれが同じ場所とは思えないほど殺風景な眺めだと、売り方には思えた。


 東証の建屋に入る際に一旦脱いだ外套を、再び着る。

 下に着ている場服を守衛に見せるためだったが、そもそもその必要は無かった。

 守衛が、売り方の存在自体を認識していなかったからだ。


 他の場立ち達にはにこやかに挨拶するものの、売り方には目も向けない。

 挙句、横を通る際に体をぶつけてきた。

 倒れる売り方に初めて気付いた風の守衛は、慌てて謝りながら、売り方を起こしたのだった。


 そして、東証の職員たちに混じってエレベータに乗り、屋上にやって来た。

 恐らくは自分をもう忘れているだろう従業員達に、再び会う事が辛かったからだ。


 手近のベンチに腰を下ろし、無い左腕を右腕で抱く様な姿勢をとる。

 寒さもあったが、そうすると、少女の病魔の駆逐具合がより良く分かるような気がしたのだ。


 クスリは、かなりの量が少女の中に入っていっている様だった。

 もう相当なところまで快復している。それが実感として分かった。

 この調子でいけば、青年が言った通り9時頃には全て終わるだろう。

 それは少女の全快であり、また、売り方の外殻が消滅する事をも意味していた。


 そういえば、と思い出す売り方。命は枠の様なものだと言っていた者が居たなと。


 彼は、いや彼女かもしれないが、その相場の神と呼ばれた存在は本当に寂しかったのかもしれない。

 売り方は、人々から忘れられ始めている自分に当て嵌めて、そう思った。


 今の状況がもっと進めば、自分は他人から完全に認識されなくなってしまうだろう。

 幾ら大声で叫んでも、伝わらないかもしれない。

 更に進めば、殴っても蹴っても効かなくなるかもしれない。

 つまりそれは、この世に居られなくなるという事と同義で。


 あの存在は、似た様な状況の中、長い時間を過ごしてきたのだろう。

 幾ら話しかけても誰も応えず。

 存在の認識すらして貰えず。

 だから、偶に自身を認識出来る人間が現れれば、それは大事にするだろう。

 売買に関する便宜も、幾らでも図るに違いない。

 今週、自分がそうされた様に。


 しかし、自分は今、その存在を裏切ろうとしている。

 一人で勝手に逝く事で。

 理由がある事とは言え、その存在にとって、自分は酷い男なのだろうな、と思った。


 そうして見上げる鉛色の空。

 そこから、とうとう白いものが舞い降り始めた。

 風は無くなっていた。それで、ふわふわと真下に降ってくる、今年の初雪。

 それはまるで、売り方の体を白く包みこもうとするかの様に。


 外套の中にうずくまる様に、姿勢を直す売り方。

 あの存在は、今は何故か母の姿をとっている。

 いまも何処かから、自分を見ているだろう。

 それに看取られながらの最期というのも、まあ悪くはないだろうと。

 売り方はそう思いながら、目を閉じた。


 瞼の裏、暗い視界の中に、少女の姿が浮かび上がってくる。

 病室のベッドの上で、体を起こしている。

 その周囲には、青年、院長、鬼女、そしてナースや他の医師たち。

 開け放たれたカーテンから入ってくる日差しは、春の頃の穏やかで優しいもの。

 それに包まれて、みな笑顔だ。

 その中心にいる少女も、彼らにつられて笑顔になっていく。


 ああ、なんと幸せな風景なのだ。

 自分がその輪に入れないのは、残念ではあるが、もう諦めている。

 自分が居ない事が、少女の全快の証となるのだから。


 ただ、出来ることなら声を聞きたい。

 失われた、少女の声を。

 売り方は自分の夢にそう注文をつけた。


「何してんだ、こんなところで」


 言われた直後に、頭の上を払われる感覚。

 更に、肩の辺りも同じ様に。


 誰だ、無粋な。そう思いながら目を開く売り方。

 目の前には、黒いブレザー姿が立っている。

 月曜のザラ場で売り方に絡んできた、東証の職員だった。


「……人待ちだ」

「それにしても、こんなところで待たなくても良いだろう。それに、もうすぐザラ場が開くぞ?」


 職員に、屋内へ入るよう促される売り方。

 指し示された先の職員用食堂は、利用者の一人も居らず閑散としている。

 確かに、この雪の中、屋外に居る必要は無い。

 少なくとも、第三者からはそう見えるだろう。

 売り方は、ベンチから立ち上がり、職員の後について職員用食堂に入った。


 食堂から出て行く職員を見送り、適当な椅子に座る売り方。

 窓の外は、相変わらずの雪降りで薄暗い。

 しかし、明かりの点いてない食堂の中は更に暗い為、舞い落ちる雪の一つ一つが影の様に見える。

 それは、雪を、実際よりも重そうに見せる効果を持っていた。


 売り方は、その様子を見ながら、違和感に囚われているのを自覚していた。

 何故、あの職員は自分を認識出来たのか?

 そして、何故、母の姿は出て来ない?


 閑散とした食堂の中を見回す売り方。

 その静けさは、売り方に疑問の検証を要求しているかの様だった。

 売り方は、これまでじっと動かずに居た自分に焦燥感を覚えた。




 エレベータを降り、関係者用出入り口の前まで来た売り方。

 ザラ場の開場寸前のせいか、通路に人は居らずスムーズに移動できた。

 しかし外へ出ようとしたところで、守衛に右腕を掴まれてしまう。

 曰く、許可無く出入りは禁止だと。

 普段は、場立ちにそんな制限は無いのだが。


 チ、と舌打ちをする売り方。

 気づくのが遅過ぎたかと。


(どちらへ行かれるのですか? もう間もなく取引の時間です)


 母の姿だった。売り方の背後、通路の中空に居る。

 周囲はいつの間にかセピア色に染まって止まり、神の時間に入った事を示していた。


「ちょっと忘れ物があってな、それを取りに行くんだ」


 背中で、そう語る売り方。

 自分で作った加速状態なら、傍らの守衛は振り切れそうだ、と考えながら。


(それなら、私が取ってまいりましょう)


 空中を移動して、売り方の前に出る。その背後は出入り口だ。


(いま、ちょうど行こうと思っていたところなのです)

「ちょっと待て、それが何なのか分かっているのか?」


 忘れ物など無い。ただの誤魔化しなのに、それに乗ってくる母の姿に驚く売り方。


(今回の取引に於いて事故が起きました。私はその事故玉である、私の仕手を回収に行くのです)


「だから、俺を東証ここに呼び寄せたのか? その上で更に足止めまで」


 神の時間の筈だったが、体はゆっくりとながらも動かせた。それで守衛の手を引き剥がしにかかる。


「俺の邪魔無しで、ゆっくりとやろうと思ったんだな」

(時間という程のものは掛かりません。その間ここでお待ち下されば)


 売り方が、守衛の腕を剥がそうとしているのを見つめながら。


(もっとも、肉体の中にいらっしゃる貴方には、私と同じ速度で移動する事は不可能ですから、そうせざるを得ない筈ですが)

「では何故、もっと早くにそれをしなかった? 俺が病院を離れた後なら、いくらでもその機会はあっただろう」

(詳しい説明は時間が掛かりますので省きますが、要は、一旦動き始めた仕組みというものは、完了間近まで出来上がらないと、容易には取り出せないものだからです)


 その説明に対し、売り方は腑に落ちるものがあった。

 これも株価の動きと同じだ。上昇途中の株価に冷やし玉をぶつけても、その後にまた担がれるだけ。天井を打って、もうこれ以上買いが入らなくなった時点で売りを浴びせるのが常道。

 母の姿はクスリの動きの頂点を狙っているのだ、と売り方は理解した。


(確かに、その時に、貴方がその場から充分に離れた所に居て下さる事が条件ですが)

「人の心を弄ぶのは、法に反しているのではなかったのか?」


 先程の職員や、傍らの守衛を意識して売り方は言った。


「これは、決して彼らの本意ではないのだろう。それを」

(ミスター・フィドラー、稀代の相場師よ。私は貴方を失いたくないと申し上げた筈です)


 一瞬、気圧が変化したと思える程に、瞬時にして消える母の姿。

 病院に向かったのだろう。周囲はあっという間にセピア色から通常の色合いに戻った。

 そして、同時に周囲の雑音も。

 普段は聞かない、自動車のタイヤの強烈なスキール音と共に。


 そのスキール音に気をとられた守衛の一瞬の隙を、売り方は見逃さなかった。

 手を引き剥がし、通常の3倍程度に加速して、一気に建物の外に出る。

 肉体の疲労はこの際気にしていられなかった。

 放っておいては、少女の快復が無かった事にされてしまうからだ。


 だがこの程度の加速では、瞬時に移動する母の姿にはとても追いつけない。

 更に加速しようにも、生身では音の壁を突破出来ない。

 東証の横道に出た売り方は、建物の間の四角い空、母の姿が向かったであろう病院の方角に向かって、獣のように吠えそうになった。


 しかしその絶叫は、目の前の状況によって押さえ込まれた。


 病院が在る方に向かって、道路に対し斜めに止まっている、シルバーのスポーツカー。

 路面に付けられたブラックマークが、そのスポーツカーのリアタイヤに繋がっている。

 それは、先程のスキール音の主が、このスポーツカーである事を意味していた。

 そしてそれは、一昨日まで売り方が所有していたクルマ、そのものだった。


 運転席から、のろのろと出てくる初老のディーラー。

 立ち止まっていた売り方は、咄嗟に加速を最大限に上げ、その心を読んだ。

 それは困惑に満ちたものだった。


 曰く、明け方にクルマから呼ばれた様な気がした事。

 曰く、クルマに乗ると、東京に行かなければならない気がしてきた事。

 曰く、その道すがら、このクルマを誰かに預けなければならない気がしてきた事。

 曰く、それらは、このクルマの意思の様なものだと思えた事。

 最後に、クルマが急に且つ勝手に止まってしまった事。


 そして、売り方を見たディーラーから、新たな考えが浮かび上がってくる。

 それは、ああなるほど貴方でしたか、という納得だった。


「使わせてもらう」


 加速を、最大から先程までの3倍程度にまで戻し、コートを脱ぎ捨てる。

 そして、薄い笑みを浮かべるディーラーの横を風の様に抜け、車に乗り込んだ。


 そこで売り方は肝心な事に思い至った。

 シフト操作をする為の左腕が無いのだ。

 これでは、いかな売り方と言えど(そして、いかに優れたスポーツカーと言えど)、走らせるのはほぼ不可能だった。


 焦り、車内で自身の加速を再び最大にしてしまう。

 すると、あろうことか、クルマの声の様なものが売り方の心に伝わってきた。


 それは、“とりあえず、乗ったらドアを閉めろ”というものだった。

 その後のものは、言葉では表現しにくいものだった。

 それでも敢えて表現するなら、与えられた仕事に対する使命感か、または自身の存在意義に関する証明方法か、はたまた自身の機械としての優秀さを知らしめたいのか。

 とにかく、そういう様な熱い気持ちが、ダッシュボードのあたりから、運転席に居る売り方に向かって放射されていた。


 売り方は、それを、運転方法は問題では無いという意味だと理解し、最初のクルマの声の要求に従った。

 そして、スピードメーターに向かって、命令を下した。


「瞬時で病院に行け」


 次の瞬間、売り方の視界は真っ暗になった。

 強烈な加速力、いやそんな時間を要する現象ではなく、もっと根源的な事に関する要因が、神の速度近くにまで加速している売り方の意識を一瞬ダウンさせたのだ。


 そして次の瞬間、売り方はフロントウィンドウから入ってくる強烈な光に包まれた。

 反射的にブレーキを踏んだ。全力で。

 しかし、既に車は止まっていた。


 フロントウィンドウの向こう側には、病院の救急入り口を示す看板があった。


 クルマの移動が理由なのか、売り方の加速状態は解けていた。

 慌てて通常の3倍程度にまで加速し、車の外に飛び出す。

 クルマは、タイヤが全て破裂し、サスペンションは底付きしてしまっており、明るかったシルバーの塗装も、くすんだものに変わっていた。


 本当に瞬時で病院に到着してしまっていた。もはやこれは瞬間移動と言ってもいいものだった。

 売り方は、おそらくはエンジンやミッション・デフに至るまで全てが消耗しきったクルマに対し、最大限の賛辞を送った。


 そして病院に駆け込まんとする売り方。

 その時、クルマの、“大した事ではない”という謙遜が聞こえた様な気がした。



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